2017年 05月 03日
中村八大(1931~1992)

中村 八大(なかむら はちだい)
作曲家
1931年(昭和6年)~1992年(平成4年)
1931年(昭和6年)、中国・青島で生まれる。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで、1940年(昭和15年)の春に日本へ単身留学し、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし、技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿や浅草などの劇場に足しげく通っていた。その後、太平洋戦争が始まると、空襲などから音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年(昭和18年)の夏に青島へ引き揚げた。1945年(昭和20年)には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える。戦後は、旧制中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成し、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いて過ごす。1948年(昭和23年)、当時売れっ子の作曲家であった利根一郎が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた兄(後のクラリネット奏者・中村二大で、当時早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。1949年(昭和24年)には上京し、早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『赤玉』に1ヶ月、『谷口安彦とプレミア・スウィング』のメンバーとして赴く。1950年(昭和25年)、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生。中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退し、1953年(昭和28年)に中村、松本、ジョージ川口、小野満の4人で『ビッグ・フォー』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催。1954年(昭和29年)には、文化放送でレギュラー番組『トリス・ジャズ・ゲーム』を持つに至った。しかし、1950年代後半に入ると、ジャズが芸術性・前衛性を強めるとともに大衆性を失い、ジャズ自体の人気が下降線をたどり始める。中村はジャズ復興を賭け、ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げて自主リサイタルの開催を決意するも、意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備や譜面の完成などが遅れ始める。精神的に追い詰められた中村は薬物に手を出すまでになり、結果1958年(昭和33年)に産経ホールで開かれた『中村八大リサイタル』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとって無残な失敗に終わった。その後、薬物依存から脱し、かつて袂を分かった渡辺に頭を下げ、映画の音楽担当の仕事を受ける。中村は大喜びで引き受けたが、東宝側の山本紫朗からオーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められてしまう。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会い、そのまま中村の自宅で10曲分の歌詞とメロディーを制作し、そこから二人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行。山本に作品が認められ、中村は音楽監督に採用された。以降、二人は「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく。1959年(昭和34年)、東宝映画『青春を賭けろ』の主題歌で、水原弘が歌った『黒い花びら』が大ヒット。同曲は、この年から始まった第1回日本レコード大賞にノミネートされ、審査を勝ち抜き、大賞に輝いた。1961年(昭和36年)、4月からスタートしたNHKのバラエティー番組『夢であいましょう』の音楽担当に就任。この番組で自らもテレビ出演するとともに、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」(1962年・昭和37年)、デューク・エイセスの「おさななじみ」(1963年・昭和38年)といった曲を発表し、ヒットさせている。中でも、坂本九が歌った『上を向いて歩こう』(1961年・昭和36年)は、1963年(昭和38年)に米国チャートで1位に輝く大ヒットを記録し、日本の音楽が世界に通用することを証明した。しかし、この年の秋に過労がたたって十二指腸潰瘍で入院。その間に発売された梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』で、2度目のレコード大賞を受賞した。翌年夏から1年間をニューヨークで過ごし、休養を兼ねて世界の音楽を学ぶ。1966年(昭和41年)第1回リオ・デ・ジャネイロ国際ポピュラー音楽祭に江利チエミの歌による「私だけのあなた」を出品し、最優秀オーケストラ編曲賞を受賞。この頃から、子供の頃からの夢であった交響曲に取り組み始め、1970年(昭和45年)には初のクラシック作品「交響曲ヘ長調」を発表した。同年、NHKの音楽番組「ステージ101」の音楽監督に就任。同番組に出演したグループ、シング・アウトが歌った「涙をこえて」が、前年に開催されたヤマハ主催の第1回合歓ポピュラー・フェスティバルでグランプリに輝いた。同フェスティバルでは、第2回大会で雪村いづみが歌った「涙」がグランプリとなり、第3回大会には自身の作詞・作曲による「太陽と土と水と」で特別賞を受賞している。また、社会的作品として環境問題をテーマにした『水の歌』にも取り組み、構成に谷川俊太郎を迎え入れたリサイタルを開くなどの活動を展開した。1971年(昭和46年)、糖尿病を発症。晩年は糖尿病と闘いながら音楽活動を続けていたが、その後うつ病も発症し、次第に音楽活動の一線からは退いていた。1992年(平成4年)6月10日、心不全のため死去。享年61。没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「涙をこえて」など、今なお多くの人に愛唱されている名曲を数多く生み出した作曲家・中村八大。時に切なく、時に明るく、そして誰もが口ずさめるメロディーをお茶の間に届けたホームソングの大家である。それだけに、61歳というあまりに早い旅立ちは残念である。中村八大と共にポップス黄金期を支えた作曲家の宮川泰は、偉大なる先輩と前置きした上で「みんなで楽しく口ずさんで歌えるような歌、明るい歌っていうのがいいんでしょうね」と、彼の作品を評した。そんな宮川泰も、今は亡き人である。中村八大の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「中村家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「浄奏院法永学雄日大居士」。

