2016年 08月 30日
長谷川一夫(1908~1984)

長谷川 一夫(はせがわ かずお)
俳優
1908年(明治41年)~1984年(昭和59年)
1908年(明治41年)、京都府紀伊郡堀内村字六地蔵(現在の宇治市六地蔵)に生まれる。家業の造り酒屋を継承し、大手座という芝居小屋を経営していた叔父(母の弟)の影響で、幼少期より芝居に親しんで育った。1913年(大正2年)、中村鶴之助一座の『菅原伝授手習鑑 寺子屋』に風邪で倒れた子役の代役として舞台デビュー。これが奇縁となり、1914年(大正3年)、関西歌舞伎の中村福円の弟子となり、中村一夫を名乗る。全国を巡業漂泊し、1917年(大正6年)に福円一座と共に初東上して浅草吾妻座に出演。嵐佳寿夫と改名した。1918年(大正7年)、初代・中村鴈治郎の門下に加入。長男である林長三郎に預けられ、林長丸と名を改めた。芸熱心であった長丸は関西歌舞伎の厳しい修行に耐え、鴈治郎一座の関西青年歌舞伎で絶大な人気を誇る女形に成長していった。1926年(大正15年)、大阪松竹座のこけら落としの舞台に出ているところ、観劇に来た大阪松竹の社長白井松次郎と二代目・実川延若にその美貌ぶりを認められ、1927年(昭和2年)松竹下賀茂撮影所に入社。師から林長二郎の芸名を貰い、犬塚稔監督の『稚児の剣法』で銀幕デビューを果たす。当時、時代劇映画の製作に注力し始めていた松竹は、林を期待の新人スターとして莫大な宣伝費をかけて売り出し、その結果この映画は若い女性の間で大人気となり、林はたちまちスター俳優の仲間入りを果たした。1935年(昭和10年)、衣笠貞之助監督の『雪之丞変化』では、女形の歌舞伎役者に身をやつして両親の仇討ちをする剣豪の雪之丞、それを助ける義賊の悪太郎、雪之丞の母、という三役を一人でこなし、空前の大ヒットとなる。この頃の人気は凄まじく、まさに絶頂期であった。1937年(昭和12年)、松竹を退社して東宝に移籍。「忘恩の徒」とマスコミから轟々たる非難を浴びる。移籍の背景には長谷川が最新の設備に惹かれたことと、松竹の扱いに憤慨した母親が長谷川に相談せず東宝との契約書に押印したとの事情も伝えられている。同年11月12日、新作映画撮影中に「松竹への恩義を忘れた不徳義漢」との建前で、撮影所出入りの不良少年に襲われて顔を斬りつけられ、左頬を貫通する深手を負った。「林長二郎暴漢に顔を斬らる!」との新聞見出しに京都中がてんやわんやとなり、「二枚目映画スタアの受難」は日本全国を騒然とさせた。この事件の裏には松竹の意向があったと噂されている。一度は引退を考えるも、1938年(昭和13年)、山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』で銀幕復帰。独自に工夫したメイキャップで傷跡を消し、再起不能とまでいわれた逆境を見事に跳ね返した。また、この怪我を機会に、芸名を本名の長谷川一夫に戻した。その後は、山田五十鈴とコンビを組んだ『鶴八鶴次郎』、李香蘭と共演した『白蘭の歌』、『支那の夜』などといったヒットを飛ばした。1942年(昭和17年)、演劇の実演を行うため、山田五十鈴らと新演伎座を結成。1947年(昭和22年)、東宝が東宝争議で機能停止。長谷川は組合側にも経営者側にも立たず、大河内伝次郎、藤田進、黒川弥太郎、高峰秀子、入江たか子、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子とともに「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退、3月25日に新東宝の設立に参加した。1948年(昭和23年)、新演伎座を株式会社化し、自らその代表となる。併行して映画製作も行い『小判鮫』『幽霊暁に死す』などを製作した。1950年(昭和25年)、大映京都撮影所に重役として迎えられる。1951年(昭和26年)、森一生監督による『銭形平次』が公開。以後『銭形平次 捕物控』シリーズとして計17本が作られ、長谷川にとって戦後の当たり役となった。1953年(昭和28年)、イーストマン・カラー第1作である、衣笠貞之助監督作品『地獄門』に主演。作品はカンヌ国際映画祭グランプリとアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。1955年(昭和30年)からは東宝歌舞伎を主宰し、東京宝塚劇場を中心に新歌舞伎座、御園座、中日劇場で公演を行い、大成功させる。その後は年2回ほど公演を行い、十七代目・中村勘三郎や六代目・中村歌右衛門らの豪華なゲスト出演で知られ、華やかなレヴュー『春夏秋冬』などの公演で人気を得た。1963年(昭和38年)、「後進に道を開く」として、西山正輝監督の『江戸無情』を最後に映画界から引退した。以後は、東宝歌舞伎など演劇を中心に活躍したが、テレビドラマにも多く出演。1964年(昭和39年)には大河ドラマ『赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演し、長谷川の代表作の一つとなった。1965年(昭和40年)、紫綬褒章を受章。1974年(昭和49年)、宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』初演の演出を担当。大きな話題になるとともに、「ベルばらブーム」を巻き起こすきっかけとなった。1983年(昭和58年)の東宝歌舞伎正月公演『半七捕物帳』が最後の舞台となり、同年秋に糖尿病の悪化で入院。1984年(昭和59年)に繁夫人と死別してからは急速に衰え、4月6日、頭蓋内膿瘍のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年76。没後、国民栄誉賞を受賞した。





天下の二枚目スターとして絶大な人気を誇った長谷川一夫は、東京都台東区の谷中霊園に眠っている。区画には四基の墓が建立されており、長谷川一夫の墓は真ん中にある。正面には、戒名である「照林院澄誉演雅一道大居士」が彫られている。もともと京都の極楽寺より分骨されたものであるため、谷中霊園の墓は比較的小振りになものとなっている。このほかに、墨田区の本法寺にも分骨されている。長谷川の左隣には、息子で俳優の林成年(1931~2008)が埋葬されている。

