2017年 05月 06日
山田風太郎(1922~2001)
山田 風太郎(やまだ ふうたろう)
作家
1922年(大正11年)~2001年(平成13年)
1922年(大正11年)、兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)に生まれる。本名は、山田 誠也(せいや)。父母ともに代々医者の家系で、父・太郎は同地で「山田医院」を開業していたが、5歳の時に脳卒中で急死。9歳で島根県の諸寄村に転居したが、11歳のときに母親が亡父の弟であり、同じく医師となっていた叔父と再婚し、山田医院を再開したことから故郷の関宮へ戻る。幼少期は絵と作文が得意で、「少年倶楽部」の挿絵をさかんに模写するなど、早くも非凡な才能を見せ始めていた。1935年(昭和10年)、兵庫県立豊岡中学校(現在の兵庫県立豊岡高等学校)に入学。寮生活を始めた翌年、母・昭子が肺炎により死亡。その後、叔父は別の女性と再婚するが、叔父夫婦に馴染めず、誠也は不良学生となってしまう。停学3回、修学旅行にも行けず、寮も追い出されたことから、叔父夫婦に養われることになる。1939年(昭和14年)、雑誌「映画朝日」に初めて山田風太郎の筆名で投稿。ペンネームの「風太郎」は、仲間内で使った暗号名「雷・雨・雲・風」の「風」から取った。1940年(昭和15年)、豊岡中学を卒業したものの旧制高等学校の受験に失敗。更に2年間浪人するも志望校への合格はならず、1942年(昭和17年)8月に半ば家出状態で上京した。その後は品川の電気工場で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)に東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に合格。途中、徴兵検査を受けたが、肋膜炎のために丙種合格とされ、入隊を免れた。この件について、後に山田は「列外の者」とされたと捉え、内面に「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと語っている。入学後は虚無的な青年として、読書を心の支えに戦時下の生活を送る。1945年(昭和20年)5月には空襲で焼け出され、山形に避難。その後は学校ごと長野県の飯田に疎開するが、敗戦の前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論し、戦争継続を訴えた。終戦後の10月には帰京するが、食料と物資の欠乏で辛酸をなめる。1946年(昭和21年)、生活のために雑誌『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選。江戸川乱歩に認められ、正式に作家デビューを果たす。あちこちの雑誌に推理小説などを発表し始める。1949年(昭和24年)、『眼中の悪魔』と『虚像淫楽』で、第2回日本探偵作家クラブ賞を受賞。1950年(昭和25年)、東京医科大学を卒業したものの、医師になることは自ら不適と決め作家の道に進む。その後は、戦後の荒廃した世相を背景とした推理小説を中心に、多数の短編を発表。また、同期の作家である高木彬光との合作小説『悪霊の群』を執筆するなど活動を続け、山田は、高木、島田一男、香山滋、大坪砂男らと並び「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。1958年(昭和33年)、『甲賀忍法帖』を発表。これ以降、安土桃山時代から江戸時代を舞台とし、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた忍法帖シリーズを次々に発表。1963年(昭和38年)には『山田風太郎忍法全集』が発表され、累計300万部を売り上げる大ベストセラーとなった。これにより作品が次々と映画化され、山田は人気作家の地位を不動のものとした。1971年(昭和46年)、戦時下に書いた日記が『戦中派不戦日記』として出版され、純真な一青年の手になる戦中・戦後の希有な記録として大きな反響を呼んだ。1973年(昭和48年)、雑誌『オール讀物』で明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載をスタート。その後も『警視庁草紙』、『幻燈辻馬車』といった「明治もの」を次々と発表し、1986年(昭和61年)発表の『明治十手架』まで続いた。同年、著名人の臨終の様をまとめ、死亡年齢順に並べた異色のノンフィクション「人間臨終図巻」を刊行し、話題となる。1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした「室町もの」と呼ばれる作品群を発表。『婆沙羅』、 『室町お伽草紙』と精力的に執筆活動を行ってきたが、この頃から白内障や糖尿病、パーキンソン病と次々に病を患い、1991年(平成3年)発表の『柳生十兵衛死す』が最後の作品となった。1997年(平成9年)、第45回菊池寛賞を受賞。2000年(平成12年)、第4回日本ミステリー文学大賞を受賞。2001年(平成13年)7月28日、肺炎のため死去。享年80。
古典伝奇文学に奇想天外なアイデアを用いて、独自の視点で再構成した大衆小説を多く発表した戦後日本を代表する娯楽小説家の一人、山田風太郎。「エロ・グロ・ナンセンス」の三拍子をいち早く小説に取り入れたり、それまで誰も題材にすることがなかった明治・室町時代ものに挑戦したりと、文学界の開拓者でもあった。作家の中島らもは、偉人伝しか読んでなかった少年期に山田風太郎の忍法帖シリーズと出会い、その後の人生が大きく変わったと、後にテレビで語っている。多くの人に強い影響を与えた山田風太郎の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。三角おにぎりのような墓には「風ノ墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は生前に自身が決めていたという「風々院風々風々居士」。