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鶴見俊輔(1922-2015)

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鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ)

哲学者・評論家
1922年(大正11年)~2015年(平成27年)

1922年、作家で衆議院議員の鶴見祐輔、東京市長も務めた政治家・後藤新平の娘・愛子の長男として、東京府東京市麻布区三軒家町に生まれる。幼少の頃、父・祐輔は、新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅に政友が集まり会合を開いていた。また、祐輔は雑誌「雄弁」の創刊にも関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く、姉の和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読むなど、社会活動に触れた生活を送る。1929年(昭和4年)、東京高等師範学校附属小学校に入学。その後、祐輔を厳しくしつけていた母への反発から不良化し、小学校をサボって映画館に入り浸り、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返すなどをした。12歳の頃にはうつ病になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度も入院した。1935年(昭和10年)、府立高校尋常科に入学するも2年生の夏に退学となり、その後、府立五中に編入したが、1937年(昭和12年)5月に中退した。同年7月、父・祐輔の計らいで米国へ渡り、1938年(昭和13年)3月までワシントンの斎藤博の公邸に預けられる。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレジンガー・シニア教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と知り合い、都留を生涯の師とする。同年9月には単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス校に入学した。1939年(昭和14年)、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学。哲学を専攻し、記号論理学者のホワイトヘッドやラッセルの講演を聴講。カルナップ、クワインに師事した。1941年(昭和16年)、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結されたことで日本からの送金が止まり、先行きへの不安から4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択。1942年(昭和17年)、日米開戦に伴う敵国人として、FBIに逮捕される。東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞内の収容所に送られる。抑留中に卒業論文を完成させたが、第3学年後期は大学の授業に出席できなかったため、留置場で受けた後期の試験は不合格となる。しかし、それまでの成績が優秀だったことから、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた。1942年(昭和17年)、日米交換船で日本に帰国。陸軍に召集されるのを避けるため、帰国の翌日に自主的に麻布区役所へ出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格した。海軍軍属にドイツ語通訳として志願し、1943年(昭和18年)にドイツの封鎖突破船でジャワ島に赴任。ジャカルタの在勤海軍武官府に2年間勤務し、主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した。その後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て、1944年(昭和19年)に日本に帰還。1945年(昭和20年)、慶応大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事するも、同年7月に結核性腹膜炎のため辞職。熱海で療養中に終戦を迎えた。戦後は、姉・和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧とともに「思想の科学研究会」を結成し、1946年(昭和21年)に雑誌『思想の科学』を創刊。鬼畜米英、八紘一宇といった軍国主義政権下で使われた言葉を、実体の伴わない「お守り言葉」と断じ、扇動した権力者と熱狂した世論を批判した。また、同会では米国留学の前後で日本の論壇全体の傾向が変わったとの自覚から着想して『共同研究 転向』をまとめるなどの思想史研究を行い、『共同研究 転向』全3巻を刊行した。1948年(昭和23年)、桑原武夫の推薦により京都大学嘱託講師となる。1960年(昭和35年)、「思想の科学研究会」の会員が立ち上げた「声なき声の会」に参加し、岸信介内閣による日米安全保障条約改定に反対した。1965年(昭和40年)、ベトナム戦争の激化を受け、「声なき声の会」を母体とし、政治学者の高畠通敏、作家の小田実らと「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成。1966年(昭和41年)6月にはベトナム北爆に抗議し、在日アメリカ大使館前で座り込みを行った。1967年(昭和42年)、アメリカの兵士達に脱走を呼びかけるビラを英語で書き、それを横須賀の米軍基地前で配布する活動を起こす。その後、横須賀に寄港した空母イントレピッドからの脱走兵4人を東京・練馬の父の家に匿う。後に京都の自宅に移し、スウェーデンに送った後、記者会見を開いてアメリカ兵を匿っていることを発表した。その後も、反戦・平和活動に力を注ぎ、2004年(平成16年)には、九条の会の呼びかけ人となった。2015年(平成27年)7月20日、肺炎のため京都市左京区の病院で死去。享年93。


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戦後日本を代表する思想家の一人として知られる鶴見俊輔。行動する哲学者として積極的に発言し、反戦と平和の哲学を追求し続けた男の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓石には「鶴見家之墓」とあり、右横に墓誌が建てられている。父・祐輔と母・愛子の墓は左側に建立されている。学生時代、退屈な授業に耐えるべく国語と社会の教材を開くと、必ずといっていいほど鶴見俊輔が載っていた。童顔チックで四角張ったその顔が妙に印象に残り、何度も鶴見が掲載されているページを見た覚えがある。とはいえ、個人的にはその思想と言動が好きになれない人の一人であった。

by oku-taka | 2017-01-09 01:12 | 評論家・運動家 | Comments(0)