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五代目・春風亭柳昇(1920~2003)

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五代目・春風亭 柳昇(しゅんぷうてい りゅうしょう)


落語家
1920年(大正9年)~2003年(平成15年)

1920年(大正9年)、東京府北多摩郡武蔵野村(現在の東京都武蔵野市)に生まれる。本名は、秋本 安雄。大地主であった農家の跡取り息子として出生したが、生まれた頃にはすでに没落しており、新聞配達などをして暮らしを支えた。1933年(昭和8年)、地元にできたばかりの横河電機に就職。同社吹奏楽団にも所属し、トロンボーンを担当した。1940年(昭和15年)、徴兵検査で甲種合格。翌年2月に出征し、歩兵第101連隊第一機関銃中隊に入隊した。その後、上等兵、兵長、伍長と進級するも、1945年(昭和20年)3月25日 、青島に向け上海を出航した輸送船「厚利丸」で敵機ノースアメリカンB-25の空襲を受け、指を数本失う重傷(右前膊左手背骨折擦過機関砲弾創)を負い、輸送船「真岡丸」に救助される。その後、傷痍軍人として部隊から外され、敗戦まで転院を繰り返しながら入院生活を送る。同年8月15日、北京陸軍病院で終戦を迎え、12月に復員。勤めていた会社に復職を希望するも、傷痍軍人であることから断られてしまう。その後、戦友であった6代目春風亭柳橋の息子・渡辺勝郎に相談し、生活のために柳橋の弟子となる。1946年(昭和21年)、「春風亭柳之助」の名で落語家デビュー。1949年(昭和24年)には二つ目に昇進し、5代目・春風亭柳昇を襲名するが、なかなか芽が出ず不遇の時を過ごす。その後、手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語に絞って活動することを決意。雑誌に新作落語を投稿するなどして次第に力をつけていき、1958年(昭和33年)、真打に昇進した。1959年(昭和34年)、フジテレビのバラエティー番組『お笑いタッグマッチ』に司会者として出演したところ人気が沸騰し、一躍時代の寵児となる。また、落語のほうでも、自身の軍隊体験を落語調に綴った『与太郎戦記』が大当たり。1969年(昭和44年)には、大映でフランキー堺の主演により映画化された。1973年(昭和48年)、国立演芸場設立促進委員長に就任し、6年後の国立演芸場の完成に尽力した。年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声と口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作落語の大御所として地位を確固たるものとしていく。1982年(昭和57年)、芸術祭優秀賞を受賞。この頃、フジテレビ『花王名人劇場』に出演したところ、落語好きの女子大生を中心に人気が集まり、彼女たちを中心に親衛隊ともいえる「柳昇ギャルズ」が結成されるなど、再ブレイクを果たす。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章を受章。生涯現役の落語家として活躍し続けていたが、次第に高座やテレビ出演での挙措に衰えが囁かれるようになる。そんな矢先の2003年(平成15年)6月16日、胃癌のため逝去。享年82。


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「わたくしは春風亭柳昇と申しまして、大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…、わたし一人でございます」。この決まり文句と飄々とした芸風で多くの人に愛された五代目・春風亭柳昇。新作落語の第一人者として戦後の落語界を盛り上げた柳昇のお墓は、東京都武蔵野市の延命寺にある。墓には「先祖代々精霊」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「春風院楽安柳昇居士」。なお、入口右横には本人直筆の言葉が彫られた碑が建立されている。「遊んでいるよな小鳥でさえも 生きるためには苦労する 春風亭柳昇」

by oku-taka | 2016-12-30 01:18 | 演芸人 | Comments(0)