人気ブログランキング | 話題のタグを見る

徳川夢声(1894~1971)

徳川夢声(1894~1971)_f0368298_01070239.jpg

徳川 夢声(とくがわ むせい)

漫談家
1894年(明治27年)~1971年(昭和46年)


1894年(明治27年)、島根県益田市に生まれる。本名は、福原 駿雄(ふくはら としお)。警察官であった父の影響で、1歳で津和野に移り住み、3歳の頃に上京。その後、母親に捨てられ、同居していた祖母によって育てられる。幼少の頃から話術が達者で、当時演じられていた落語をほとんど覚えていたという。その後、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)を卒業したが、一高(現在の東京大学教養学部)の入学試験に二度失敗。憧れの落語家になるため三遊亭圓子の元に入門を決意するも、父親に反対され、1913年(大正2年)に活動写真(無声映画)の弁士となる。同年、日活第二福宝館で清水霊山に師事し「福原霊川」を名乗る。1914年(大正3年)、秋田の映画館で主任弁士を3カ月つとめた後、1915年(大正4年)に帰京して新宿の映画館の主任をつとめる。しかし、すぐに映画館がつぶれ、再度、秋田の映画館に2カ月でかける。1915年(大正4年)、赤坂葵館に主任弁士として迎えられる。このとき、支配人が勝手に芸名を徳川と名付けたことを機に「徳川夢声」と改名。1921年(大正10年)、日本で初公開のドイツ表現派の映画『カリガリ博士』の弁士を務め、1925年(大正14年)に新宿武蔵野館へ入った頃には、東京を代表する弁士として人気を博す。一方、ストレスのため酒量が増え、20代で早くもアルコール使用障害になり、酒の上での失敗を繰り返す。さらに、昭和の時代になって音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、夢声は漫談や演劇に転じる。1933年(昭和8年)、弁士を廃業し、古川ロッパらと劇団「笑の王国」を結成したが、意見の相違ですぐに脱退。1937年(昭和12年)、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加するも、新劇俳優としての夢声については悪評の嵐であり、文学座を退団。映画にも俳優として出演するが、活路を見出すことはできなかった。1939年(昭和14年)、NHKラジオで吉川英治の『宮本武蔵』の朗読を担当し、独特の間とテンポで人気を博す。文筆にも優れ、「新青年」などにユーモア小説やエッセイを多数執筆。1938年(昭和13年)と1949年(昭和24年)には直木賞の候補にもなった。また、詳細な日記を日々つけており、その一部は『夢声戦争日記』として出版され、戦時下の生活の貴重な資料となっている。戦後は新しいメディアの波に乗り、ラジオのみならずテレビでも活躍。NHKテレビの『私だけが知っている』『こんにゃく問答』などに出演し、日本におけるテレビ創成期の立役者のひとりとなった。1951年(昭和26年)、週刊朝日で連続対談「問答有用」の連載がスタートし、1958年(昭和33年)まで続く人気企画となった。1955年(昭和30年)、各方面での活躍が認められ、第3回菊池寛賞を受賞。1957年(昭和33年)には紫綬褒章、1967年(昭和42年)に勲四等旭日小綬章を受章した。1971年(昭和46年)8月1日、脳軟化症に肺炎を併発して死去。享年77。


徳川夢声(1894~1971)_f0368298_01070217.jpg

「話術の天才」と評された元祖マルチタレント・徳川夢声。映画の弁士、ラジオと芸能界を渡り歩き、テレビ草創期には数多くのバラエティー番組で司会を務め、放送文化に多大な貢献をした。彼が亡くなって早40年、今やその存在が忘れられつつある偉大な放送人の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「福原家累代之墓」とあり、右には「夢」と彫られた碑が建つ。

by oku-taka | 2017-04-07 22:16 | タレント | Comments(0)