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埴谷雄高(1909~1997)

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埴谷 雄高(はにや ゆたか)

作家
1909年(明治42年)~1997年(平成9年)


1909年(明治42年)、台湾の新竹に生まれる。本名は、般若(はんにゃ) 豊。その後、父の転勤に伴い屏東で過ごす。幼少期は身体が弱く、常に死を身近に感じていて暮らしていた。また、台湾において「支配者としての日本人」を子供心に強く意識し、罪悪感を覚えていた。1923年(大正12年)、東京に転居。1927年(昭和2年)、目白中学校を卒業。翌年、日本大学予科に編入学。在学中、思想家マックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱く。その一方、ウラジーミル・レーニンの『国家と革命』に述べられた国家の消滅に影響を受け、マルクス主義に接近する。1930年(昭和5年)、日本大学を退学。1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。農民団体「全農全会派」のオルグ活動に参加し、逮捕を逃れて地下活動に従事する。1932年(昭和7年)、小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごした後、不敬罪および治安維持法違反によって起訴され、未決囚として豊多摩刑務所の拘置区に収監される。獄中ではカントの『純粋理性批判』やドストエフスキーの作品を読み耽り、終生のテーマとなる「自同律の不快」を得る。1933年(昭和8年)、「天皇制を認めるならマルクス主義を奉じてもよい」と検察から説得され、転向の上申書を提出。11月、懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けて出所した。釈放後は経済雑誌社で働く傍ら、母親が購入した家作の家賃や売却益で生活を送る。また、同人誌『構想』の創刊に参加し、小説「洞窟」を発表。1941年(昭和16年)、予防拘禁法によって特高に拘引され、年末まで豊多摩刑務所の予防拘禁所に拘留される。1942年(昭和17年)、伊藤敏夫の名で『ダニューブ』を翻訳。1943年(昭和18年)、ドストエフスキー『悪霊』の研究者であるウォルインスキイの『偉大なる憤怒の書』を翻訳。1945年(昭和20年)、経済雑誌社を退社。1946年(昭和21年)、山室静・平野謙・本多秋五・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄とともに雑誌『近代文学』を創刊。全十二章を構想した大作『死靈』の連載を開始。1950年(昭和25年)、腸結核を発症。『死靈』は第四章で中断となり、4年間の療養生活を送る。1956年(昭和31年)、花田清輝とモラリスト論争を繰り広げ、スターリン主義を批判。1960年代にはスターリニズム批判の先駆的存在として「永久革命者の悲哀」などの政治的考察を多く発表し、60年安保世代に大きな影響を与える。1970年(昭和45年)、『闇のなかの黒い馬』で、第6回谷崎潤一郎賞を受賞。1975年(昭和50年)、26年ぶりに『死靈』の第五章を発表。その後、1981年(昭和56年)に第六章、1984年(昭和59年)に第七章、1986年(昭和61年)に第八章と続けて発表した。1976年(昭和51年)には、『死靈』全五章で日本文学大賞を受賞した。1985年(昭和60年)、吉本隆明と第二次「政治と文学」論争を展開。1990年(平成2年)、これまでの業績により藤村記念歴程賞を受賞。1995年(平成7年)、『死靈』の第九章を発表。1997年(平成9年)2月19日、脳梗塞のため吉祥寺の自宅で逝去。享年87。『死靈』は第九章まで書き進められたところで未完のまま終わった。


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日本一難解な小説の呼び声が高い『死靈』。この作品を実に50年にわたり書き続けた埴谷雄高は、天才と変人の表裏一体さが見事に表れていた作家であった。コーヒーに砂糖やはちみつを大量に入れる、寒がりで下着と靴下を7・8枚重ね履きする、その一方暑がりでもあって夏になると外出先どこででも上半身裸になる、など伝説は枚挙に遑がない。筆者が中学生のとき、NHKで放送していた埴谷雄高の特集を見たことがあるのだが、彼が声高に「あなたはですね、お母さんの卵子とお父さんの精子から生まれたわけですね。お父さんの精子は本当を言うと、3億のうち1つしかあなたに役立たない。2億9999は無駄なんですよ。つまりあなたは兄弟殺しの上に成り立っている。この兄弟殺しがどういう夢を見ているか、あなたはわからないでしょう」と話す姿を見て、唖然としてしまったことをよく覚えている。まさに、奇人・変人・天才の三拍子が揃った巨人・埴谷雄高の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「般若家代々之墓」とあり、両側面に墓誌が刻まれている。

by oku-taka | 2017-05-21 02:50 | 文学者 | Comments(0)