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初代・貴ノ花利彰(1950~2005)

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初代・貴ノ花 利彰(たかのはな としあき)

力士
1950年(昭和25年)~2005年(平成17年)


1950年(昭和25年)、10人兄弟の末っ子として北海道室蘭市で生まれる。本名は、花田 満。長兄には初代・若乃花がおり、満が誕生した時にはすでに22歳で幕内力士となっていた。1958年(昭和33年)、東京都杉並区阿佐谷に転居。杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ、中学3年生の8月には「東京都中学水泳選手権大会」と「全国選抜中学水泳大会」で100mバタフライの中学生記録を更新するなど、3年後に控えていたメキシコシティオリンピック選手の候補として期待されていた。しかし、母の勧めで兄の二子山(初代若乃花)の相撲部屋へ入門を希望。二子山は猛反対したが、母の強い説得によって兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。兄から師匠へと立場の変わった二子山は徹底的に厳しく指導し、「弟だから甘くしている」と言われないため、わざと厳しく接した。また、二子山の指導が厳しいが故に、弟に仕返しをするという形で兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受け、鍛えられていった。その結果、同年7月場所では6勝1敗の成績で序ノ口優勝を果たした。1968年(昭和43年)3月場所、18歳0ヶ月の史上最年少で新十両に昇進。新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して、初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録を樹立した。同年5月場所は7勝8敗と負け越したものの、9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕は武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、当時の新記録となった。また、これによって兄の若乃花と共に明治以降では初の兄弟幕内力士となった。しかし、1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越し、次の3月場所は急性上気道炎のため途中休場。7日目から再出場したが5連敗、この場所一つも白星を挙げられず、12日目に2度目の不戦敗・再休場となり、その後十両に下がってしまう。1970年(昭和45年)1月場所、花田から貴ノ花と改名し再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの連日の健闘が讃えられ、会場であった福岡スポーツセンターから表彰された。1971年(昭和46年)、1月場所5日目で横綱・大鵬と対戦し足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて一躍有名になる。その後、9月場所6日目に大関・清國に足を取られながら逆転勝ちを収めるなど驚異的な足腰の強さを発揮し、角界一の人気を不動のものとした。1972年(昭和47年)、1月場所8日目に横綱・北の富士と対戦。立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵についた。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は貴ノ花は既に「死に体」だと判断し、「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助は千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となるなど、「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした。同年9月場所千秋楽では、同門のライバルである輪島と水入りの熱戦を繰り広げ、貴ノ花は敗れたものの場所後に二人が揃って大関に昇進した。1975年(昭和50年)3月場所、13勝1敗で千秋楽を迎えた貴ノ花は、12勝2敗の北の湖と対戦。貴ノ花は勝てば初優勝だったが、負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込み、最終的には北の湖を下して悲願の初優勝を果たした。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となった。同年9月場所にも北の湖との優勝決定戦を制し12勝3敗で2回目の優勝。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず、綱取りは果たせなかった。この頃から腎臓病や足の怪我に悩まされ、開運を期待して貴乃花と改名していたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻した。その後、大関在位50場所という当時史上1位の記録を立てたが、優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1980年(昭和55年)1月場所では7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げたが、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。同年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の大関在位50場所目を迎えたものの、序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に引退を表明した。引退後は年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方に就任。1982年(昭和57年)には、藤島に名跡を変更して初代・若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(後の横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。1993年(平成5年)、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承。藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋となった。1994年(平成6年)、11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進。1998年(平成10年)5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現する。2003年(平成15年)、弟子の貴乃花が引退を表明。貴ノ花は部屋を譲り、部屋付きとなった。同年秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩しがちになり、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年(平成16年)夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり、2005年(平成17年)1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付けた。投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登る事が出来ず、呼び出しの手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。この頃から、彼の重病説が囁かれるようになり、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された。その後、意識不明の重体に陥り、それからわずか3カ月後の5月30日に口腔底癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年55。没後、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された。


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細身で均整のとれた体格と甘いマスクから「角界のプリンスと呼ばれ、大相撲の歴史上において史上屈指の人気を誇った初代・貴ノ花。親方として息子二人を横綱にまで育て上げ、若貴ブームを巻き起こした男の墓は、東京都杉並区の天桂寺にある。円形の墓には「花田家」とあり、その右後ろに墓誌が刻まれている。戒名は「双綱院貴関道満居士」(入信していた霊友会からは「誠生院法憲祐幸智徳善士」という戒名が付けられている)。力士として、親方として、順風満帆な人生を送っているかのように見えた貴ノ花であったが、後年は妻の浮気と離婚、二人の息子の不仲、癌の闘病と、様々なことに苦しめられ可哀相でならなかった。驚異的な足腰の強さと粘り強さで手に汗握る試合を見せてくれたヒーローが、なぜこんなにも次々と不幸に見舞われるのか…と。今はそうした苦難から解放され、穏やかに眠っていることを唯々信じたい。


by oku-taka | 2017-01-31 23:57 | スポーツ | Comments(0)