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忌野清志郎(1951~2009)

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忌野 清志郎(いまわの きよしろう)

ミュージシャン
1951年(昭和26年)~2009年(平成21年)


1951年(昭和26年)、東京都中野区に生まれる。本名は、栗原 清志。3歳のときに母親が亡くなり、伯母夫婦に養子として引き取られ、国分寺市で育つ。国分寺市立第三中学校在学時代、エレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Name」を結成し、音楽活動を始める。その後、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(後の林小和生)、桶田賢一(後の破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成する。国分寺市立第三中学校卒業後、東京都立日野高等学校に進学。高校時代は物静かな少年であったが学校に馴染めず、あと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。その一方で、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。その後、バンドの解散と再編を繰り返した後、1968年(昭和43年)に「R.C.サクセション」を結成。1970年(昭和45年)、フォークグループ「RCサクセション」としてシングル『宝くじは買わない』でデビュー。このとき、幼少期に観たテレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」の悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを「カッコイイ言葉だな」と感じたことから、芸名を「忌野清志郎」とする。1972年(昭和47年)、シングル「僕の好きな先生」がスマッシュヒット。しかし、その後ヒットに恵まれず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。その間、清志郎は井上陽水との共作『帰れない二人』『待ちぼうけ』、かぐや姫への作詞提供『あの唄が想い出せない』などの印税で糊口を凌いだ。1976年(昭和51年)、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍し、スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化し、メンバーの脱退と加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。1978年(昭和53年)半ば頃から、徐々にライブハウスでの人気が出始める。この時期から、デヴィッド・ボウイ、グラムロック一派、ミック・ジャガー等の影響でメイクを始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。1980年(昭和55年)、シングル『雨あがりの夜空に』『トランジスタ・ラジオ』、アルバム『RHAPSODY』がヒット。RCサクセションはメディアの寵児として取り上げられることになる。1982年(昭和57年)、清志郎はソロで坂本龍一と組み、シングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動するようになる。1984年(昭和59年)、この時期の事務所の対応に不満を募らせ、事務所「りぼん」から独立。翌年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞してしまう。1987年(昭和62年)、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』を発表。1988年(昭和63年)、RCサクセションのアルバム『COVERS』が、収録曲の「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」で核問題と原子力発電の問題が歌われていたことから、所属していたレコード会社の東芝から圧力がかかり、発売中止となる。発売中止騒動を受け、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り参加するなど、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。特に、1989年(平成元年)に清志郎がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM仙台とFM東京で放送禁止になった事件を受け、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションでフジテレビ系の音楽番組「ヒットスタジオR&N」に出演した際、FM東京とFM仙台を放送禁止用語を交えて罵倒する歌に差し替えるという荒業を見せて話題になった。同じ頃、RCサクセション内でメンバーの脱退・加入が激しくなり、1991年(平成3年)にRCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散し、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立した。RCサクセションの活動休止以降は、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩く一方、俳優としての活動も始める。1994年(平成6年)にプライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立。同年、映画『119』に音楽監督として参加し、1995年(平成7年)の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞した。2000年(平成12年)にはサイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(Long Slow Distance)を結成。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。2006年(平成18年)、公式ウェブサイト「地味変」にて喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止する。 現代医学による治療計画では、胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での完治を図り、入院後2週間で代替医療へと治療法を変更。2007年(平成19年)1月、石田長生のライブにシークレットゲストとして出演して以降、徐々に活動を再開。2008年(平成20年)2月10日には、日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開した。しかし、7月14日、公式ウェブサイト「地味変」にて左腸骨への癌の転移を発表し、再びライブ活動を休止。 通院して治療に専念する一方で、楽曲提供や他ミュージシャンのレコーディング参加、ライブへの飛び入り参加などを続けていた。11月、当時アースマラソンに挑戦していた間寛平への応援歌を描き下ろし、自身の作品としては2年ぶりにレコーディングを行い、Booker T. & THE MG'sのライブに飛び入りするなど徐々に音楽活動を再開。2009年(平成21年)2月には、FM802のキャンペーンソング「Oh! RADIO」を書き上げたが、次第に体調が悪化。 その後、東京都内の病院に入院。5月1日午後に容態が急変し、5月2日午前0時51分に癌性リンパ管症にて死去した。 享年58。


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ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドと、そのステージ上における圧倒的な存在感から「ザ・キング・オブ・ロック」の異名を取った忌野清志郎。今日5月2日は彼の命日にあたる。早いもので没後8年を迎えたわけだが、Twitterのトレンドに彼の名がランクインされるなど、今なお人気は衰えていない。筆者が彼の墓を訪れたときも、色とりどりの花々が供えられていた。忌野清志郎の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。墓には、おそらく直筆であると思われるサイン「忌野清志郎」が彫られており、右側面に墓誌が刻まれている。戒名は「忌野清志郎」。かつて過激な音楽で放送禁止や発売中止を度々起こしてメディアを賑わせた男は、いま高尾の自然に抱かれながら静かな眠りについている。しかし、レンガと西洋風フェンスの外柵と、独特な形をした御影石で造られた墓は、異彩な存在感を放っており、見る者の目を釘付けにする。さすが忌野清志郎である。


by oku-taka | 2017-05-02 23:00 | 音楽家 | Comments(0)