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浪越徳治郎(1905~2000)

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浪越 徳治郎(なみこし とくじろう)

指圧師
1905年(明治38年)~2000年(平成12年)


1905年(明治38年)、香川県仲多度郡多度津町に生まれる。7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、1925年(大正15年)に警視庁のマッサージ術試験に合格。その後、室蘭で「指圧治療所」を開くも、多くの人に指圧の技術を広めるべく1933年(昭和8年)に上京。1940年(昭和15年)、東京都文京区表町(現在の小石川)に日本指圧学院を創立した。1944年(昭和19年)には指圧師養成1000名記念「一指救国指圧大講演会」を日比谷公会堂で開催するなど普及活動は順調に進んでいたが、1945年(昭和20年)5月25日の大空襲により指圧学院が全焼。終戦後の1946年(昭和21年)、同じ場所に新校舎を建設して活動を再開した。1953年(昭和28年)、アメリカのアイオワ州ダベンポートにあるパーマスクールから招聘されて渡米。日本で生まれた指圧の指導と講演を行い、米国各地で指圧の普及活動を行う。1954年(昭和29年)、新婚旅行で来日するも胃痙攣を起こして療養していたマリリン・モンローに素手で触って指圧し、体調回復の一助となる。この一件でマリリン・モンローを指圧の愛好家したのみならず、「指圧の浪越徳治郎」として名声を馳せる。1957年(昭和32年)、日本指圧学院が厚生大臣より正式に指圧師養成校の認定を受け、厚生大臣認定日本指圧学校として発足。その後も、吉田茂をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事、モハメド・アリなどの国内外の著名人を治療し、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。1968年(昭和43年)、NETテレビ(現在のテレビ朝日)の『桂小金治アフタヌーンショー』のコーナーであった「指圧教室」にレギュラー出演。「指圧のこころ母心 押せば生命の泉湧く」のスローガンが話題となり、お茶の間に広く知られる存在となる。1983年(昭和58年)、勲四等旭日小綬章を受章。1987年(昭和62年)、バラエティー番組『ビートたけしの元気が出るテレビ』に出演。当初は「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場したが、後にジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたため、そのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで人気を博した。1992年(平成4年)、ホテルニューオータニで開催された「米寿を祝う会」にて後継者を長男の徹に託し、校長職を含めて事実上の実務を徹に一任する。しかし、1994年(平成6年)に長男・徹が現役校長のまま急逝。89歳にて再び、校長職に復帰。1998年(平成10年)、校長職を長男の妻である満都子に一任。2000年(平成12年)9月25日午前3時7分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去。享年94。


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豪快な笑いと「指圧のこころ母心 押せば生命の泉湧く」のフレーズで一世を風靡した指圧師・浪越徳治郎。布袋尊に似たその風貌のせいか、彼は2000年に94歳という大往生を遂げた。指圧の創始者として指圧を世界的なものへと育て上げた彼のお墓は、東京都文京区の伝通院にある。墓には「浪越家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「光壽院德譽明翁居士」。

by oku-taka | 2017-02-11 21:20 | タレント | Comments(0)