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松島詩子(1905-1996)

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松島 詩子(まつしま うたこ)

歌手
1905(明治38年)~1996年(平成8年)

1905(明治38年)、山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市)に生まれる。本名は松重(内海)シマ。1923年(大正12年)、柳井高等女学校(現在の山口県立柳井高等学校)卒業後、同県の小学校教員にとなる。1929年(昭和4年)、小学校音楽教員免許を取得。広島に出て、忠海高等女学校(現在の広島県立忠海高等学校)の代用教員となる。この頃、彼女が歌好きであることを知った先輩教員の勧めがきっかけで文部省中等教員検定試験の合格を目指すようになり、1931年(昭和6年)に見事合格。その報告として恩人のもとを訪れた際、作曲家・佐々木すぐると出会う。彼女の歌声を聴いた佐々木は流行歌手になることを強く勧め、1932年(昭和7年)に上京。柳井はるみの芸名で日本コロムビアより『ラッキーセブンの唄』でレコードデビュー。その後、千早淑子、東貴美子、松島詩子と様々な芸名を用いて、多数のレコード会社で吹き込みを行う。1934年(昭和9年)、キングレコードより松島詩子の名で吹き込んだ『潮来の雨』がヒット。翌年、『夕べ仄かに』が大ヒットし、キングレコードへ正式に移籍。芸名を作曲家・山田耕筰が命名した松島詩子に統一した。その後、彼女の代名詞的一曲『マロニエの木陰』や、『上海の踊り子』『広東の踊り子』『南京の踊り子』からなる踊り子シリーズをヒットさせ、人気歌手の地位を築く。1940年(昭和15年)、『道頓堀行進曲』のヒットで知られる歌手・内海一郎と結婚。この頃の内海は既に歌手を止めており、1972年に亡くなるまで松島のマネージャーとして活動をサポートした。戦後は、和製シャンソンというジャンルの確立に挑み、日本の流行歌には珍しいヴァースを取り入れた『私のアルベール』、カルメンを題材とした『スペインの恋唄』、息の長いロングヒットとなった『喫茶店の片隅で』などを発表。一方で、原信子や浅野千鶴子といった声楽家に師事してクラッシックを学び、オペレッタ公演を多数行うなど、意欲的に歌へと取り組んだ。1978年(昭和53年)、勲四等瑞宝章を受章。1984年(昭和59年)には、バラエティ番組『ライオンのいただきます』にレギュラー出演し、愛嬌あふれる言動で幅広い層に知名度が拡大した。1991年(平成3年)、柳井市名誉市民に選定。80歳を超えても現役の歌手として活動し、東京・小平の自宅で開いていた音楽教室「詩っ子会」の指導は亡くなる直前まで行っていた。1996年(平成8年)11月19日、心不全のため死去。享年91。


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歌を愛し、音楽の道を究め続けた歌手・松島詩子。彼女の墓は東京都東村山市の小平霊園にある。墓石には「内海家」と彫られているだけで、墓誌など他には何もない非常にシンプルな造りとなっている。女学校の教師から歌手に転じ、あらゆるジャンルの音楽に挑戦し続けた松島詩子。晩年には歌謡界の最長老となってしまったが、ピアノの弾き語りやバラエティー番組への出演など、老いてなお益々意気盛んに活動した。今年で没後20年となるだけに、その存在は忘れ去られつつある。クラシックや声楽を身に着けた歌手が往年のヒット曲をテレビ番組で披露する機会が多くなった今、その元祖ともいうべき松島詩子の再評価を望みたい。

by oku-taka | 2016-11-01 19:26 | 音楽家 | Comments(0)