2017年 05月 02日
八代目・橘家圓蔵(1934~2015)

八代目・橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)
落語家
1934年(昭和9年)~2015年(平成27年)
1934年(昭和9年)、東京府東京市(現在の東京都江戸川区)平井に生まれる。本名は、大山 武雄。小松川小学校(現在の平井小学校)卒業後、家業の紙芝居屋を手伝っていたが、やがて落語に興味を抱くようになり、1957年(昭和33年)、四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)に入門。橘家竹蔵として前座デビューを果たす。また、師匠の名を受け、八代目桂文楽の薫陶も受ける。1955年(昭和30年)、二つ目に昇進し、橘家舛蔵と改名。 1965年(昭和40年)、真打に昇進し、五代目月の家圓鏡を襲名。この頃から、高座、ラジオ、テレビ、CMと大活躍し、旦那衆相手にヨイショで稼ぎまくっていたことから「ヨイショの圓鏡」の異名で呼ばれた。また、持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。落語界においては、従来の寄席演芸のタブーを破って黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がり、兄弟子の初代・林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、愛妻の節子夫人をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケるなど、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝と共に「落語四天王」と呼ばれた。1978年(昭和53年)には、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。しかし、同年に起きた落語協会分裂騒動で、師匠である七代目圓蔵の無節操な言動に翻弄され、騒動の原因を作った六代目三遊亭圓生の一門、三代目古今亭志ん朝一門、圓蔵一門と共に、落語協会を脱退。その後、落語協会復帰は許されたものの、実質的な圓蔵一門の看板として後始末などで大変な苦労をする羽目になった。1980年(昭和55年)、七代目圓蔵が死去。そのわずか2年後の1982年(昭和57年)、圓蔵の名跡に付いてしまった悪印象の払拭を期待され、異例の性急さで八代目圓蔵を襲名した。八代目襲名後は、次第に寄席に比重を移し、タレント的な面白落語家から本格的な面白落語家を目指すようになる。落語家としての基礎と骨格を一段と鍛え整えるため、マスコミ仕事を控えて独演会等をスタートさせるなど、古典に磨きをかけた。晩年は高齢のため全盛期のような口演が困難となり、2012年(平成24年)頃からは高座への出演を控えていた。2015年(平成23年)10月7日、心室細動により死去。享年81。


長いことその名前に親しんでしまうと、たとえ大名跡を継いでもつい前の名前で呼んでしまうことがある。個人的に八代目橘家圓蔵もその一人で、つい前の名前である円鏡と呼んでしまう。裏を返せば、それだけ落語家・タレントとして円鏡の存在は大きかったということである。「お笑い頭の体操」にはじまり、ラジオ「談志・円鏡 歌謡合戦」、「3日に一度は焼肉料理」で有名になったエバラ焼肉のたれのCM、メガネクリンビューのCMなど、落語家タレントの代表格として目覚ましい活躍を遂げた。そんな橘家圓蔵の墓は、東京都江東区の長寿寺にある。墓には「八代目 橘家圓蔵」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「鏡光院武儔圓蔵居士」。訪問前まで、彼の墓は「大山家之墓」だと勝手に思っていたが、刻まれていたのは「八代目 橘家圓蔵」であり、橘家圓蔵としての彼のこだわりと八代目としてのプライドを感じさせられた。

