2017年 01月 30日
逸見政孝(1945~1993)

逸見 政孝(いつみ まさたか)
アナウンサー
1945年(昭和20年)~1993年(平成5年)
1945年(昭和20年)、大阪府大阪市阿倍野区阪南町に生まれる。子供の頃から映画鑑賞が趣味だった逸見は、大阪市立阪南小学校、大阪市立阪南中学校を経て、大阪府立阿倍野高等学校を卒業。関西学院大学を受験するも失敗し、また、当時付き合っていた恋人にも振られたことから、「有名になって見返してやりたい」という一念でアナウンサーを志すようになる。その後、アナウンサーになるのに最も有利な大学という判断から、一浪して早稲田大学第一文学部演劇学科に入学。大学ではアナウンス研究会に所属し、大阪弁を標準語のアクセントに直すために徹底した訓練を実施。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにするなど、標準語のアクセントを徹底的に覚えた。1967年(昭和42年)、早稲田大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破し、翌年に入社。輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心にプロボクシング中継を担当するなど、スポーツアナウンサーとして活躍。ボクサーより先に倒れるのではないかと思われる程の絶叫調の実況で頭角を現した。1975年(昭和50年)、ワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者に就任。また、フジテレビが制作に関わっていたテレビドラマ『金メダルへのターン!』や、特撮テレビ映画『ミラーマン』のアナウンサー役など、幅広い活動を行う。1976年(昭和51年)、『FNNテレビ土曜・日曜夕刊』の担当に就任。これを皮切りに報道へ転出され、1978年(昭和53年)からは平日放送の『FNNニュースレポート6:30』のキャスターとなった。1984年(昭和59年)4月、『FNNニュースレポート6:00』のキャスターに抜擢。同年10月に後番組としてスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターも引き続き担当し、幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。1985年(昭和60年)からは、この年の4月に開始した夕方5時からの生放送番組『夕やけニャンニャン』に設けられていた『FNNスーパータイム』の予告コーナーも担当するようになり、片岡鶴太郎やとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めるようになる。このコーナーで、「七三分け」に「黒縁メガネ」という外見に見合わず、ひょうきんなキャラクターでギャグセンスが高いというギャップが若年層の視聴者に意外性をもって受け入れられた。番組開始からおよそ一ヶ月後、逸見のことを知りたいという十代の視聴者からの投書が番組に舞い込むようになり、それに応えるかたちで別コーナーにもゲスト出演。逸見の番組内人気は過熱の様相を呈し、片岡鶴太郎から「プロマイドは出さないんですか?」とアイドル的人気にひっかけたギャグを振られるなどして大いに盛り上がる。しかし、これがギャグで終わらず、翌日には発行元のマルベル堂から本当のオファーが来ることになり、史上初のアナウンサーのプロマイド製作が実現し、プロマイドは大ヒットとなった。その後も『夕やけニャンニャン』と『FNNスーパータイム』の人気がうなぎのぼりになっていくに連れ、双方に出演していた逸見の人気もうなぎのぼりとなっていき、一年間で170社もの取材を受け、著書やレコードなども立て続けに発売。人気の高まりを受け、1986年(昭和61年)には映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演した。同年、21年連続で司会を務めてきた高橋圭三の勇退を受け、『新春かくし芸大会』の司会を芳村真理とのコンビで担当。名実共にフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立した。1987年(昭和62年)、勤続20年を迎え、管理職に昇格。これにより、『FNNスーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌年の3月末を以って、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職した。その後、三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立。フリーに転身し、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』、『たけし・逸見の平成教育委員会』といった番組の司会を担当し、いずれも高視聴率を誇る人気番組となった。1993年(平成5年)1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴え、江川卓に紹介された前田外科病院(現在の赤坂見附前田病院)を年に1度の定期健診も兼ねて受診。その際、担当医から「胃に初期の癌細胞を発見しました」との診断が下される。1週間後の1月25日に入院し、2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けるも、実際は初期の癌ではなく、妻の春恵には「5年先の生存率はゼロに近いでしょう」という宣告がされた。2月25日に退院し、翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初逸見は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も、抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院を続けたが、5月下旬頃になるとメスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始め、その突起物が次第に大きくなって服を着るにも邪魔なほどになってしまったことから、8月12日に2度目の手術を受ける。しかし、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態であった。妻・晴恵、所属事務所の三木治社長など、周囲から別の病院での診察を強く勧められたことから、9月3日に新宿区河田町の東京女子医科大学病院を訪問。この時に初めて癌の再発を宣告され、厳しい現状を受け止めた逸見は、再々手術を決意。9月6日午後3時、日本テレビ本社(現在の日本テレビ放送網麹町分室)内2階の大型ホールで緊急記者会見を行い、自ら進行胃癌(スキルス胃癌)であることを、初めて公の場で告白した。記者会見の翌日から全ての仕事を休止し、東京女子医科大学病院に入院。9月16日に13時間にも及ぶ大手術を受けた。手術後は、歩行訓練を行ったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を摂るなど、順調に回復している様子も見せていたが、10月23日、突然激しい腹痛を起こして食べ物を嘔吐。検査の結果、腸閉塞と判明し、普通食禁止の絶対安静となった。絶食状態を余儀なくされたため高栄養の点滴をつけられたが、逸見は徐々に衰弱していった。11月上旬から抗癌剤の投与が開始され、副作用の影響から激しい吐き気を催して意識が朦朧となり、うわ言を発するなど病状は悪化。体重が50kgを下回っていた12月16日には、再検査で腸にも転移した癌が見つかった。12月24日、意識不明の危篤状態に陥り、翌12月25日午後0時47分、末期のスキルス胃癌・再発転移による癌性悪液質のため死去。享年48。


今やタレント並みの活躍を見せている各局のテレビアナウンサーだが、その走りともいうべき人はこの人なのかもしれない。それまで、堅物で真面目一直線という印象を持たれていたアナウンサーのイメージをガラリと変えた稀有な存在であった。あるときはビシッと着こなした背広で真面目にニュースを読み、あるときは芸能人に弄られて視聴者の笑いを誘う。そして、大物芸能人相手でも臆することなく直球トークを繰り広げる。まさにタレント顔負けのアナウンサーであり、その存在はたくさんの人から愛された。それだけに、48歳という若い旅立ちは非常に惜しまれ、多くの人がその死に涙した。彼の死後、妻の晴恵さんは医学にまつわるエッセイを多数発表し、テレビ出演や講演活動を積極的にこなした。しかし、彼女にも「子宮がん」や、血液細胞の癌の一種である「骨髄異形成症候群癌」といった癌細胞が次々に襲いかかり、2010年10月21日に61歳の若さで亡くなった。二人はいま、東京都世田谷区にある伝乗寺で静かな眠りについている。墓には「逸見家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「誠實院温譽和顔政孝居士」。

