2017年 02月 19日
島倉千代子(1938~2013)

島倉 千代子(しまくら ちよこ)
歌手
1938年(昭和13年)~2013年(平成25年)
1938年(昭和13年)、東京市品川区北品川に生まれる。1945年(昭和20年)、長野県松本市に疎開中、井戸から水を運ぶ途中で転倒。水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母のナカが「女の子だから腕を残して欲しい」と医師に懇願して切断は免れたが、47針を縫い、感覚も無く、動かすこともできなくなる。気持ちの沈んだ千代子のために、母・ナカは『リンゴの唄』を歌って励ました。1947年(昭和22年)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったものの小児麻痺を患っていたことから歌手にはなれず、大好きな姉のために自分が歌手になることを決意。敏子から声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当していたが、歌唱力があったことからボーカルにも起用された。1950年(昭和25年)、童謡『お山のお猿』でレコードデビュー。ただし、誤植により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。1953年(昭和28年)、品川区の日本音楽高等学校に入学。この頃から歌謡コンクールへ積極的に参加するようになり、翌年にはコロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、専属契約を結ぶ。1955年(昭和30年)、本名の「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲の『この世の花』は、売上200万枚を記録し、一気に人気歌手の仲間入りを果たす。その後、『りんどう峠』、『東京の人さようなら』と立て続けにヒットを連発。1957年(昭和32年)には、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。その後も、『からたち日記』、『哀愁のからまつ林』とヒットを飛ばし、1960年(昭和35年)のNHK紅白歌合戦では、美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務めた。1961年(昭和36年)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。1963年(昭和38年)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。1968年(昭和43年)、すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。同年、「泣き節」を売り物としていた彼女にとって異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒットし、第10回日本レコード大賞特別賞を受賞した。1972年(昭和47年)、和解ができないまま母・ナカが他界。1975年(昭和50年)、以前かかった眼科医に頼まれて実印を貸してしまう。さらに、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々は行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき、当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。1977年(昭和52年)、島倉の窮地を救ったことから絶大な信頼を寄せていた守屋義人が事業に失敗し、不渡り手形を出して蒸発。島倉に手形の裏書をさせていたことから借金の連帯保証人にされ、2億4000万円の債務を負う。これにより、20億円近くもの莫大な借金を抱えた島倉は、返済のために写真集の発売や全国各地のキャバレー回り、地方興行などをして足掛け7年程で完済した。1986年(昭和61年)、第37回NHK紅白歌合戦に出場。紅白歌合戦に連続30回出場を達成し、当時の紅白史上最多記録を樹立した。しかし、翌年に「30回という区切りを大切にしたい」と紅白辞退の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップとなった。1988年(昭和63年)、前年にリリースした『人生いろいろ』が、当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけにブレイクし、130万枚の大ヒットを記録。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞し、同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場を果たした。その一方、島倉が歌手になるきっかけを与えた姉の敏子が目黒川で投身自殺をしている。1993年(平成5年)、初期の乳癌であることが判明。芸能人では初めてとなる癌公表の会見を開き、自ら癌であることを発表した。1999年(平成11年)、紫綬褒章を受章。2007年(平成19年)、事務所のスタッフに資産を奪われ、再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記の勉強をはじめた。2010年(平成22年)、肝臓癌であることが判明。癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けず、手術と入退院を繰り返していたが、2013年(平成25年)に入ると肝硬変に至っていた。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。11月5日、デビュー60周年記念曲『からたちの小径』を自宅で録音。レコーディングは、当初11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れ、11月5日に急遽吹き込みが行われた。11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話し、中目黒の東京共済病院に再入院。11月8日朝に容体が急変し、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。享年76。


昭和歌謡を彩った歌手は波瀾万丈な人が非常に多い。その中でも、島倉千代子と江利チエミの不運には思わず身につまされる。左腕の負傷、失明危機、離婚、金銭トラブル、家族の死、癌の闘病…まさに「人生いろいろ」な生涯を果敢に歩んだ島倉千代子。波乱な75年を生きた彼女の墓は、東京都品川区の東海寺大山墓地にある。墓には、島倉が好きだった言葉「こころ」とあり、左横に戒名「寳婕院千代歌愛大姉」が彫られている。なお、後方には「島倉千代子」と、中絶した3人の子供「島倉忍」の名が刻まれている。まだ亡くなって日が浅いためか、彼女の墓には大量の供花で彩られていた。私がお参りする前にもファンと思しき女性2人が先に来ており、お千代さんとの思い出を懐かしそうに語ってくださった。多くの人に騙され、裏切られてきた彼女であったが、騙した人の数の何倍ものファンに愛されていることを感じられた墓参りだった。

