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灰田勝彦(1911~1982)

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灰田 勝彦(はいだ かつひこ)

歌手
1911年(明治44年)-1982年(昭和57年)

1911年(明治44年)、明治政府の移民政策によって広島からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、アメリカ合衆国ハワイホノルルに生まれる。出生名は、灰田 稔勝。医師であった父は博愛家として現地の邦人に慕われたが、1920年(大正9年)に医療活動による過労が原因で急逝。1922年(大正11年)、母、2つ年上の兄・可勝(のちの晴彦)らと共に帰国し、父親の故郷である広島市内に父の墓を建立した。その後、ハワイとの環境があまりにも違う日本の生活に幼年の勝彦が馴染めないであろうとの判断から、ハワイに戻ることを決意。1923年(大正12年)、荷物をまとめ、乗船の切符も全て用意した矢先に、乗船するはずであった横浜市で、関東大震災に見舞われる。震災の混乱で一切の所持品を盗難され、一家は日本滞在を余儀なくされた。日本に残ることになった灰田兄弟は、父親の遺志を継ぐべく、1924年(大正13年)に可勝が、1925年(大正14年)に稔勝がそれぞれ獨協中学校に進学し、医師への道を志す。しかし、稔勝は在学中サッカーに熱中してしまい、成績が芳しくなかったことから医学部への進学はあきらめ、1930年(昭和5年)に立教大学予科へ進学。 大学では野球に熱中する一方、在学中の1931年(昭和6年)に可勝が主宰した日本初のハワイアン・バンド「モアナ・グリークラブ」に入り、ボーカル・ウクレレ奏者として活躍した。1933年(昭和8年)、可勝は晴彦、稔勝は勝彦と名乗るようになり、日本に初めてスチールギターの音色を伝えたバンドは人気が徐々に上昇し、勝彦も各レコード会社でレコーディングするようになる。1934年(昭和9年)、ポリドールから「藤田稔」の名義で初レコーディング。1936年(昭和11年)、立教大学を卒業し、晴彦が所属する日本ビクターと正式に専属契約を結び、『ハワイのセレナーデ』で本格的に歌手デビュー。1937年(昭和12年)、ハワイ音楽にコミカルな詞をつけた「真赤な封筒」が初ヒット。この頃より日中戦争の影響でレコード業界も戦時色が強くなったため、ハワイアンのみならず流行歌のレコーディングも行うようになる。また、本業の歌手だけに止まらず、俳優として東宝系となるJOスタジオと専属契約し、『たそがれの湖』でスクリーンにデビューした。1940年(昭和15年)、当時の人気アイドルであった高峰秀子と共演した映画『秀子の応援団長』に出演。劇中で歌った挿入歌「燦めく星座」が高峰の歌った主題歌「青春グラウンド」を抜いて40万枚の大ヒットとなり、全国的な人気スターとなった。続いて出演した東宝映画『燃ゆる大空』では、不時着をして重傷を負いながら「故郷の空」を歌う飛行兵を演じ、映画俳優としての人気をも確立していった。その後、「お玉杓子は蛙の子」「森の小径」とヒットを連打。日米開戦後は、「ジャワのマンゴ売り」「新雪」「鈴懸の径」といった曲が大ヒットし、戦時中にもかかわらず絶大な人気を得ることとなる。人気の上昇につれ、甘く切ない歌声は「感傷的で好ましくない」と内務省をはじめとする当局から睨まれるようになり、「燦めく星座」の一番の歌詞の「男純情の愛の星の色」が、陸軍の象徴である神聖な星を流行歌の詞に軽々しく使用するとは何事かとクレームをつけられるなど苦汁を飲まされた。しかしながら人気は衰えず、「バタビアの夜は更けて」「加藤隼戦闘隊」「ラバウル海軍航空隊」とレコードのヒットは続き、スクリーンにおいても東宝映画『ハナ子さん』『誓いの合唱』など活躍を続けた。1945年(昭和20年)、芸名であった勝彦の名を本名にした。戦後はさらに人気が上昇し、「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」とレコードの大ヒットが続く。1946年(昭和21年)、高峰秀子と日劇で公演した『ハワイの花』は、連日超満員の観客動員を果たし、絶頂期を迎えた。1948年(昭和23年)、戦争のため関係を引き裂かれていた地元ハワイのフローレンス君子と結婚。結婚後も大ヒットを飛ばし、「アルプスの牧場」では見事なヨーデルを披露して新たな一面を見せた。1956年(昭和31年)、野球選手の別所毅彦、大相撲の東富士、俳優の鶴田浩二らと義兄弟の契りを交わし、映画『四人の誓い』に出演して話題となる。昭和30年代に入ると徐々に人気は衰えてくるが、昭和40年代のなつメロブームで再び脚光を浴び、ブームに欠かせない存在として活躍した。1982年(昭和57年)5月21日、銀座の高級クラブで行われたショー出演中に体調不良を訴えはじめ、数日後入院。軽度の脳出血だったため約1ヶ月の入院・リハビリを経て退院したが、その直後に末期の肝臓ガンであることが判明し、従兄弟が院長を務めていた半蔵門病院に再入院。治療を続け、体調も回復していたが、10月26日、朝食後に容態が急変し、君子夫人と長女に見守られながら死去。享年71。朝食をとった直後は、まだ容体は安定しており、大好きだった野球の放送時間を気にして「おい、1時になったら日本シリーズをつけてくれ」と言ったのが最後の言葉になった。


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万年青年の呼び名が非常によく似合う歌手だった灰田勝彦。気短で喧嘩っ早いが人情家で義理堅いことから「ハワイ生まれの江戸っ子」と呼ばれたり、芸能界きっての野球狂で「野球の合間に歌うのか歌うために野球やるのか」と言われるなど、数々の逸話を持つ人であったが、日本の歌謡界にハワイアンとヨーデルを持ち込んだポップス界の功労者でもある。その功績は、作曲家の小林亜星が「日本のポップスの歴史は、戦前から戦後にかけて活躍した灰田勝彦さんにそのルーツをさかのぼる」と評したぐらいである。そんな灰田勝彦のお墓は、東京都港区の金蔵寺にある。墓には「灰田家之墓」とあり、左横に墓誌が彫られている。戒名は「常徳院釋眞證」。鼻にかかった甘い歌声で一世を風靡した灰田勝彦はいま、愛妻の君子夫人と共に静かな眠りについている。

by oku-taka | 2016-12-24 00:31 | 音楽家 | Comments(0)