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中川一政(1893~1991)

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中川 一政(なかがわ かずまさ)


画家
1893年(明治26年)~1991年(平成3年)

1893年(明治26年)、東京府東京市本郷に生まれる。幼少期に文学に目覚め、短歌や詩を作るようになる。その後、文芸誌「白樺」に熱中し、その中で紹介されたゴッホやセザンヌの作品に触発され、独学で絵を描き始める。1914年(大正3年)、知人から貰った油絵具で描いた処女作「酒倉」が、第14回巽画会において入選。この作品で岸田劉生に見出され、岸田が組織した草土社に参加する。翌年、「霜のとける道」「監獄の横」を巽画会第15回展に出品し、最高賞である二等賞を受賞した。これを機に、洋画家として生きていくことを決意する。1920年(大正9年)、初の個展を開催。1922年(大正11年)には、小杉放庵、岸田劉生、梅原龍三郎らと共に「春陽会」設立に参加する。この頃から、油絵のみならず水墨画や版画といったあらゆるジャンルに挑戦するようになり、自分ならではの世界を模索する日々を送るようになる。やがて時局は戦争に突入し、中川は伊豆に疎開。終戦直後、たまたま立ち寄った神奈川県真鶴町の福浦港の景色に深く魅了され、1949年(昭和24年)に真鶴町にアトリエを構える。ここから約20年にわたって福浦港を描き、「福浦」「福浦突堤」といった連作を発表する。1967年(昭和42年)、福浦港がコンクリートで固められ、鉄筋建ての建物が目立ち始めたことから、新たに魅せられた箱根連山の駒ヶ岳に題材を移して創作に取り組む。1974年(昭和49年)、パリで個展を開催。1975年(昭和55年)、文化勲章を受章。90歳を超えても現役の画家として活動していたが、駒ケ岳を描いていた場所がヘリポートの発着所となってしまったことから、晩年はアトリエ内での創作が増え、「薔薇」や「向日葵」といった静物の連作を数多く描くようになる。亡くなる直前まで絵筆を執り続け、1991年(平成3年)2月5日、病気のため死去。享年97。


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97年の生涯を絵に捧げた画家・中川一政。彼の画風は、豪快な筆使いと鮮やかな原色対比が特徴的で、ほとばしるエネルギーをキャンバスにぶつけているかのような印象を受ける。それは、一つの対象物に何十年も向かい合い、独力で身につけた技法を駆使して絵と格闘しているからであろう。過去の映像で出てくる中川一政は、まるで仙人のように達観した穏やかな口調でインタビューに応じており、とても激しい絵を描く人とは思えない。そんな穏やかさと激しさが隣り合わせの画家・中川一政のお墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。墓には「中川家之墓」とあり、右横に墓誌が彫られている。

by oku-taka | 2016-12-25 00:21 | 芸術家 | Comments(0)