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初代・若乃花幹士(1928~2010)

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初代・若乃花 幹士(わかのはな かんじ)

力士
1928年(昭和3年)~2010年(平成22年)

1928年(昭和3年)、10人兄弟の長男として青森県弘前市青女子に生まれる。本名は、花田 勝治。生家はリンゴ園を営んでいたが、1934年(昭和9年)の室戸台風で作物が全滅し、一家は破産状態で北海道室蘭に移住。沖仲仕などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところ、国民学校を卒業したばかりの花田は150~200kgもかついで何度も往復し、後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。1946年(昭和21年)、当時の二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加。本職の力士を数名倒してみせたことから、大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まりスカウトされる。働き手を失いたくない父親は角界入りを反対したが、「3年で関取になれなければ帰る」という条件で入門。大ノ海が若い時に用いた四股名「若ノ花」を譲り受ける。入門後は「二所一門の猛稽古」と呼ばれる洗礼を受け、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦といった分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた先輩力士らによって力を付けた。同年の11月場所で初土俵を踏み、各段優勝に近い成績を収める。1949年(昭和24年)、5月場所で十両に昇進。1951年(昭和26年)、5月場所において後に共に時代を築くことになる栃錦と初対決。いきなりの大勝負となり、何とか勝利を収める。翌9月場所も水入りの末二番後取り直しとなった後に黒星となるなど、栃錦との取組は常に大熱戦になり、技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了した。1953年(昭和28年)、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設。若ノ花もそれに従うが、当初は小部屋ゆえ巡業の引き受け先が見付からず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けた。1955年(昭和30年)、9月場所において横綱・千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲を繰り広げる。結果は引分に終わったが、この相撲を評価され、場所後に大関へと昇進。1956年(昭和31年)1月場所、他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗という記録を残し、翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦に出場。次の5月場所では、12勝3敗で前頭9枚目・大晃との決定戦を制し、初優勝を果たした。翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行し、愛児の名を記した数珠をさげて場所入り。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝し、連続優勝・全勝優勝・横綱は確実と思われたが、その後に扁桃腺炎を発症し、さらに高熱に襲われ13日目を休場。千秋楽には出場の意欲を見せたが、当日に病状が悪化してやむなく休み不戦敗に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。1957年(昭和32年)、日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作し、若ノ花自身も出演した。同年、画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるため、9月場所より「若乃花」に改名。11月場所は12勝3敗の優勝次点、翌年の1月場所では13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後に第45代横綱に推挙された。これにより、昭和生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱となった。その後は、最大のライバルともいえる栃錦と常に名勝負を展開し、年6場所となった1958年(昭和33年)以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。1959年(昭和34年)5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースであった。1960年(昭和35年)3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制し、初の全勝優勝を達成した。この取り組みを最後に、栃錦は引退。その後は3場所連続で13勝2敗、2度の優勝を果たすなど、栃若拮抗時代から第一人者として一時代を築くかと思われた。しかし、11月場所を9日目から途中休場、翌場所こそ12勝3敗と健在を示したものの、その後は優勝争いにからむこともなくなっていき、11勝前後の成績が多くなる。栃錦というライバルを失ったことによる気力の張りがなくなったことや、新鋭の柏戸の鋭い出足など若い力の台頭に押され始めた。1962年(昭和37年)1月場所、後に第49代横綱となる関脇の栃ノ海に負けを喫し、5月1日の花籠部屋で開いた記者会見で現役引退を表明した。引退と同時に年寄・二子山を襲名し、花籠部屋から独立して二子山部屋を興す。自身の経験から部屋での指導は大変厳しく、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。また、自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともあった。一方で糖尿病を患った隆の里に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。1976年(昭和51年)、相撲協会の理事に当選。かつてのライバル春日野理事長(栃錦)は二子山を重用し、両国新国技館建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張るなど、幹部の栃・若時代と呼ばれた。1988年(昭和63年)、春日野は停年まで余力を残しながらも相談役に退き、二子山に理事長を禅譲。理事長として土俵の美を追求して立合いの正常化に努め、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や、行司に「手をついて」と掛け声させることなどに取り組んだ。1991年(平成3年)、紫綬褒章を受章。1993年(平成5年)、1月場所後に自身の二子山の年寄名跡を実弟の貴ノ花が持つ藤島と交換し、同年3月に相撲協会を停年退職。退職後は相撲博物館館長に就任するが、1996年(平成8年)に二子山の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘されたことで辞任し、相撲界から去った。晩年は、横綱経験者で長寿第2位になるなど元気に過ごしていたが、2010年(平成22年)9月1日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で腎細胞癌のため死去。享年83。


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テレビ時代の到来と共に「栃若時代」で一世を風靡し、親方としては2大関2横綱を育てて相撲界を盛り上げた初代・若乃花。「土俵の鬼」と呼ばれた彼の墓は、東京都台東区の東本願寺にある。墓には「花田家之墓」とあり、右側面に墓誌が彫られている。戒名は「巍勝院釋治道」。晩年は歴代横綱の最長老として意見を求められることがしばしばあったが、その度に現代の相撲界や力士を否定し「ワシの頃は…」と自慢をするので、どうにも苦手な存在だった。過度なしつけ、飲酒の強要と、今であれば間違いなく問題視される伝説を数多く持つ若乃花。先述した発言も含めて考えると、典型的な昔気質の力士であったと思う。

by oku-taka | 2017-01-31 23:32 | スポーツ | Comments(0)