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色川武大(1929-1989)

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色川 武大 (いろかわ たけひろ)


作家
1929年(昭和4年)~1989年(平成元年)


1929年(昭和4年)東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)矢来町生まれ。幼い頃から集団生活を苦手とし、小学生時代は学校をサボって浅草興行街に出入りし、映画・寄席・喜劇などに熱中した。1941年(昭和16年)旧制第三東京市立中学(現在の東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員として工場で働くが、ガリ版同人誌を密かに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。1945年(昭和20年)に終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったために進級も転校もできず、結果的に中学を中退。以後5年ほどかつぎ屋、闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。この頃からギャンブルに没頭し、稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をするという生活を送りながら、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになり、1953年(昭和28年)には桃園書房に入社。アウトローの世界を事実上引退し、『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾や山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原には「人生の師匠」とまで傾倒した。この頃からナルコレプシーの兆候が見られはじめ、山田宅や藤原宅で麻雀が催されると自分の番が来るまでに寝てしまい、その度に起こされていたという。1955年(昭和30年)に桃園書房をクビになり、以降、生活のために「井上志摩夫」名義での娯楽小説を書く。1961年(昭和36年)、父親のことを書き本名で応募した『黒い布』が伊藤整や武田泰淳や三島由紀夫の激賞を受け、第6回中央公論新人賞を受賞。しかし、その後はスランプに陥り、以降しばらく同人誌での活動を行う。1966年(昭和41年)『週刊大衆』に「雀風子」の筆名で『マージャン講座』というコラムを執筆したところ人気を博し、この連載はタイトルを変更しながら2年間続いた。この頃から原因不明の睡眠発作・脱力症状・幻視・幻聴・幻覚に悩まされるようになり、治療費が必要になる場合に備えて、さらに別の名前で執筆することを決めた。1968年(昭和43年)『週刊大衆』に「阿佐田哲也」名義で『天和の職人』を発表。1969年(昭和44年)『週刊大衆』に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、麻雀ブームを巻き起こす。以後、麻雀小説を多数執筆し、その影響で「麻雀専門誌」や「麻雀専門劇画誌」などが生まれ、その多くに執筆をした。麻雀技術書においては、麻雀に戦術があることを書き、五味康祐とともに「単なるギャンブル」とみなされていた麻雀を「知的なゲーム」として見直させた。1970年(昭和45年)からは『週刊ポスト』において作家や芸能人、スポーツ選手などが参加する「麻雀勝抜き戦」の「観戦記」を執筆。自らも選手として参加し、麻雀を通して交友範囲を大きく広げる。また、小島武夫や古川凱章といった若手の麻雀強豪を集めて麻雀エンターテインメントグループ「麻雀新撰組」を結成し、局長に就任。テレビ番組に出演して麻雀を打つなど積極的なメディア展開を図り、「第二次麻雀ブーム」を起こすことに大きく貢献するなど麻雀メディアに大きな影響を及ぼした。1974年(昭和49年)『話の特集』誌に色川武大の名義で「怪しい来客簿」の連載を開始。一方で、前述の精神病が難病のナルコレプシー(眠り病)と判明し、終生悩まされる事になる。1977年(昭和52年)『怪しい来客簿』が本名で刊行され、泉鏡花賞を受賞。1978年(昭和53年)には『離婚』で第79回直木賞を受賞する。以降は、本名と阿佐田哲也名義で執筆を続け、精通している博打、映画、芸能、ジャズや幅広い交友関係などを元にした著書を多数出版し続けた。1989年(平成元年)4月3日、前の月に引越したばかりの岩手県一関市において心筋梗塞で倒れて病院に運ばれる。適切な手当の結果、一命を取りとめたと思われたが、1週間後の10日、入院先の宮城県の病院にて心臓破裂で死去。享年60。


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数々の文学賞を受賞した純文学作家・色川武大。またある時は、「麻雀放浪記」などの娯楽作を生むエンターティメント作家・阿佐田哲也。酒と麻雀をこよなく愛し、昼夜兼行で日々を生きた、まさに無頼派の作家であった。39歳の頃に発症した神経病の一種・ナルコレプシーによる幻視・幻覚・幻聴・脱力の不快さ・過食で苦しみながらも、60年の人生を懸命に駆け抜けた。作家として二面性の顔を使い分けた男の墓所は、東京都台東区の谷中霊園にある。正面には「色川家之墓」と記された墓が建ち、後ろに墓誌が彫られている。戒名「行雲院大徳哲章居士」


by oku-taka | 2016-08-06 21:36 | 文学者 | Comments(0)