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園山俊二(1935~1993)

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園山 俊二(そのやま しゅんじ)

漫画家
1935年(昭和10年)~1993年(平成5年)


1935年(昭和10年)、島根県松江市外中原町に生まれる。幼少期は活発な少年でフナ釣りやトンボ捕りに明け暮れ、小動物などの生き物が大好きな少年として育つ。島根大学教育学部附属中学校に進学するとボーイスカウトに参加し、登山や自然の中での野外キャンプに夢中になる。その一方で、絵を描くことにも夢中になり、小学校一年生の時には漫画を描いて友人などに見せるなどをしていた。その後、島根県立松江高等学校(現在の松江北高等学校)を卒業し、早稲田大学商学部に進学。在学中、後輩の福地泡介、東海林さだおらと共に、早稲田大学漫画研究会を創設した。1958年(昭和33年)、学内での展覧会を通じて知己を得ていた毎日小学生新聞の編集者にスカウトされ、同紙で『がんばれゴンベ』の連載を開始し、プロとしてデビュー。大学卒業後、しとうきねおの世話で広告代理店に就職するも「自分は勤め人にそぐわない性格」という判断を自らで下し、入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らず、そのまま辞職した。以降、専業の漫画家として、児童漫画および大人漫画の連載作品を多数発表。1961年(昭和36年)、寺田ヒロオの紹介で、第2次新漫画党に参加。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める。1965年(昭和40年)、雑誌『漫画サンデー』に『ギャートルズ』の連載を開始。翌年には『科学と学習』に『はじめ人間』の連載をスタートさせるなど、ギャートルズシリーズは1984年(昭和59年)まで続く人気作品となった。その後も、『花の係長』、『さすらいのギャンブラー』、『ペエスケ』といった作品を次々に発表。また、1974年からはテレビアニメ『はじめ人間ギャートルズ』の放送が開始し、園山の人気は不動のものとなった。1976年(昭和51年)、 第22回文藝春秋漫画賞を受賞。1977年(昭和52年)、『がんばれゴンベ』で第6回日本漫画家協会賞特別賞を受賞した。漫画家として活動する一方、1982年(昭和57年)には日本自然保護協会の理事に就任し、宍道湖の淡水化計画に反対する活動を行った。1989年(平成元年)11月、肝臓にできた「コワイモノ」の除去手術のため入院。その後、入退院を繰り返し、1992年(平成4年)7月には長期の入院・加療のため多くの連載の中断・終了を決める。『がんばれゴンベ』は連載通算9775回まで到達しており、朝日新聞の『ペエスケ』は連載期間が13年間にも及んだ。『ペエスケ』を長期連載していた同年12月17日付の『朝日新聞』等では、「ぎっくり腰の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行であった。当時の園山は見舞客に「肝硬変」あるいは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は追悼コメントにおいて、実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている。1993年1月20日、肝不全のため死去。享年57。没後、勲四等瑞宝章が追贈された。


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飄々としたタッチでユーモラスな日常を描いて人気を集めた漫画家・園山俊二。『はじめ人間ギャートルズ』で一世を風靡した彼は、学生時代に受けた手術時の輸血で肝炎に感染し、最期は肝臓ガンとの闘いを余儀なくされた。亡くなる10日前、見舞いに訪れた親友の藤子不二雄Aに絞り出すような声で「マンガが描きたいんだよう」と、右手で宙にペンを走らせる仕草を見せて訴えたという。57歳での旅立ちは、さぞかし無念であったことだろう。漫画を愛した男・園山俊二のお墓は、東京都世田谷区の高源院にある。墓には「園山家之墓」とあり、左側に『ペエスケ』の愛犬ガタピシと『がんばれゴンベ』の主人公ゴンベが彫られた墓誌が建つ。戒名は「月照院梅園俊道居士」。


by oku-taka | 2017-05-07 00:39 | 漫画家 | Comments(0)