2016年 08月 15日
円地文子(1905-1986)
作家
1905年(明治38年)-1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)、国語学者・上田萬年の次女として東京府東京市浅草区向柳原(現在の東京都台東区浅草橋)に生まれる。本名は圓地 富美(えんち ふみ)。幼い頃から祖母の強い影響を受け、歌舞伎や江戸文学に親しんで育った。その一方で、幼少時から非常に体が弱く「病気の問屋」の異名をとった。そのため、日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学するも病気による欠席が多かったことから4年次で中退している。その後、父などから個人教授を受け、戯曲及び古典日本文学に深い関心を持つようになる。1926年(大正15年)、劇作家で演出家の小山内薫に師事し、『ふるさと』で劇作家としての活動を開始。劇作家として成功を収める一方、1930年(昭和5年)には『東京日日新聞』の記者だった円地与志松と結婚。その後、小説家に転身。当初は全く評価されず苦闘の日々を送っていたが、1953年(昭和28年)『ひもじい月日』で第6回女流文学者賞を受賞。1957年(昭和32年)には『女坂』で第10回野間文芸賞を受賞し、1960年代からようやく評価されるようになる。1966年(昭和41年)『なまみこ物語』で第5回女流文学賞を受賞。また、平安朝から近代に亘る日本の古典文学にも造詣が深く、1972年(昭和47年)~1973年(昭和48年)にかけて『円地文子訳源氏物語』全10巻を発表した。1985年(昭和60年) 文化勲章を受章。1986年(昭和61年) 急性心不全のため死去、享年81。
人間を深く見つめ、女性の奥底に潜む執念や業を追及し続けた円地文子の墓所は、東京都台東区の谷中霊園にある。正面は「圓地與四松・圓地文子」となっており、横に没年月日が彫られている。また、父である「上田萬年之墓」、文子の長女素子の婚家「冨家家之墓」の二基が同じ区画にある。