2017年 05月 04日
加瀬邦彦(1941~2015)

加瀬 邦彦(かせ くにひこ)
ミュージシャン
1941年(昭和16年)~2015年(平成27年)
1941年(昭和16年)、東京都渋谷区に生まれる。慶應義塾高等学校1年生のとき、東京都から茅ヶ崎市に移住。これが縁でアメフト部の先輩の紹介で俳優・上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三と出会う。加山との出会いで音楽の世界を志すようになり、加山にギターを習うようになる。1961年(昭和36年)、バンド「ザ・トップビーツ」を結成。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらと「キャノンボール」を結成する。1963年(昭和38年)には事務所の命令により、かまやつひろしと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いを受けて約3カ月で脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入。1966年(昭和41年)、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることとなり、 ビートルズサウンドへの志向が強くなっていた加瀬は大いに喜ぶ。しかし、厳戒態勢下でのコンサートのため、前座のバンドは演奏後、楽屋に外からカギをかけられ、ビートルズの演奏終了後に開錠されるという措置が取られた為、加瀬は「それではビートルズの演奏が見られない」とブルージーンズを脱退してしまう。 所属していたホリプロは加瀬を引きとめ、給料を支払い続けていたが、「ただで給料をもらうのも申し訳ない」と、渡辺プロに移籍。その後、雑誌『平凡パンチ』でメンバーを募集し、同年7月「ザ・ワイルドワンズ」を結成。11月に『想い出の渚』でレコードデビューを果たす。その後、グループ・サウンズブームに乗り、『青空のある限り』『愛するアニタ』とヒットを連発。1968年(昭和43年)には、当時16歳だった渡辺茂樹が加入し、『バラの恋人』がヒットした。しかし、1971年(昭和46年)に神田共立講堂で行われた公演でワイルドワンズを解散。その後は作曲家に転身し、布施明の『甘い十字架』(1973年・昭和48年)、小柳ルミ子の『冬の駅』(1974年・昭和49年)といったヒット曲を生み出す。また、盟友である沢田研二のプロデューサーとなり、『危険なふたり』(1972年・昭和47年)や『TOKIO』(1980年・昭和55年)といった楽曲の提供のみならず、作詞家としてコピーライターの糸井重里を起用し、パルコCFへの出演を推進するなど、彼の黄金期を支えた。1981年(昭和56年)、日本劇場取り壊しに伴う「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」にザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚茂樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー4名でザ・ワイルドワンズを再結成。その一方、「ケネディハウス銀座」のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズのプロデューサーとしても活躍した。1994年(平成6年)、食道がんを発症。食道と胃の3分の2を摘出し、細くした胃とのどをつなげる手術を受けた。一度は寛解状態となり、晩年も精力的に音楽活動をしていたが、2014年(平成26年)に下咽頭癌を発症。加山雄三から命を優先するように勧められたことから声帯を切除し、手術後は食道発声法を練習していたが、同年7月に音楽活動の休止を発表。2015年(平成27年)4月20日午後9時、自宅の洗面所の前で喉につけていた呼吸器のチューブがふさがれた状態で倒れているところを家族が発見。洗面所で患部に水を入れ、自ら命を絶ったとみられている。享年74。

得意の12弦ギターの音色でグループサウンズブームを盛り上げ、パンチのあるロックテイストを含ませた哀愁調のメロディーで多くのヒット曲を生み、何より沢田研二の名プロデューサーとして彼の黄金期を支えた加瀬邦彦。それだけに、自殺というあまりに悲しい最期を選んでしまったことが残念でならない。音楽に魅せられ、音楽ひとすじに生きてきた彼だけに、声帯を失ってからの人生は非常に苦しいものだったのかもしれない。日本の音楽シーンに多大な貢献を残した加瀬邦彦の墓は、東京都文京区の護国寺にある。墓には「加瀬同族之墓」とある。墓誌はない。戒名は「常樂院悠照清邦居士」。

