人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ディック・ミネ(1908~1991)

ディック・ミネ(1908~1991)_f0368298_02204530.jpg

ディック・ミネ

歌手
1908年(明治41年)~1991年(平成3年)

1908年(明治41年)、徳島県徳島市に生まれる。本名は、三根 徳一。父は東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎。母は日光東照宮の宮司の娘。幼少期、音楽好きだった母親の所有していた西洋音楽のレコードに興味を持つ。父親の転勤の影響で上京し、立教大学に入学。在学中から軟派の気風が加わり、次第にダンスホールなどでジャズに傾倒。自らもバンドの一員となり、アルバイトで歌も歌うようになる。また、当時としては珍しいスチールギターの演奏が出来たため、レコード会社各社でアルバイト演奏を行い、ミス・コロムビアの歌う『十九の春』の伴奏なども務めた。大学卒業後、父親の勧めで逓信省貯金局に就職したものの、ダンスホールのバンドメンバーに誘われ音楽で身を立てる決意をする。1934年(昭和9年)、タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたところを淡谷のり子に見出され、レコード歌手の道を歩むこととなる。芸名は、立教大学在学中に所属していた相撲部でふんどしを締める際にアメリカ人教師から「ディック(英語で男性器のスラング)が非常に大きい」と評されたことにちなみ、ディック・ミネとした。同年創立されたテイチクレコードにて専属のジャズバンドの計画が持ち上がり、ミネがプレイヤーの人選を行った結果、白人3人、日本人6人からなる「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」が東京で結成される。このジャズバンドと組み、同年8月7日に録音された『ロマンチック』で歌手デビュー。その後、テイチクレコードの重役だった作曲家・古賀政男の推薦で『ダイナ』をレコーディング。同曲では、自ら訳詞と編曲、演奏を担当し、片面にカップリングされた『黒い瞳』とともにテイチク創立以来の大ヒット曲となった。1935年(昭和10年)、古賀の勧めで流行歌も歌うようになり、映画女優・星玲子とのデュエット曲『二人は若い』が大ヒット。従来の純日本調の歌手とは一線を画す独特な歌唱で新たなファン層を取り込み、一躍トップスターとなる。その後も、『愛の小窓』、『人生の並木路』と歌謡曲のヒットが続く一方で、『アイルランドの娘』、『林檎の樹の下で』、『ラモナ』などの外国曲を日本語で歌い、戦前のジャズシーンを飾った。また、映画界にも活躍の場を広げ、マキノ正博監督の『弥次喜多道中記』(1938年)、『鴛鴦歌合戦』(1939年)、島耕二監督の『街の唱歌隊』(1940年)といったミュージカル映画に多く出演した。1938年(昭和13年)、ミネが中国大陸に演奏旅行中、古賀が「日本の流行歌は日本の名前で歌った方がいいだろう」とミネの了解を得ずに、本名を一文字変えて「三根耕一」名義で『どうせ往くなら』、『旅姿三人男』などを発売。帰国したミネの抗議によって「ディック・ミネ」名義に戻ったが、1940年(昭和15年)に内務省からカタカナ名前や皇室に失礼に当たる芸名は改名を指示されたことにより、やむなく「三根耕一」と再度改名をした。1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発以降は極端に活躍の場を奪われ、外国人が多く居住した上海租界に活動の場を移し、日本と上海を行き来する生活が続いた。戦後は、ジャズの復活とともに流行歌の世界でも活躍を再開。1947年(昭和22年)、水島道太郎と共演した松竹映画『地獄の顔』の主題歌『夜霧のブルース』、『長崎エレジー』が大ヒット。その後も、『雨の酒場で』がヒットした一方、演技もできる歌手として映画においても精力的に活躍した。1955年(昭和30年)以降は、テレビの登場とともに司会やコメンテーターとしても活躍。また、後輩の面倒見もよく、後に俳優となった藤田まこと、ミネが名づけ親となったジェームス三木などを育てている。1979年(昭和54年)、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「日本歌手協会」の3代目会長に就任した。1982年(昭和57年)には淡谷のり子とのデュエット曲『モダンエイジ』を発表し、「二人合わせて150歳のデュエット」と話題になった。1985年(昭和60年)頃から次第に体調を崩すようになり、1990年(平成2年)夏に行われた日本歌手協会主催の恒例イベント「日本歌謡祭」への出演が生涯最後のステージとなった。既にこの時には自力で歩行できないほど衰弱し、声も思うように出ない状態となっていたが、無理を押して出演し、代表曲「ダイナ」を渾身の力を振り絞るように熱唱した。1991年(平成3年)6月10日、急性心不全のため死去。享年82 。


ディック・ミネ(1908~1991)_f0368298_01540550.jpg

ディック・ミネ(1908~1991)_f0368298_01540341.jpg

日本の歌謡界にジャズのフィーリングを持ち込んだ草分け的存在であるディック・ミネ。その芸名の由来はさることながら、生涯で4人の妻を持ち、合わせて10人の子を設けたというプレイボーイっぷりは芸能界の伝説として語り草となっている。そんなディック・ミネのお墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「三根家之墓」とあり、左に墓誌が建てられている。戒名は「三實院釋詠徳」。入口には「音に生きる ディックみね」と書かれた碑があり、ミネの肖像画が描かれたレリーフがはめ込まれている。裏面には、彼の代表曲である「人生の並木路」の1番の歌詞が彫られている。天下のプレイボーイとして名を馳せた男のお墓には、どこか洒落ててカッコいい造りの碑が置かれていた。


by oku-taka | 2016-12-24 02:24 | 音楽家 | Comments(0)