2017年 02月 18日
十二代目・市川團十郎(1945~2013)

十二代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)
歌舞伎俳優
1946年(昭和21年)~2013年(平成25年)
1946年(昭和21年)、十一代目・市川團十郎の長男として東京都に生まれる。本名は、堀越夏雄。1953年(昭和28年)、 歌舞伎座にて『大徳寺』の三法師公で市川夏雄を名のり初舞台を踏む。1958年(昭和33年)、六代目・市川新之助を襲名。1965年(昭和40年)、青山学院高等部を卒業し、日本大学藝術学部に入学。同年、父である十一代目・市川團十郎が急死し、突如として後盾を失う。その後、同世代の四代目・尾上菊之助(現在の七代目・尾上菊五郎)と初代・尾上辰之助が新之助を支え、その三人の姿が若い世代の女性たちの同情を買って「三之助ブーム」が巻き起こる。これにより、しきりに危機が叫ばれていた歌舞伎界が息を吹き返し、興行界に確固たる地位を占めるに至った経過に一役買うこととなった。1969年(昭和44年)、日本大学芸術学部演劇科を卒業。同年、十代目・市川海老蔵を襲名。襲名後は、東京・新橋演舞場で五代目・坂東玉三郎、片岡孝夫(現在の十五代目・片岡仁左衛門)らと公演を行い、海老蔵と玉三郎の顔合わせは「海老玉コンビ」と呼ばれ人気を博す。また、歌舞伎を世界に広める活動にも力を注ぎ、1982年(昭和57年)のアメリカ・ニューヨークでの公演を皮きりに、ワシントン、ロサンゼルス、オーストラリア、ブリュッセル・東ベルリン、ウイーン、パリなど、世界各地で公演を行った。1985年(昭和60年)、十二代目・市川團十郎を襲名。市川宗家として「家の芸」である『歌舞伎十八番物』の「勧進帳」の弁慶や「助六」、時代物「仮名手本忠臣蔵」の由良之助、世話物「四谷怪談」の伊右衛門、「河内山」などの当たり役を磨く一方で新作の創作にも取り組み、1992年(平成4年)に「成田山分身不動」を自主公演した。2004年(平成16年)、長男が十一代目・市川海老蔵を襲名。これと前後して白血病を発症。10月のパリ公演で復帰をするも、翌年の6月には再発。慢性の貧血状態が続く「骨髄異形成症候群」と診断され、輸血を継続する治療や自家末梢血幹細胞の移植を受けるなど、壮絶な闘病生活をおくる。2006年(平成18年)3月、歌舞伎座で復帰会見を開き、5月に復帰。2007年(平成19年)、パリ・オペラ座で初めての歌舞伎公演を行い、フランス政府から芸術文化勲章コマンドゥールを贈られた。同年、紫綬褒章を受章。2008年(平成20年)、ヒト白血球型抗原(HLA)の型が一致した妹から骨髄移植を受けた。2011年(平成23年)に特定非営利活動法人全国骨髄バンク推進連絡協議会会長に就任。2012年(平成24年)、12月17日の京都・南公演終了後に体調を崩し、18日から風邪による体調不良のため休演が発表された。その後も体調が回復することはなく、2013年(平成25年)2月3日、肺炎のため死去。享年66。没後、日本政府より正五位並びに旭日中綬章が追贈された。

歌舞伎界の頂点である「市川宗家」に生まれた宿命なのだろうか。十二代目・團十郎の生涯は、常に闘いの人生であった。14歳で父を亡くしてから、彼は「海老様」と呼ばれ高い人気を博した十一代目・團十郎と何かにつけては比較された。舞台映えのしない細身の身体、鼻詰まりのような聞き取りづらい声、猫背…彼のまわりには常に悪評が付きまとっていた。そうした評価を覆すべく、義太夫を稽古して発声を鍛えたり、肉付きをよくして大きな存在に見せるよう努力したりと、市川宗家を継ぐ者として必死に取り組んだ。めでたく十二代目・團十郎を襲名し、順風満帆に行くかと思いきや、数々の病に襲われ、さらには息子・海老蔵による不祥事の後始末など、苦労が絶えることはなかった。度重なる試練に挑み続けた團十郎であったが、2013年、ついに力尽きてしまった。短くも濃密な66年という生涯を懸命に生きた團十郎の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「堀越家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。十二代目・團十郎は神道(神習教)信者であり、没後に「瑞垣珠照彦命」の諡号が贈られた。

