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吉武輝子(1931~2012)

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吉武 輝子(よしたけ てるこ)

評論家・作家
1931年(昭和6年)~2012年(平成24年)

1931年(昭和6年)、兵庫県芦屋市に生まれる。幼い頃から好奇心が旺盛で、小学校6年生の頃には学問を志すようになる。しかし、「女に学問は不要」と考える父から反対され、女性の地位の低さに疑問を感じるようになる。1946年(昭和21年)、進駐軍の米兵による集団性的暴行の被害に遭う。当時「被害に遭うのは女の側の落ち度であり、傷物の女は結婚できない」と叩き込まれていた吉武は、二度にわたり自殺未遂を繰り返す。その後、この体験をきっかけに、社会に潜む差別や矛盾に向き合うようになる。1950年(昭和25年)、慶應義塾大学文学部へ進学。在学中は学生演劇に打ち込み、文学座の研究生となった。1954年(昭和29年)、慶應義塾大学文学部を卒業。東映の宣伝部に入社し、日本で初めての女性宣伝プロデューサーとなる。しかし、長女の出産によって同じ職場に戻れなかったことから、1966年(昭和41年)に退社。フリーランスの作家へと転じ、女性問題を中心にした評論活動をスタートさせる。1968年(昭和43年)、婦人公論読者賞を受賞。1975年(昭和50年)、国連が提唱した「国際婦人デー」を契機に女性解放運動の気運が高まり、吉武も市川房枝や俵萠子といった女性運動家と連帯し、女性の人権や戦争について積極的に発言するようになる。1977年(昭和52年)、日本社会党参議院議員の田中寿美子、俵萠子らとともに「政治を変えたい女たちの会」を結成。同年、第11回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補するも落選した。その後は再び文筆活動に入り、吉屋信子や淡谷のり子といった信念を持って生きた女性たちの伝記を多く執筆した。晩年は多くの病を患い、闘病をしながら社会活動や講演に取り組んだ。2012年(平成24年)4月17日、肺炎のため死去。享年80。


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女性の地位向上と平和運動に全てを捧げた吉武輝子。「ウーマンリブの闘士」と呼ばれた彼女の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓は永代供養墓で「南無妙法蓮華経」と刻まれており、右横に墓誌がある。戒名は「文泉院華英院妙輝信女」。多感な少女期に受けた米兵からのレイプ、入社試験で受けた差別といった怒りの体験が、彼女の活動のエネルギーとなった。そんな彼女が、人生の終着地として選んだのが、見知らぬ人と共に眠る合同墓であった。娘で作家の宮子あずさによると、夫が亡くなったとき、家系が娘の代で終わることを考えて個別の墓を作らなかったという。男性にたくさんの苦い経験をさせられた吉武にとって、他人といえど多くの女性が眠る永代供養墓のほうが、個人墓よりはよかったのかもしれない。

by oku-taka | 2017-01-21 22:32 | 評論家・運動家 | Comments(0)