2017年 05月 14日
羽田健太郎(1949~2007)

羽田 健太郎(はねだ けんたろう)
ピアニスト
1949年(昭和24年)~2007年(平成19年)
1949年(昭和24年)、東京都北区に生まれる。1歳の時に父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と祖父によって育てられた。4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入隊。その後、小学校2年の時にピアノに転向し、田鎖直江を経て安藤たかに師事。安藤に3年間師事した後、北区立王子小学校の音楽教師であった志田芳久に師事する。中学2年になると、進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにし、志田に知り合いの有賀和子を紹介してもらう。その後、桐朋高校に入学。1年生の時に母親がグランドピアノを購入し、防音のために家を改築。この年の夏休みに一日12時間の猛練習をし、急速に実力を伸ばした。1967年(昭和42年)、桐朋音楽大学に進学。同年に第36回日本音楽コンクールを受けるが、第1次予選で落選。その後、ホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。1970年(昭和45年)、第39回日本音楽コンクールピアノ部門で第3位入賞。また、大学のピアノ科を首席で卒業し、卒業試験では最高点を取り桐朋音楽賞を受賞した。卒業後、クラシックピアニストの現状が非常に厳しいことを認識し、苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いから軽音楽の道に転向。有賀からは「私の弟子だったということは決してプロフィールには書かないで」と事実上の破門を言い渡された。その後、スタジオミュージシャンとしての活躍を開始。クラシック出身で指が確実に高いレベルでよく動く人材が当時は乏しかったことから非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと多くのアーティストのレコーディングに参加して録音をこなした。また、同じ頃に並行して大野雄二らにジャズ・ピアノを師事する。1978年(昭和53年)、渡辺真知子のバックバンドのリーダーとなり、彼女の初期のアルバムでピアノなどを演奏。1980年(昭和55年)、映画「薔薇の標的」と 「復活の日」で 第4回日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。1982年(昭和57年)、NHK交響楽団定期公演でリヒャルト・シュトラウスのピアノと管弦楽の協奏曲『ブルレスケ』のソリストの依頼を受ける。そのときに有賀和子へレッスンを申し込み、師弟関係を戻した。これを機に、クラシックの仕事を徐々に増やし、幅広く活躍するようになる。1988年(昭和63年)、NHK教育で放送された『趣味講座』の「ピアノでポップスを」への出演を皮きりに、音楽バラエティ番組へ積極的に出演するようになり、ポピュラー音楽の奏者へとシフトしていった。特に、『ニュースステーション』で富士山山頂からの中継や、自然豊かな森林、風情のある寺、夜桜中継など映像と音楽を調和させる演出の中で、自作の情緒あるポピュラーピアノ演奏を行い、視聴率の高いこの番組で一般人にも知られるところとなった。1990年(平成2年)放送開始のテレビ東京系列『タモリの音楽は世界だ!』では、かつらを被ってベートーヴェンの役を演じ、ピアノを弾いたり、クラシック分野からの出題を担当するなど、クラシックとポップスの橋渡し的役目を果たした。また、『フックト・オン・シリーズ』などのCD製作にも意欲的に手がけ、クラシックを気楽に聴けるよう編曲・録音にも力を入れた。その後、『おもいッきりテレビ』のコメンテーター、舞台「アーニーパイル」「ムーンリット・クラブ」のピアニスト役など、純粋なピアノ演奏以外のトークを交えた仕事も引き受けるようになり、テレビへの露出を多くして知名度を上げることでさらに仕事が増えるというパターンでコンサートなどの演奏機会を増やすことに成功した。しかし、1998年(平成10年)12月から慢性的な飲酒がたたって体調を崩し、『ニュースステーション』を一時降板。その後は飲酒は一切やめたが、体調不良のため不定期にコンサートのキャンセルを余儀なくされる。療養後の演奏活動としては、純粋なクラシック演奏会を自主的に開催し、ピアノ三重奏やピアノ協奏曲などを積極的に取り上げるなど、クラシック音楽への原点回帰を思わせた。また、健康が許せばピアノ独奏・前田憲男、佐藤允彦との共演による『トリプルピアノ』主体の演奏会を開いていたが、後に指揮者へと傾向を変えた。2000年(平成12年)、『題名のない音楽会』の司会を武田鉄也から引き継いで就任。晩年は、ソロコンサートと同時にジョイントコンサート、指揮者としての出演が多く、また長女・羽田紋子(声楽家)とのジョイントコンサートを多く行った。しかし、2007年(平成19年)4月、体調悪化に伴い入院。同時に『題名のない音楽会21』への出演を見合わせ、休養に専念するようになる。6月2日、午後11時53分、肝細胞癌のため東京都新宿区の病院で死去。享年58。


筆者のイメージとしては、「題名のない音楽会」の司会や「渡る世間は鬼ばかり」のテーマソングの作曲としての印象が強い羽田健太郎。彼の没後、音楽界の権威である「日本音楽コンクールピアノ部門」で3位に入賞していたことや、1970年~80年代のポップス黄金期に多くのアーティストのレコーディングに参加していることを知り、音楽界に多大な業績を残していることに驚いた。渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』、沢田研二の『勝手にしやがれ』、五輪真弓の『恋人よ』、これらヒット曲のピアノを羽田健太郎が弾いているなんて多くの人はおそらく知らないであろう。これだけの功績なのに少しも偉ぶることなく、いつもニコニコと明るいキャラクターでお茶の間を楽しませてくれた。それだけに、58歳という早すぎる死が実に惜しまれる。羽田健太郎の墓は、東京都港区の善福寺にある。墓には「羽田家」とあり、右側面に墓誌が刻まれ、カロート部分には生前に型取りした羽田自身の手形が彫られている。戒名は「妙音院釋穏健」。

