2017年 05月 21日
吉田富三(1903~1973)
吉田 富三(よしだ とみぞう)
病理学者
1903年(明治36年)~1973年(昭和48年)
1903年(明治36年)、福島県石川郡浅川町本町に生まれる。生家は経済的に恵まれておらず、東北の貧しい環境で病気や出産に苦しむ庶民の姿を見て医学を志す。1915年(大正4年)浅川小学校を卒業後、上京。東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を受験するが東北訛りを理由に口頭試問で不合格となり、錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)に入学。この経験が、後の国語審議会委員就任につながることとなった。その後、第一高等学校 (旧制)を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部を卒業。その後、臨床の基礎である病理学教室に勤務するが、教室は希望者に溢れて超満員であったことから、いずれ内科に進むことを条件に無給の副手として片隅で顕微鏡を覗く生活を送る。1929年(昭和4年)、緒方知三郎の勧めで、神田の杏雲堂病院に併設されている研究施設「佐々木研究所」に入所。1932年(昭和7年)、佐々木隆興の指導の下、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌の実験を開始。世界で初の経口による人工癌である肝臓癌の生成に成功し、1934年(昭和9年)「Virchows Archiv」に佐々木と連名で肝臓癌生成結果を発表。これにより、1936年(昭和11年)に帝国学士院恩賜賞を佐々木と共同で受賞した。1935年(昭和10年)、ドイツ・ベルリン大学のレスレ教授の教室に留学。ここで、マウスの腹水に浮いている「エールリッヒ腹水癌」と呼ばれる奇妙なものを目にし、ピペットでマウスからマウスヘと移すことができる方法を知る。1938年(昭和13年)、帰国し、長崎医科大学教授に就任。留学先で知った研究を実践し、いくつかの動物にできた癌を刻んで腹腔に植えることを試みたが失敗に終わる。1943年(昭和18年)、オルト・アミノアゾトルオールを口から投与するだけでなく、亜砒酸の溶液をラットの皮膚に塗る実験を開始。4ヵ月ぐらいで左の睾丸に浸潤が起こり、ふくれた腹腔の中には白濁した腹水が詰まっており、1個ずつの細胞となって浮ぶ肉腫が発見された。さっそく他のラットに植えてみると、1匹に同じような腹水が現れたことから、このバラバラに浮かんだ癌細胞の群れは、適合するラットを選べば容易に移植されることが判明。この結果を「長崎系腹水肉腫」として発表した。これは今日まで継代移植され,癌細胞の研究や制癌剤のスクリーニングに世界中で利用されている。1944年(昭和19年)、東北帝国大学教授に就任。終戦後、「長崎系腹水肉腫」が海外に知られ、吉田の名とともに国際的に広まった。1948年(昭和23年)、日本医学会総会で「長崎系腹水肉腫」を「吉田肉腫」と改名する提案が挙げられ、満場一致で採択された。この研究で、1951年(昭和26年)に朝日賞を受賞した。1952年(昭和27年)、東京大学教授に就任。同年、アメリカで最初に開発された抗がん剤「ナイトロジェン・マスタード」を酸化し、毒性を10分の1まで軽減した国産第1号の抗がん剤「ナイトロミン」を発売した。1953年(昭和28年)、佐々木研究所の所長に就任。 佐藤春郎、佐藤博、井坂英彦、小田嶋成和といった癌研究者を育てる。同年、吉田肉腫の病理学的研究で2度目の 日本学士院恩賜賞を受賞した。1958年(昭和33年)、東京大学医学部長に就任。1959年(昭和34年)には、文化勲章を受章した。1961年(昭和36年)、国語審議会委員となり、文化面においても活躍の場を広げる。1963年(昭和38年)、癌研究会癌研究所所長に就任。同年、医学研究において優れた業績の蓄積がある者に対して与えられるロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを授与された。晩年は癌の化学療法に力を入れ、1966年(昭和41年)には国際癌学会会長に就任した。1973年(昭和48年)4月27日、肺癌のため死去。享年70。没後、勲一等旭日大綬章を追贈。
病理学の権威であり、癌研究の第一人者である吉田富三。戦前から癌の研究に取り組み、その生涯を癌研究に捧げた偉大なるパイオニアである。残念ながら今やその知名度は低いものとなってしまったが、彼がいなければ現代の癌研究はここまで進歩しなかったと言われている。癌の研究の基礎を築いた吉田富三の墓は、東京都文京区の吉祥寺にある。墓には戒名の「真徳院殿賢芳良榮居士」とあり、右に吉田の業績が記された墓誌が造られている。また、墓の右横には自身の研究で犠牲になった実験動物たちの慰霊碑「シロネズミの碑」があり、傍には「アゾ色素肝癌、吉田肉腫、腹水肝癌などの研究に手をかけてその命を絶ちたるシロネズミの数知れず、不有会員はみな心の奥にシロネズミのあの赤い眼の色を抱く。モルモット、ウサギ、ハツカネズミそのほか鳥の類まで手にかけたる命への思いは同じ、ふと現れてまた消え行きたるこれら物言わぬ生類の幻の命も命に変わりあるべしとは思へず、あはれ生ある者の命よと念じて此碑を建つ。昭和四十八年秋 不有會 代表 古希 吉田富三 識す」と書かれた供養碑が添えられている。