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松原操(1911~1984)

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松原 操(まつばら みさお)

歌手
1911年(明治44年)~1984年(昭和59年)

1911年(明治44年)、北海道小樽区(現在の小樽市)に生まれる。幼少期に両親と共に上京するが、12歳の時に父親が病死。音楽に理解のある母親の手で育てられる。その後、青山学院女学部を経て、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に進学。卒業後の1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真に目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。同年、人気スター・伏見信子と人気子役の高峰秀子が共演した松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が大ヒット。その後、『並木の雨』『秋の銀座』などのヒットを連発し、美声の流行歌手として人気を博す。1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため1年間の療養を余儀なくされる。1937年(昭和12年)に復帰を果たし、一連のネエ小唄ブームの流れを組む『ふんなのないわ』が本人の思惑とは相反して、カムバック後の最初のヒットとなった。1938年(昭和13年)、デビュー間もない霧島昇と歌った松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』と『悲しき子守唄』が最大のヒット曲となるほどの売り上げを記録。映画『愛染かつら』自体が爆発的な人気となり、続編、完結編が製作されると、『愛染夜曲』『朝月夕月』『愛染草紙』『荒野の夜風』と一連の主題歌が合わせて発売され、いずれもヒットしている。このヒットで、「愛染コンビ」と呼ばれた霧島昇との共演が多くなり、『一杯のコーヒーから』『愛馬進軍歌』が続けてヒット。ステージや巡業の機会が多くなったことから、3歳年下の霧島昇との関係が親密となっていった。ところが、霧島は当時一躍人気歌手となっていたため、『純情二重奏』で共演した高峰三枝子や、コロムビアの新人歌手・奥山彩子らとの関係がスキャンダルとして取り上げられると、すでに長男を身篭っていた松原操は、正式な結婚を霧島に迫り、1939年(昭和14年)、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって、人気歌手同士の結婚が成立した。その後も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットが続くが、内務省より戦局の悪化に伴うカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアから本名の松原操に改名。戦時中も『大空に祈る』『いさおを胸に』などをレコーディングし、家庭と仕事を両立させて活動した。しかし、1948年(昭和23年)に夫・霧島昇とレコーディングした『三百六十五夜』を最後に完全引退。引退の理由は、子供の教育のため、戦時中から流行していたヒロポンのために歌うことができなくなった、など諸説あるが、現在に至るまで明らかにされていない。引退後は、家庭の人として霧島昇を支えながら育児に専念。その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。1981年(昭和56年)、霧島昇の歌手生活45周年を記念して発売された『妻よ』に松原操として台詞を入れ、30数年ぶりのレコーディングを行った。晩年は心身ともに不調をきたし、入退院を繰り返していた。1984年(昭和59年)4月には、夫である霧島昇に先立たれてしまい、当時霧島と別の病院に入院中であった操は、病身を押しながら葬儀を執り行い、霧島昇の49日の法要を終えた。それから間もなくして、亡き夫の後を追うかのように、同年6月19日に胆石病のため死去。享年73。


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高音が冴え渡る美声の歌手、ミス・コロムビアこと松原操。彼女のお墓は東京都港区の長谷寺にある。正面には「坂本家 祖霊塔」とあり、右横に墓誌が彫られている。戒名は「桂月院雅心淨操大姉」。芸能人における元祖「できちゃった結婚」、また元祖「おしどり夫婦」といっても過言ではない霧島昇・松原操夫妻。戦後の懐メロブームにあっても、いっさいの歌番組出演を断り続けて歌うことがなかったことは、昭和歌謡好きにとっては正直残念でならない。それだけに、1977年(昭和52年)にNHKで放送された「ビッグショー 霧島昇・今こそわが歌を…」で映った、夫の歌う姿を穏やかな微笑みで見つめる彼女の姿を見たとき、大いに感動したものであった。彼女の引退からまもなく70年、早々と引退してしまったこともあり、「旅の夜風」以外の彼女の歌が忘れ去られつつあるのが非常に残念に思う。


by oku-taka | 2016-12-17 22:59 | 音楽家 | Comments(0)