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長谷川町子(1920-1992)

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長谷川 町子(はせがわ まちこ)

漫画家
1920年(大正9年)~1992年(平成4年)

1920年(大正9年)、佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市)に生まれる。その後、三菱炭坑の技師であった父がワイヤーロープの事業開業に伴い、福岡県福岡市春吉に転居。1934年(昭和9年)、父が亡くなり、一家そろって上京する。山脇高等女学校(現在の山脇学園高等学校)に在学中、「田河水泡の弟子になりたい」という独り言を呟いたことから、姉と母が奔走し、田河水泡に師事することになる。1935年(昭和10年)、田河の引き立てにより、少女倶楽部10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビュー。その後、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックを発症して11カ月で出戻る。1939年(昭和14年)、初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で女性漫画家としての地位を確立。1940年(昭和15年)、3人のおしゃまな女学生を描いた『仲よし手帖』が人気を博す。1944年(昭和19年)、空襲からの疎開と徴用回避のため、福岡県福岡市百道に一家で疎開。町子は西日本新聞社に絵画部の校閲係として入社し、1945年(昭和20年)8月16日まで勤務する。1946年(昭和21年)、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」での連載漫画を頼まれ、自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに思いついた『サザエさん』の連載を開始する。その後、在京有名出版社から町子と姉・毬子へ仕事のオファーが舞い込んだことから、『サザエさん』をサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京。1947年(昭和22年)1月3日、夕刊フクニチへの『サザエさん』連載を再開した。この頃より、夕刊フクニチ以外の地方紙にも同時掲載されるようになる。同年、毬子と共に設立した姉妹出版(後の姉妹社)から、福岡の家を売った資金で『サザエさん』第1巻を出版。初版2万部を納め、集金も出来たので2万部を増刷したところ、B5判の横綴じという第1巻の形状が書店の店頭に並べにくいとの理由により大量返品を受け、姉妹出版は当時の出版取次大手業者の日本出版配給(日配)から出入り禁止の処分を受けた。その後、長谷川家は日配から戻された第1巻の在庫に占拠される事態となったが、母は「形状が不評なのだから次はB6判で出せば良い」と励まし、B5判を当初勧めた筋から新たに借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を1万部印刷。日配が使えなくなったため、姉の毬子が大八車を雇って直接小規模の取次を回り、頼み込んで第2巻を納入した。その第2巻が読者に好評を博し、B5判の第1巻も書店から引き合いが来るようになったことから、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版となった。1948年(昭和23年)11月21日、『サザエさん』の連載先が新夕刊に移り、翌年には朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に連載先が変更。さらに、1951年(昭和26年)から朝日新聞の朝刊に連載となり、新聞4コマ漫画の第一人者となる。しかし、1960年(昭和35年)に漫画家廃業を宣言して断筆。漫画考案に苦悶する町子を見かねていていた家族は廃業に強く賛成したが、当時の朝日新聞社の広岡知男編集局長の説得で『サザエさん』は休載扱いとなる。約半年後、長谷川の心境が変わった後に朝日新聞社から再び打診があり、連載を再開した。1966年(昭和41年)、ヒューマニズムに飽きていた長谷川は、ブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始した。1967年(昭和42年)、胃癌を患い、胃の5分の4を摘出。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する。1974年(昭和49年)、2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった。1978年(昭和53年)、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作としたNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された。1982年(昭和57年)、紫綬褒章を受章。このときのインタビューで、新作発表の質問に対し「もう漫画を描くつもりはない」と答えている。それでも、エッセイ風の漫画をときおり発表することもあり、1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。1990年(平成2年)、勲四等宝冠章を受章。1992年(平成4年)5月27日、冠動脈硬化症による心不全のため死去。享年73。「入院、手術はしない。 葬儀、告別式はせず、密葬。納骨が終わるまで公表しない」という遺言により、亡くなった1ヶ月後の納骨が済むまで公表されなかった。フジテレビでは公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。


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『サザエさん』という国民的キャラクターを生み出した女性漫画家のパイオニア・長谷川町子。彼女のお墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「長谷川家」とあり、墓誌はない。1969年(昭和44)年の放送開始から現在に至るまで、庶民性のある家庭アニメとして幅広い層から支持されている『サザエさん』であるが、意外にもソフト化されたことは一度もない。これは、『サザエさん』のみならず、長谷川町子に関連する作品すべてに共通している。それだけでなく、火曜日に放送していた再放送版『サザエさん』が町子没後に突如として終わったり、1995年(平成7年)頃に流行した「サザエさん」と「天才バカボン」のコラボキャラ「サザエボン」の著作権を巡る裁判が起こるなど、長谷川町子関連のモノは権利関係が非常に厳しい。町子も生前、無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴して勝訴している。とにかく権利が厳しく、「日本のディズニー」とまで呼ばれている長谷川町子関連の著作権であるが、それを管理していた姉の長谷川毬子が2012年(平成24年)に94歳で亡くなった。それ以降、アニメの元スタッフが製作の裏話を書いた「『サザエさん』のないしょ話」や、初の音源化となったCD「サザエさん音学大全」などが発売されるなど、張り詰めていた規制が徐々に和らいできたようだ。 毬子亡き今、町子が残し、47年もの間お茶の間に愛され続けてきた「サザエさん」を、今こそソフト化してほしいとファンである私は切に思う。

by oku-taka | 2017-01-03 01:01 | 漫画家 | Comments(0)