2016年 12月 10日
獅子文六(1893~1969)
獅子 文六(しし ぶんろく)
作家
1893年(明治26年)~1969年(昭和44年)
1893年(明治26年)、 神奈川県横浜市弁天通に生まれる。本名は、岩田 豊雄。幼少期は横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎に編入学。普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。しばらくは文学青年としての生活を送るが、1921年(大正10年)の母の死を機にフランスへ渡って演劇を学ぶ。このとき、日本人の留学生相手にフランス語を教えていたフランス人のマリー・ショウミーと出会い、後に結婚。帰国して長女の巴絵を得るが、1932年(昭和7年)に病死。その後の1934年(昭和9年)、愛媛県出身の富永シズ子と再婚した。(このときの暮らしが、後に発表する私小説『娘と私』のモデルとなる)。1937年(昭和12年)、岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。「文学座」の命名は岩田のものによるで、岸田、久保田と共に文学座幹事(後に顧問)を務めた。1936年(昭和11年)、獅子文六の筆名で、最初の新聞連載小説『悦ちゃん』を発表。1942年(昭和17年)、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で朝日文化賞を受賞。この作品がきっかけとなり、戦中には海軍関係の文章を多数発表。戦後、そうした活動が進駐軍の目にとまり、「戦争協力作家」として「追放」の仮指定がされたが、1ヶ月半後には解除された。その後、戦後の住宅不足のために妻の実家がある愛媛県岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開。1948年(昭和23年)、この地をモデルにした連載小説『てんやわんや』を発表し、獅子にとって戦後初のヒット作となる。その後、再び上京するが、2番目の妻・富永シズ子が病のため急死するという不幸に見舞われる(後に元男爵の吉川重吉の娘である幸子と3度目の結婚をする)。1951年(昭和25年)、戦後の新しい価値観を風刺的に描いた『自由学校』を発表し、松竹と大映が競作で映画化するほどの大評判を呼ぶ。これ以降、作品の多くが映画化されるようになり、一大ブームを巻き起こす。1961年(昭和36年)には『娘と私』がNHK連続テレビ小説の第1作目として制作された。また、様々な物を食してきた食通としても知られており、『飲み食ひの話』、『飲み・食い・書く』などの随筆も書き記している。1963年(昭和38年)、日本芸術院賞を受賞。1964年(昭和39年)には芸術院会員に選ばれた。1969年(昭和44年)、文化勲章を受章。同時に文化功労者に選出された。しかし、その1ヶ月後の12月13日、脳溢血のため死去。享年76。
庶民の暮らしぶりをウィットかつユーモアに描いた人気作家・獅子文六。彼のお墓は東京都台東区の谷中霊園にある。墓には「岩田家之墓」とあり、墓誌はない。戒名は「牡丹亭豊雄獅子文六居士」。獅子文六がこの世を去って46年。そのためか、作品の多くが長らく絶版状態であり、かつての人気作家は忘れられた存在になってしまった。ところが、数年前から絶版久しかった作品群が続々と復刊し始め、静かな獅子文六ブームが30代を中心に起こっているという。一体なぜ今頃そんな現象が起きたのか全くわからないが、実は筆者も獅子文六は好きな作家の一人であり、彼に再び光が当てられたことを大変嬉しく思っている。ユーモアながらもどこか洒落ていて、リズミカルなストーリーの数々は、今後も多くの読者を増やしていくのかもしれない。