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向田邦子(1929~1981)

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向田 邦子(むこうだ くにこ)

脚本家・作家
1929年(昭和4年)~1981年(昭和56年)

1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現在の東京都世田谷区若林)に生まれる。第一徴兵保険(現在のジブラルタ生命保険)に勤めていた父親の都合で、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。1950年(昭和25年)、実践女子専門学校(現在の実践女子大学)国文科を卒業。財政文化社に社長秘書として入社する。1952年(昭和27年)、新聞の求人欄に「編集部員求ム」の広告を出していた雄鶏社に応募して採用され、雑誌『映画ストーリー』の編集に従事する。その傍ら、アルバイトとして『ダイヤル110番』の脚本や、俳優の森繁久彌がパーソナリティを務めたラジオ番組『奥さまお手はそのまま』などの脚本を執筆。その後、向田の才能を感じた森繁から市川三郎を紹介され、市川のもとで脚本を学ぶ。1960年(昭和35年)、雄鶏社を退社し、フリーライターとして独立。1962年(昭和37年)、ラジオドラマ「森繁の重役読本」の脚本を担当し、評判を呼ぶ。1964年(昭和39年)、テレビドラマ『七人の孫』の脚本を担当。最高視聴率33.3%を記録し、向田にとって初めてのヒット作となる。その後、『だいこんの花』『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』といった作品の脚本を担当し、いずれもシリーズ化されるほどの大ヒットとなるなど、一躍人気脚本家の仲間入りを果たした。1975年(昭和50年)、乳癌が発覚。手術を受け成功するも、輸血による肝炎と右腕が動かない等の後遺症に苦しめられることになる。この病気を機に、随筆やエッセイの執筆を開始。1976年(昭和51年)、雑誌『銀座百点』に「父の詫び状」の連載を開始し、作家デビューを果たす。1978年(昭和53年)、初のエッセイ集『父の詫び状』を刊行。1980年(昭和55年) 、TBSドラマ『源氏物語』、NHKドラマ『阿修羅のごとくI・II』、『あ、うん』の脚本で第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞。同年、短篇の連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞した。脚本家として、作家として、さらなる活躍を期待されていたが、1981年(昭和56年)8月22日、旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故に遭遇し死去。享年51。


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独特の感性と深い人間洞察、鋭い切れ味の文章と巧みな台詞で名作を量産してきた向田邦子。突然の旅立ちから35年になるが、今なお彼女の作品は売れ続け、幅広い年齢層から支持されている。彼女のお墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「向田家之墓」とあり、右横に本を模った向田邦子の墓誌が建てられている。そこには、彼女を見出した森繁久彌の「花ひらき はな香る 花こぼれなほ薫る」という言葉が彫られている。テレビ黎明期にホームドラマというジャンルを打ち立て、平岩弓枝と共に「ドラマのTBS」と呼ばれた黄金期を築いた向田邦子。テレビ好きな筆者は、数ある向田作品の中でも「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「父の詫び状」の三作品がたまらなく大好きだ。それぞれのドラマで描かれる家族愛、その裏に隠された愛憎劇、登場人物たちの奥ゆかしい仕草・・・現代のドラマには既に失われてしまった風景が彼女の作品の中にある。それだけに、絶頂期での不慮の事故死というシナリオは、芸能界にとって大きな損失であり、本人にとっても悔しい幕切れであっただろう。


by oku-taka | 2016-12-25 00:11 | 文学者 | Comments(0)