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三島由紀夫(1925~1970)

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三島 由紀夫(みしま ゆきお)

作家
1925年(大正14年)~1970年(昭和45年)


1925年(大正14年)、東京市四谷区永住町(現在の東京都新宿区四谷)に生まれる。本名は平岡 公威。歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花を好む祖母の影響で、幼少期から芸術の素養を養う。1931年(昭和6年)、学習院初等科に入学。この頃になると、詩や俳句などを親しむようになり、初等科機関誌『小ざくら』に発表し始める。また、読書にも親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』、『スピード太郎』などを愛読する。1941年(昭和16年)、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送し批評を請う。清水は深い感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の編集会議にその原稿を持参し、同誌への掲載が決定。清水は、息子の文学活動を反対する父の反応や、まだ16歳である公威の将来を案じ、静岡県の地名「三島」と、富士の白雪を見て浮かんだ「ゆきお」からとった「三島由紀夫」の筆名を与える。「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号にかけて連載され、1944年(昭和19年)には処女短編集『花ざかりの森』として出版された。1945年(昭和20年)、入営通知の電報が届くも、当時風邪で寝込んでいた母から移ったせいで気管支炎を起こし、眩暈や高熱の症状を出していたことから、入隊検査で新米の軍医からラッセルが聞こえるとして肺浸潤と誤診され即日帰郷となる。この身体の虚弱さと、そこからくる気弱さが生涯にわたるコンプレックスとなり、複雑な思いや特異な死生観を抱かせることになる。1946年(昭和21年)、終戦前に川端康成から戦時下に発表した「中世」や『文藝文化』に掲載された作品を読んでいるという手紙を受け取り、その作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた三島は、それを頼みの綱にして「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、鎌倉の二階堂に住む川端のもとを初めて訪問。「煙草」を読んだ川端は、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、同誌の6月号に掲載決定がなされた。これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、以後、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりが形づくられた。1947年(昭和22年)、東京大学法学部法律学科を卒業。その後、高等文官試験に合格し、12月24日に大蔵省に初登庁。大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務する。1948年(昭和23年)、役所の仕事と作家の生活を両立していた三島だったが、二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中に長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落。幸い電車が来ないうちに這い上がれたが、この事故をきっかけに父が職業作家になることを許し、大蔵省を退職。1949年(昭和24年)、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受ける。7月5日には、初めて取り組んだ私小説『仮面の告白』が出版され、神西清や花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となり、作家としての地位を不動のものとする。1954年(昭和29年)、『潮騒』がベストセラーとなり、第1回新潮社文学賞を受賞。これを受け、2年後にはアメリカでも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されるとベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけとなる。その後も、『金閣寺』、『永すぎた春』、『美徳のよろめき』などの作品を発表し、タイトルが流行語となるほどのベストセラーを記録。また、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞し、長く上演されるほどの人気作となった『鹿鳴館』を発表するなど、旺盛な活動を見せた。1955年(昭和30年)、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習をスタート。さらに、後楽園ジムのボディビル・コーチ・鈴木智雄に出会って弟子入りをし、鈴木が自由ヶ丘に開いたボディビルジムに通うなど、本格的な肉体改造に取り組む。1959年(昭和34年)、大映と映画俳優の専属契約を結び、俳優としての活動をスタート。1961年(昭和36年)には、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルとなり、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして世間に披露するなど、執筆活動以外の話題がマスメディアに取り上げられるようになり、文学に関心のない層にも名前が知られるようになる。1965年(昭和40年)、4年前に発表した短編小説『憂国』を自らで映画化し、脚色・監督・主演を担当。1967年(昭和42年)、単身で自衛隊に体験入隊し、国土防衛の一端を担う「祖国防衛隊」構想を固めるなど、政治的傾向を強めていく。1968年(昭和43年)には、隊の名称を「祖国防衛隊」から、万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」にちなんだ「楯の会」と変え、自衛隊の国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画する。1969年(昭和44年)、『豊饒の海』第一巻「春の雪」、第二巻「奔馬」を発表し、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価を受ける。1970年(昭和45年)3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は、4月頃から森田必勝ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始める。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成。7月5日、森田必勝ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。享年45。辞世の句は「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の2句。自宅書斎からは、家族や知人宛ての遺書の他、「限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫」という遺書風のメモも見つかった。



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ノーベル賞の候補に何度も挙がった日本を代表する作家・三島由紀夫。日本の行く末を憂い、国のために「殉死」とも云うべき最期を遂げてから47年の時が流れた。彼のお墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「平岡家之墓」とあり、右横に「靈位標」と刻まれた墓誌がある。世界的にも広く知られた人気作家の衝撃的な最期からずいぶんの時が経ったが、今なお彼の人気は衰えず、メディアでも盛んに取り上げられている。実際、私が墓参りをする前に、非常にお洒落な服装をした先客がいた。どことなく内藤陳に似た初老の男性は、線香の代わりに煙草を差し、後ろで待つ私に一礼して立ち去った。線香でなくタバコの煙が立ち上る墓参りというのは初めての経験であったが、三島が未だ多くの人に愛されていることを感じられ、なんとなく微笑ましくなった。


by oku-taka | 2017-01-02 18:06 | 文学者 | Comments(0)