2016年 12月 11日
川上哲治(1920~2013)

川上 哲治(かわかみ てつはる)
プロ野球選手・監督
1920年(大正9年)~2013年(平成25年)
1920年(大正9年)、熊本県球磨郡大村(現在の人吉市)に生まれる。幼少期、父親に教えられた野球に熱中し、大村尋常高等小学校(現在の人吉市立人吉西小学校)在学時代に九州大会で優勝。卒業後は、父親が博打で破産をしたため、熊本県立工業学校(現在の熊本工業高等学校)、中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)、人吉中学校(現在の熊本県立人吉高等学校)といった学校を転々とし、最終的に野球の盛んな熊本県立工業学校に進学。投手として吉原正喜とのバッテリーが評判となり、1934年(昭和9年)と1937年(昭和12年)の夏の全国中等学校優勝野球大会へ2度出場し、いずれも準優勝する。1938年(昭和13年)、バッテリーを組んだ吉原とともに投手として東京巨人軍に入団。この年の巨人は川上、吉原の他、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。入団当時は投手として登録されていたが、球威に乏しく、自他共に認める「軟投派」タイプであった。監督の藤本定義は川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。春シーズン(当時のプロ野球は春・秋の2シーズン制が採られていた)終了後、夏のオープン戦で当時の正一塁手だった永沢富士雄が怪我をし、急遽一塁手として出場。その試合で3安打の活躍を見せると、秋シーズンから一塁手として定着する。翌年から内野手として登録され、川上は正式に野手へと転向した。この年から1シーズン制に戻ったプロ野球界において、わずか19歳で首位打者を獲得。「投手で四番」の先発出場を3回記録しており、4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。10月20日の対イーグルス戦では、当時の日本プロ野球タイ記録となる1試合12与四死球を記録した。終戦後は郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。1946年(昭和21年)、プロ野球が再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、川上は人吉の家族を扶養することを考え、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになるものであり、「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。巨人はこれを受け入れ、同年6月から巨人に復帰。8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー・南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーしたところ、この「赤バット」が川上のトレードマークとなり、青バットを使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。1950年(昭和25年)、シーズン2度の1試合3本塁打を記録。1951年(昭和26年)には打率.377を記録し、規定打席到達者による年間三振6(424打席)の最少三振タイ記録も達成するなど、巨人の第二次黄金時代を支えた。1953年(昭和28年)、プロ野球史上初の1500本安打を達成し、1956年(昭和31年)にはプロ野球史上初の2000本安打をも達成した。しかし、1957年(昭和32年)には打率3割未満に終わり、翌年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するも、さらなる打撃不振に陥り、四番打者の座を新人の長嶋茂雄に奪われてシーズン後半から6番に下がった。結果、日本シリーズ終了後に現役引退を表明し、コーチに就任した。1961年(昭和36年)、水原監督の辞任に際し、第6代監督に昇格。戦力に乏しいロサンゼルス・ドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』を教科書として、春季キャンプからその実践に入った。コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担って選手たちに猛練習を課し、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入。また、選手のプレーひとつひとつに、そのプレーの状況別の意味合いなどを踏まえながら細かい点数を付けて、チームを運営していく独自の「管理野球」を構築した。一方で、日本球界で初めての専属広報をおき、グラウンドから報道陣を追い出して取材規制を敷いた。そうした行為に反発したマスコミは「鉄のカーテン」に擬え「哲のカーテン」と呼んだ。さらに、川上はグラウンドの権限のみならずスカウト部長を兼任するなどチーム編成の面でも権限を掌握しており、栄養学、ランニングコーチ制の導入など新機軸を次々と打ち出していった。こうした野球が功を奏して、1961年(昭和36年)にはチーム打率リーグ最低に加えて当時では珍しい20勝投手なしという戦力でありながらリーグ優勝を果たし、さらに日本シリーズでは南海ホークスを倒して日本一に輝いた。1965年(昭和40年)、野球殿堂入りを果たす。この頃から巨人は戦力が整い、巨人は1973年(昭和48年)まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この時期には管理野球は更に進化し、「人間教育」の分野にまで踏み込んでいた。この間堀内恒夫、土井正三、高田繁、高橋一三ら若手が主力選手として支え、さらにトレードで関根潤三、森永勝也、富田勝ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。1974年(昭和49年)、巨人がリーグ10連覇を逃し、監督退任を発表。監督退任後は球団専務に就任したが、川上を煙たがり、現場から遠ざけることを望んでいた当時の正力亨オーナーの意向で少年野球担当に回され、わずか1年で退団。1976年(昭和51年)からNHKの野球解説者となった。また「子供たちに正しい野球の仕方」について教えることにも情熱を傾け、夏休みに開催された「NHK少年野球教室」の主任講師としても20年以上に渡って活躍した。1981年(昭和56年)、野球と経営術を絡めたビジネス本『悪の管理学』を発表しベストセラーになる。1992年(平成4年)、勲四等旭日小綬章を受章。1999年(平成11年)には、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場が完成した。晩年は高齢のため解説者や評論といった第一線からは退いたが、2004年(平成16年)に東京ドームで行われた「巨人軍球団創立70周年記念」戦で始球式を務めたり、2007年(平成19年)6月8日の巨人軍通算5,000勝記念イベント「栄光のV9シリーズ」初日の巨人対楽天戦で東京ドームのグラウンドに姿を見せたりと元気な姿を見せていた。2013年(平成25年)、春先に自宅で転倒して肋骨を骨折したことをきっかけに持病の心臓病が悪化。急激に老衰の症状が進み、10月28日、東京都稲城市のよみうりランド慶友病院にて、老衰のため死去。享年93。


プロ野球選手として、また監督として数々の伝説を残した「打撃の神様」こと川上哲治。彼のお墓は東京都世田谷区の龍雲寺墓地にある。墓には「川上家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「大徹院赤心哲山居士」。スポーツ界では「名選手は名監督にあらず」という言葉がよく言われるが、それに当てはまらない人物の代表が川上哲治であろう。選手として数々の記録を打ち立て、監督としてチームを9度の優勝に導いたミスタープロ野球、それが川上哲治であった。93年という長い人生を野球に捧げた男は、長年住み慣れた世田谷区野沢の墓地で静かに眠っている。

