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菊田一夫(1908~1973)

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菊田 一夫(きくた かずお)

劇作家
1908年(明治41年)~1973年(昭和48年)


1908年(明治41年)、神奈川県横浜市に生まれる。本名は、菊田 数男。生まれてすぐ西郷姓の一家に養子に出され、生後4ヵ月で台湾に渡る。しかし、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になる。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで大阪・平野町の薬種問屋「岸田市兵衛商店」に売られ、年季奉公となる。その後、岸田市兵衛商店を飛び出し、神戸・元町の古物・美術商の小僧となる。丁稚として働く傍ら夜間の実業学校に通い、その一方で詩の同人雑誌に寄稿するなど文学を志すようになる。1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、萩原朔太郎やサトウ・ハチロー、林芙美子、小野十三郎らと出会う。1927年(昭和2年)、正式にサトウハチローの門下生となり、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る。1930年(昭和5年)、処女作『阿呆疑士迷々伝』が浅草玉木座で上演され、劇作家デビューを果たす。その後、金竜館、オペラ座、常盤座など浅草を本拠として榎本健一、古川緑波、徳川夢声らに喜劇を多数執筆。1933年(昭和8年)には、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」の座付き作家となる。1936年(昭和11年)、前年に東宝へ移籍した古川緑波に招かれ、菊田も東宝に移籍。1943年(昭和17年)、大阪を舞台にした現代劇『道修町』がヒット。翌年には『花咲く港』が話題になるなど、戦時下体制化でも手がけた作品が相次いでヒットし、東宝文芸部の主力となった。戦後は、作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のラジオドラマや映画を手がけ、多くのヒット作品を世に送り出した。特に、1947年(昭和22年)7月から3年半にわたって放送されたNHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、川田正子が歌った主題歌『とんがり帽子』とともに大流行し、翌年には松竹によって映画化された。この歌のヒットにより、菊田は歌謡曲の作詞も行うようになり、二葉あき子の『フランチェスカの鐘』(1948年・昭和23年)、伊藤久男の『イヨマンテの夜』(1949年・昭和24年)といった曲をヒットさせている。1957年(昭和27年)、ラジオドラマ『君の名は』の放送が開始。放送の開始時間になると「銭湯の女湯が空になる」と言われるほどの大ブームを巻き起こし、松竹で映画化がされるほどの大ヒットを記録し、日本放送史の金字塔ともいえる作品となった。1955年(昭和30年)、東宝の取締役に就任。1957年(昭和32年)には芸術座を開館し、東宝演劇部の総帥としての仕事のかたわら、映画や帝劇・宝塚歌劇などの舞台の原作・脚本・演出など精力的な活躍を続け、数々の名作を世に送り出した。舞台においては、1959年(昭和34年)に『がめつい奴』、1961年(昭和36年)に『放浪記』を発表した。それらの功績から、1960年(昭和35年)に菊池寛賞、1961年(昭和36年)に芸術選奨を受賞した。また、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の上演権を獲得。1963年(昭和38年)に同作を翻訳上演し、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを舞台に上げた。 1966年(昭和41年)、『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、新装開場した帝国劇場で上演。1970年(昭和45年)には、同作をミュージカル化した『スカーレット』を、日本のみならずロンドンやパリで公演した。晩年は糖尿病と闘いながらの活動となり、1973年(昭和48年)4月4日、糖尿病に脳卒中を併発し、死去した。享年66。


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日本の演劇史に燦然と名を残す伝説の劇作家、その名を菊田一夫。「鐘の鳴る丘」「君の名は」「放浪記」と、今なお知名度の高い名作を次々と世に送り出し、日本にミュージカルを根付かせるなど、現在の商業演劇の方向を決定づけたカリスマである。その一方で厳しい演技指導で始終癇癪を起こしては役者を震え上がらせ、私生活では様々な女性と浮名を流すなど、話題に事欠かない人でもあった。それは、辛酸をなめた想像を絶する育歴と、自分の人生を変えてくれた演劇への愛があるが故の行動だったのかもしれない。庶民に寄り添い、幅広い層から支持された劇作家の墓は、東京都八王子市の上川霊園と、東京都世田谷区の九品仏浄真寺の2ヵ所にある。前者の墓には「妙法 菊田家累代之霊」とあり、右側に墓誌が建つ。左側には、「君の名は」の冒頭にあるセリフ“忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ”の一文が刻まれた碑がある。一方、九品仏浄真寺の墓には「菊田一夫」とあり、反対側に没年月日が刻まれている。こちらは、前妻で女優の高杉妙子との間に生まれた長女・伊寧子(現在は作曲家として活動)と次女によって建立されたもののようである。戒名は「久遠院法晶日夫居士」。


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by oku-taka | 2017-05-04 23:52 | 文学者 | Comments(0)