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田谷力三(1899~1988)

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田谷 力三(たや りきぞう)

オペラ歌手
1899年(明治32年)~1988年(昭和63年)

1899年(明治32年)、東京都千代田区神田に生まれる。旗本の血を引く家系の家に生まれたが、まもなくして家が没落。1909年(明治42年)、学資の不要な場所を求め、日本橋にある「三越少年音楽隊」に入門。当初はヴァイオリン、ホルンなどの器楽を学んだが、持ち前の美声のほうが認められ、声楽家として早くも頭角を現す。その後、イタリア人演出家のヴィットリオ・ローシーに見出され、1917年(大正6年)にローシーが主宰する赤坂ローヤル館の歌劇団に入団。オペラ歌手としてデビューする。同年、「ブン大将」の準主役で初舞台を踏むも、西洋の作品をそのまま翻案したローシーのオペラは観客に全く受けず、ほどなくして解散となる。1918年(大正7年)、原信子歌劇団の結成に参加し、浅草オペラでの活動をスタート。当時としては物珍しかったオペラのパイオニア的存在としてその名を轟かせた。その後、佐々紅華の「東京歌劇座」に移り、さらに清水金太郎夫妻、藤原義江とともに「七声歌劇団」を結成した。1920年(大正9年)、根岸興行部の「金龍館」館主・根岸吉之助に引き抜かれ、「根岸大歌劇団」の結成に参加。『ボッカチオ』『天国と地獄』『ディアボロ』といったオペレッタに主演し、颯爽とした姿と天性の美声で大人気スターとなる。1923年(大正12年)、関東大震災により、浅草は壊滅的な被害を受け、大道具、小道具や楽譜類が消失。劇場も使用不能となったことから浅草での上演が不可能行となり、翌年「根岸大歌劇団」は解散となる。田谷は「ヴォーカルフォア」を結成して活動を続けるも、浅草オペラ全体の上演内容が貧弱になったりしたため、大衆の関心が離れて集客力が低下。1925年(大正14年)10月の「浅草劇場」での『オペラの怪人』上演を最後に、「浅草オペラ」は消滅した。その後、レコード歌手として『巴里の屋根の下』『海のない港の唄(羽衣歌子とのデュエット)』などのヒットを出したが、やがて人気は低迷。1931年(昭和6年)、関東大震災から復興した浅草は、榎本健一や古川ロッパらの登場により、歌や軽演劇などのレビュー時代を迎える。田谷も浅草へ戻り、オペレッタを主宰して活動を再開。1933年(昭和8年)には田谷力三一座を結成し、浅草を拠点にオペラやミュージカルなどで活躍した。1945年(昭和20年)、東京大空襲で身体を壊し、一時歌声を失うものの、必死のリハビリで1948年(昭和23年)に復帰。1964年(昭和39年)と1966年(昭和41年)に文部省芸術祭奨励賞を受賞。昭和40年代の懐メロブーム時には、浅草オペラ唯一の現役歌手としてスポットがあたり、再び注目を集めた。1970年(昭和45年)、紫綬褒章を受章。1974年(昭和49年)には、第16回日本レコード大賞特別賞を受けた。1976年(昭和51年)、勲四等旭日小綬章を受章。1978年(昭和53年)には、3度目となる文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。80歳を過ぎてもなお活躍し、毎日の発声練習は欠かさず、最晩年まで足腰を鍛えるため常に階段を使うなど節制を続けており、生涯若々しい風貌、身の動き、歌声を保った。最晩年にはフジテレビの『夕やけニャンニャン』のコーナー、「ザ・スカウト〜アイドルを探せ〜」の審査員を務め、田谷の名前を知らなかった視聴者やおニャン子クラブのファンにも名が知られるようにもなった。1988年(昭和63年)3月30日、心筋梗塞及び心不全のため死去。享年89。亡くなる2週間前に、親類の結婚式で歌ったのが、事実上最期のステージとなった。


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生涯現役を貫き、89年の人生をオペラに捧げた田谷力三。大正時代は誰もが知る花形スターとして浅草に君臨し、若き日の宮沢賢治やサトウハチローをも夢中にさせたという田谷力三の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「南無妙法蓮華経」とあり、右横に「先祖代々之墓」と彫られた墓が建つ。墓誌はない。田谷には子供がなく、血が一代で途絶えてしまっていることから、管理者不明で整理されてしまったのではないかと非常に不安だったが、杞憂という結果に終わった。しかし、広い敷地の池上本門寺で田谷のお墓がなかなか見つけられず、数時間にわたってあちこち探し回ってようやく発見できた。今や知る人も少なくなってしまった田谷力三であるが、私の中ではいつまでも輝き続ける偉大なスターの一人である。

by oku-taka | 2017-01-22 00:39 | 音楽家 | Comments(0)