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江利チエミ(1937~1982)

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江利 チエミ(えり ちえみ)

歌手、女優
1937年(昭和12年)~1982年(昭和57年)


1937年(昭和12年)、東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。本名は、久保 智恵美。父・久保益雄は、独学でクラリネットやピアノを学び、三味線漫談家の柳家三亀松の相三味線やピアノ伴奏を務めていた。智恵美は父の影響を強く受け、歌うことが好きな少女に育つ。母の歳子は、吉本興業に所属する名喜劇女優として活躍し、笠置シヅ子や榎本健一と映画で共演したりしているが、智惠美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。その後、父が柳家三亀松と喧嘩別れをしたことで失職。病床で寝たり起きたりの母、3人の兄の生活を支えるべく、1949年(昭和24年)に進駐軍のキャンプをまわって歌う音楽活動をスタート。たちまち進駐軍のアイドルとなり、「エリー」という愛称を付けられる。この愛称から、後の芸名「江利チエミ」を母が名付けた。また、仕事をこなしていくうちにドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。その後、チエミを可愛がってくれていた進駐軍兵士のケネス・ボイドから、「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。この曲に惚れ込み、自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗。この間、母の歳子はチエミのデビューを待たず1951年(昭和26年)6月に亡くなった。その後、最後の頼みの綱となったキングレコードでようやく合格。1952年(昭和27年)に「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たすと、23万枚を売り上げる大ヒット。続く「トゥー・ヤング」も15万枚を売り上げるヒットとなり、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。また、同年には初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演し、女優としての活動もスタートさせた。1953年(昭和28年)の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。1953年(昭和28年)、「ガイ・イズ・ア・ガイ」で第4回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。1955年(昭和30年)、映画『ジャンケン娘』に出演。共演した美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡した。1956年(昭和31年)、映画『サザエさん』に主演し大ヒット。シリーズ化されるほどの好評を博し、後にテレビドラマや舞台化もされるなど、生涯の当たり役となる。1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁となり、俳優の高倉健と結婚。家庭に入るため一時は引退したが、1960年(昭和35年)には本格的に復帰。1961年(昭和36年)、歌手としてはじめてとなる座長公演『チエミのスター誕生』を梅田コマで行い、翌年には芸術祭奨励賞を受賞。舞台女優としても活躍した。1962年(昭和37年)、チエミは妊娠し子供を授かるが、重度の妊娠高血圧症候群(この当時は「妊娠中毒症」と呼ばれていた)を発症。中絶を余儀なくされ、その後も子宝に恵まれることはなかった。同年、東映映画『ちいさこべ』で京都市民映画祭の優秀助演女優賞を受賞。1963年(昭和38年)、日本におけるブロードウェイ・ミュージカルの初演となる『マイ・フェア・レディ』に主演し、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞した。同年の第14回NHK紅白歌合戦では、現役歌手としてはじめて紅組司会も担当し、視聴率81.4パーセント(ビデオリサーチ調べ)を記録した。この頃、チエミの義姉(異父姉)を名乗るY子がチエミの前に現れる。名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになっていたが、ある日「スター歌手・江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。Y子は「離婚して経済的に困窮している」、と騙って家政婦・付き人としてチエミに近づいて家に入り込み、身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり、経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子は、ここからチエミを陥れるべく犯罪的な行動をとり始め、高倉健とチエミのそれぞれについてでっちあげの誹謗中傷を吹聴、ふたりを別居に追い込み、離婚への足がかりを作った。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金をし、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開、挙句は失踪、自殺未遂騒動まで引き起こすなど、不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行を繰り広げた。チエミは自己破産をせず「責任は自分でとる」と決意し、断腸の思いで異父姉を告訴。また、高倉に迷惑をかけてはならないと、1971年(昭和46年)にチエミ側から高倉に離婚を申し入れた。この間、チエミの3人の兄のうち2人が亡くなり、かわいがっていた甥が電車事故死、ポリープによる声帯の手術、現在の世田谷区瀬田にあった邸宅を火災で焼失するなど、不幸がつきまとう波瀾万丈の生活を送った。高倉との離婚後は、歌手・女優に留まらず、NHK『連想ゲーム』の紅組キャプテン、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日『象印クイズヒントでピント』では女性軍2代目キャプテンを務めた。こうした幅広い活動の結果、数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻すことができた。しかし、1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見され、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。享年45。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)によるものだった。チエミは数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウィスキーの牛乳割りを呷り、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入った事が一因とも言われている。


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歌手、女優、タレントと幅広く活躍した稀代のエンターティナー・江利チエミ。特に歌の分野においては、ジャズ・民謡・歌謡曲とジャンルを問わず完璧に歌いこなす不世出の歌手であった。その点においては、美空ひばりよりも天才歌手であると個人的には思っている。それだけに、早すぎる死が非常に惜しまれてならない。波瀾万丈な45年を懸命に生きた彼女の墓は、東京都世田谷区の法徳寺にある。墓には「久保家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻まれている。戒名は「天晴院詠誉才智恵美大姉」。この墓には、チエミが生涯愛した高倉健が命日になると必ず訪れ、亡き元妻を偲んだといわれている。そんな高倉健も、チエミの死から32年後の2014年(平成26年)に鬼籍の人となった。


by oku-taka | 2017-01-30 22:54 | 音楽家 | Comments(0)