2016年 12月 17日
霧島昇(1914~1984)
霧島 昇(きりしま のぼる)
歌手
1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)
1914年(大正3年)、福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)に生まれる。本名は、坂本 栄吾。幼少期は体格が良く、腕力にも自信があったことから、小学校を卒業後にボクサーを目指して上京。しかし、試合でKO負けを喫して断念。その後、藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思うようになり、1933年(昭和8年)に東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)へ入学。浅草のレビュー小屋でのアルバイト、新聞配達、円タクの運転手といった苦学生生活を送って卒業。その傍らで吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』が、コロムビア文芸部長・松村重武の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアへ入社。当時のコロムビアの看板スターであった松平晃を目標に歌唱技術を磨き、松平とは異なるテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を習得。同年、芸名を「霧島昇」として『思い出の江の島』でデビュー。1937年(昭和12年)、『赤城しぐれ』がスマッシュヒットとなり、霧島昇の名が上がる。1938年(昭和13年)、松竹映画『愛染かつら』の主題歌である『旅の夜風』を、当時大スターだったミス・コロムビア(後の松原操)と共に吹き込み大ヒット。一躍人気歌手の仲間入りを果たす。この作品が縁でミス・コロムビアとの交際がスタートし、1939年(昭和14年)には結婚。その後も、『一杯のコーヒーから』、『純情二重奏』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし、コロムビアのドル箱スターに上り詰めた。1943年(昭和18年)、召集令状を受け、大日本帝国海軍横須賀海兵団に入隊。海軍時代は、情報蒐集及び宣伝を主任務とした副長付班に所属した。戦後も並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに、『夢去りぬ』、『胸の振子』、『三百六十五夜』などのヒットを放ち、健在振りを示した。1970年(昭和45年)、紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)4月24日、腎不全により入院中だった東京の豊島区内の病院にて逝去。享年69。没後、勲四等旭日章を追贈された。
戦前から戦後にかけて温かみのある低音で多くのヒットを飛ばした歌手・霧島昇。彼のお墓は、東京都港区の長谷寺にある。墓には「坂本家 祖霊塔」とあり、側面に墓誌が彫られている。戒名は「天籟院秀峰淨霧居士」。テレビで拝見すると、常に直立不動で時々つま先立ちになって歌うのが非常に印象的であった。霧島昇という人は、無口で真面目な人柄で極度のあがり症だったそうだが、そうした印象は歌う姿から色濃く漂っていた。その割には衣装が派手なのがまた特徴的なのだが、これは妻の松原操が「あなたは地味なんだから、衣装くらいは」という思いから、奥様自らが見立てたものを着ていたとのこと。ただ、あまりのハイセンスに霧島本人も本当は恥ずかしかったとか…