人気ブログランキング | 話題のタグを見る

原六朗(1915~2001)

原六朗(1915~2001)_f0368298_16171914.jpg

原 六朗(はら ろくろう)

作詞・作曲家
1915年(大正4年)〜2001年(平成13年)

1915年(大正4年)、東京府東京市日本橋区日本橋馬喰町(現在の東京都中央区)に生まれる。明治大学在学中に服部良一と親交を結び、彼に入門して内弟子をしながら作詞術・作曲術・サックスの手ほどきを受ける。大学中退後、約6年の兵役生活を経て東宝音楽部に籍を置き、ダンスバンドのアルト・サクソフォーン奏者として活動。その後、コロムビア・レコードの専属として、1949年(昭和24年)発表の『僕の東京』(歌唱:藤山一郎)を皮切りに多くの歌手に作品を提供。1952年(昭和27年)には美空ひばりが歌った『お祭りマンボ』が大ヒット。以降、作詞家としても活動した。また、江利チエミ主演の映画「サザエさん」シリーズなど、主に娯楽映画を中心に作・編曲を担当したほか、音楽評論家としても活動した。1959年(昭和34年)、設立されて間もない東芝レコードに移籍。モダンな明るい音楽を好み、『レモンティーをもう一杯』(歌唱:朝丘雪路)や『禁じられた恋のボレロ』(歌唱:水原弘)などを作曲。しかし、次第に演歌調の注文が多くなると仕事に嫌気が差し、仮病を使って徐々に一線から退いていった。2001年(平成13年)11月6日、下咽頭癌のため死去。享年86。


原六朗(1915~2001)_f0368298_16171971.jpg

原六朗(1915~2001)_f0368298_16172405.jpg

原六朗(1915~2001)_f0368298_16172399.jpg


戦後の復興期にモダンで洒落た歌謡曲を多く世に送り出した作曲家・原六朗。初代コロムビア・ローズの『プリンセス・ワルツ』や、朝丘雪路の『レモンティーをもう一杯』など、師匠の服部良一に負けず劣らずな美しい旋律の楽曲を手がけるのが実に上手い作曲家であった。特に、二葉あき子が歌った『巴里の夜』は、歌謡曲史上最高の名曲といっても過言ではないと個人的には思う。また、美空ひばりに提供した『お祭りマンボ』が最も有名な作品であるが、同じひばりの歌でも『私のボーイフレンド』や『素適なランデブー』の方が小生の好みである。まさにメロディーメーカーの素質のあった彼であるが、東芝レコードに移籍してからは思うような楽曲を作ることができず、徐々に第一線から退いていったのが残念でならない。原六朗の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。洋型の墓には「原家」とあり、背面に墓誌が刻む。また、平成に植木等の楽曲のプロデューサーを務めた原正志は息子であり、彼も同墓に眠る。

# by oku-taka | 2024-12-03 16:19 | 音楽家 | Comments(0)

保田隆芳(1920~2009)

保田隆芳(1920~2009)_f0368298_20423604.jpg

保田 隆芳(やすだ たかよし)

競馬騎手・調教師
1920年(大正9年)〜2009年(平成21年)

1920年(大正9年)、東京府東京市神田区小川町に生まれる。生家は当時高級果物だったバナナの輸入と卸を行っており、大変裕福だった。幼稚園時分から花月園遊園地でロバに跨ることを楽しみとしていた。小学4年生のとき、中学受験の準備のため軽井沢の別荘にこもることになった兄に同伴し、この滞在中に乗馬を覚える。帰京後、両親の許可を得て下谷区根岸にあった石田乗馬倶楽部に通い始め、日本大学中学校に進学してからは週3日ほどの頻度で通うようになった。騎手への憧れを募らせた保田は、2年生になると父親を説得し、乗馬倶楽部の主・石田馬心の紹介で、東京競馬倶楽部(目黒競馬場)に所属する尾形景造(尾形藤吉)のもとに入門した。入門後、官営の下総御料牧場へ修行に出され、1年先に働いていた野平好男、後から入ってきた二本柳俊夫、勝又忠らと下積み生活を送った。3歳馬とデビュー前の4歳馬の育成に当たりながら騎乗を覚え、調教師から認められるまでは何年でも居続けなければならないところ、保田は8カ月目の11月に東京に帰され、尾形厩舎での生活を始めた。当時の日本競馬界では騎乗法は各厩舎ごとに異なり、調教の騎乗フォームでどこの厩舎の者かが一目瞭然というほどであった。特に「尾形流」は長鐙のフォームで、後方から追い込む戦法を身上としており、保田もこれを身につけるべく、兄弟子のうち特に伊藤正四郎の技術を真似ようと努めた。1936年(昭和11年)11月21日、東京競馬場の秋季開催で騎手としてデビュー。初戦は17頭立ての15着で、当年は4戦0勝に終わった。1937年(昭和12年)10月に初勝利を飾り、翌月には騎乗馬リプルスで主要競走のひとつであった五歳馬特別(東京)を制している。1938年(昭和13年)からは急速に成績を上向かせ、5月28日には牝馬アステリモアで東京優駿(日本ダービー)に初騎乗して3着。秋には当年より創設されたクラシック競走・阪神優駿牝馬に同馬で臨み、優勝を果たした。18歳8カ月でのクラシック制覇は史上最年少記録として保持されている。1939年(昭和14年)11月、テツモンで当時の最高格競走であった帝室御賞典(後の天皇賞)を制覇し、通算10勝への端緒をひらいた。また、タイレイで中山四歳牝馬特別(後の桜花賞)を制した。1941年(昭和16年)、徴兵されて歩兵第3連隊に入り、北支(中国北部)に派遣された。歩兵隊の蹄鉄工兵を経て機関銃隊に入った保田は、軍務のかたわら隊長の命令で現地の競馬にも参加し、勝利を挙げたという。同じ部隊に所属していた男性が後年執筆したエッセイ「陸軍上等兵 保田隆芳殿」によれば、保田は中隊長の乗馬の調整も担当していた。1945年(昭和20年)8月、終戦に伴い帰国し、日本競馬会が各地に人馬の疎開先として設けた支所のひとつ・盛岡育成場で保護されていた馬たちの調整にあたった。1946年(昭和21年)、競馬の再開が決定すると、それらの馬と共に帰京。騎手として復帰するも、日本では5年以上のブランクもあり、しばらくは芳しい成績が挙がらなかった。1949年(昭和24年)秋、武田文吾の騎手引退に伴い、関西の小川佐助厩舎から菊花賞優勝馬ニューフォードの騎乗を依頼され、同馬と天皇賞(秋)を制した。さらに、1950年(昭和25年)にヤシマドオター、1951年(昭和26年)にはハタカゼと、天皇賞(秋)三連覇を達成。1953年(昭和28年)、ハクリョウで菊花賞を制覇。1954年(昭和29年)には同じくハクリョウで天皇賞(春)を制覇した。1956年(昭和31年)、ハクチカラで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービージョッキーとなる。同馬は1957年(昭和32年)に天皇賞(秋)と有馬記念を制した後、1958年(昭和33年)より長期のアメリカ遠征に入り、保田もこれに同行した。現地のジョッキーライセンスを取得した保田はハクチカラの渡米初戦から騎乗したが、勝利を挙げることはできなかった。5戦を消化したところで尾形から帰国を促され、ハクチカラを残して先に離米。以後ハクチカラはアメリカの騎手を乗せて出走を続け、渡米後11戦目のワシントンバースデイハンデキャップ(レイ・ヨーク騎乗)を制し、日本の競走馬による米重賞初勝利を挙げた。一方、アメリカで先行して差すレースの勝率が高いことを体感した保田は、帰国後「尾形流」のフォームを一変させ、滞在中に習得した鐙を短く詰めるモンキー乗りで騎乗を始め、40歳を前にしての大幅なフォーム改造は感嘆の声とともに迎えられた。従来、日本ではごく一部にモンキー乗り、あるいは「半モンキー」程度のフォームで騎乗する者もあったが、多くの者は長鐙長手綱で、モンキー乗りに対しては「あんな格好で馬が御せるものか、馬が追えるわけがない」という非難の声もあった。ある時には天神乗りの名手として知られたベテラン騎手が酒席で「アメリカのやつらのサルまねをしやがって」などと保田のモンキー乗りに難癖をつけ、それに対し保田は「理に適っているから取り入れただけです。慣れればちゃんと追えます」と応じたところ、そのベテラン騎手が殴り掛かってきて取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。1959年(昭和34年)、自己最高の89勝を挙げて初のリーディングジョッキーのタイトルを獲得。さらに1960年(昭和35年)、1961年(昭和36年)と3年連続でその座に就いた。同年9月17日には通算865勝目を挙げ、蛯名武五郎の記録を抜き通算最多勝利騎手となる。こうしたことから、保田のフォーム改造と活躍は他の騎手にも大いに影響を与え、以後モンキー乗りは日本競馬界でも広く普及し主流の騎乗法となった。また、アメリカで見た騎手の休養のためのジョッキールーム設置を競馬会に進言したことで、中央競馬にも「調整ルーム」が設けられることになったほか、アメリカで使われている馬具や鞭なども日本に紹介した。1963年(昭和38年)6月30日、スズカンゲツで史上初の通算1000勝を達成した。1966年(昭和41年)秋、コレヒデで天皇賞通算10勝を達成。1968年(昭和43年)、マーチスに騎乗して皐月賞に優勝し、史上初の八大競走完全制覇を達成した。この記録は、武豊が2人目の達成者となるまでの30年間、保田のみが持つものであった。1970年(昭和45年)、50歳を目前に控え、年齢による限界を感じて引退を決意。2月22日に最終日を迎えた。最後の競走は重賞の京王杯スプリングハンデキャップで、尾形厩舎のミノルに騎乗。ミノルは必ずしも好調ではなかったにもかかわらず、1番人気に支持された。レースでは後方待機から、最終コーナーで内を衝いて追い込み先頭に立つと、野平祐二が騎乗するメイジアスターの急追をクビ差凌いで優勝。通算1295勝目で引退を飾った。3月1日には東京競馬場で引退式が行われた。引退後は、師の尾形から10馬房を割譲されて厩舎を開業。3月8日には初出走を迎え、同日中に管理馬ケンポウで初勝利を挙げた。譲られた管理馬にはミノルの同期で当時すでにオープン馬だったメジロアサマがおり、5月には同馬が安田記念を制し、調教師として重賞初勝利を果たす。11月には天皇賞(秋)を制して八大競走初勝利も挙げた。メジロアサマは1972年(昭和47年)末に引退し、保田は友人の森末之助を通じて、それまで付き合いがなかった藤正牧場の幼駒を紹介され、森の兄弟子である茂木為二郎から管理を譲られた。トウショウボーイと命名された同馬には後躯の踏ん張りが甘いという欠点があったが、1976年(昭和51年)にデビューすると関東所属馬の筆頭格として台頭し、同年皐月賞と有馬記念を制して年度代表馬に選出されるなど、翌年末の引退までに15戦10勝という成績を残した。その卓越したスピードから「天馬」と称され、同期馬テンポイント、グリーングラスと共に「TTG」と並び称されたライバル関係は後々まで語り継がれるものとなった。トウショウボーイは後に殿堂入りしているが、騎手として後の顕彰馬(ハクチカラ)に乗って八大競走で勝利、かつ調教師として後の顕彰馬を管理したホースマンは保田が初めてとなった。1988年(昭和63年)、田中朋次郎の後を継いで第7代の日本調教師会会長に就任。1994年(平成6年)2月まで務めた。1995年(平成7年)、長年の競馬に対する功績が認められ、調教師としては初の勲等となる勲四等瑞宝章を受章。1997年(平成9年)2月28日、定年により調教師を引退。調教師としての通算成績は3485戦334勝、うち八大競走3勝を含む重賞17勝であった。2004年(平成16年)、日本中央競馬会創立50周年を記念して調教師・騎手顕彰者制度が発足し、保田は野平祐二、福永洋一と共に騎手部門で顕彰され殿堂入りした。2009年(平成21年)7月1日午後9時21分、食道癌のため都内の病院にて死去。享年89。


保田隆芳(1920~2009)_f0368298_20423624.jpg

保田隆芳(1920~2009)_f0368298_20423756.jpg

史上初の八大競走完全制覇を達成し、その圧倒的な強さから」「盾男」の異名をとった保田隆芳。このほか、史上最年少となる18歳8ヶ月でのクラシック制覇達成、天皇賞3連覇達成、史上初の通算1000勝達成など、次々に輝かしい記録を打ち立てた。その一方、アメリカ遠征で身につけた「モンキー乗り」を日本競馬界に定着させたのみならず、「調整ルーム」の設置やアメリカで使われている馬具や鞭などを日本に紹介するなど、日本競馬界に多大な貢献をもたらした。引退後は「天馬」と称されたトウショウボーイを育て、騎手のみならず調教師としても成功をおさめた。まさに、野平祐二と並ぶ日本競馬界が誇る至宝的存在であった保田隆芳の墓は、東京都八王子市の高尾霊園(春泉寺)にある。墓には「保田家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「勲徳院優驀隆盛日芳居士」。

# by oku-taka | 2024-11-24 20:44 | スポーツ | Comments(0)

吉野弘(1926~2014)

吉野弘(1926~2014)_f0368298_22435637.jpg

吉野 弘(よしの ひろし)

詩人
1926年(大正15年)〜2014年(平成26年)

1926年(大正15年)、山形県酒田市に生まれる。1938年(昭和13年)、酒田市琢成第二尋常小学校を総代として卒業し、1942年(昭和17年)12月に山形県酒田市立酒田商業学校を戦時繰り上げ卒業した。1943年(昭和18年)1月、帝国石油に就職。この頃、高村光太郎の「道程」を読んで感銘を受ける。1944年(昭和19年)、徴兵検査に合格するが、入隊5日前に終戦を迎えた。戦後は労働組合運動に専念していたが、1949年(昭和24年)に過労で倒れ、肺結核のため3年間療養した。入院中に詩人の富岡啓二と親しくなり、療養の傍ら詩作を始める。1952年(昭和27年)、詩学社詩誌「詩学」に「爪」「I was born」を投稿し、注目を集める。1953年(昭和28年)、川崎洋と茨木のり子が創刊した詩誌「櫂」に第三号から参加。1957年(昭和32年)、私家版詩集『消息』を刊行して注目をあつめ、1959年(昭和34年)には詩集『幻・方法』を上梓した。1962年(昭和37年)、帝国石油を退職してコピーライターに転職。1972年(昭和47年)、『感傷旅行』で第23回読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞。同年から埼玉県狭山市北入曽に在住し、1977年(昭和52年)には同所を題材とした詩集『北入曽』を発表した。1979年(昭和54年)から西武池袋コミュニティカレッジで詩の公開講座を担当し、7年間にわたり後進の育成に励んだ。1980年(昭和55年)からは文筆を専業とするようになった。1983年(昭和58年)から13年間、狭山市民の文芸雑誌『文芸狭山』(狭山市立中央図書館刊行)の編集委員を務め、自作の詩や随筆を投稿している。1990年(平成2年)、『自然渋滞』で第5回詩歌文学館賞を受賞。1994年(平成6年)、『吉野弘全詩集』を刊行。2007年(平成19年)、静岡県富士市に転居。米寿を目前に控えた2014年(平成26年)1月15日午後9時48分、肺炎のため富士市の自宅で死去。享年87。


吉野弘(1926~2014)_f0368298_22435769.jpg

吉野弘(1926~2014)_f0368298_22440209.jpg

吉野弘(1926~2014)_f0368298_22435942.jpg

戦後を代表する詩人の一人・吉野弘。代表作「祝婚歌」は結婚式のスピーチで度々引用され、また「夕焼け」「Iwas born」は国語の教科書に掲載されるなど、その作品群は多くの人たちに親しまれている。芸能界でもファンは多く、ミュージシャンの浜田省吾は吉野の「雪の日に」にインスパイアされて出来た曲が『悲しみは雪のように』だと語り、脚本家の山田太一も自身が手がけたドラマに度々吉野の詩を取り入れている。ここまで彼の詩が数多の人を惹きつけるのは、さりげない日常の出来事をありのままの思いで、決して飾った言葉ではなくわかりやすい表現で描き、そしてそれが共感を呼ぶからであろう。日常に潜む美しさを詩い続けた吉野弘の墓は、埼玉県狭山市の慈眼寺にある。墓には「吉野家之墓」とあり、側面に墓誌が刻み、左側に「草」とした「人さまざまの 願いを 何度でも 聞き届けて下さる 地蔵の傍に 今年も 種子をこぼそう〉の詩碑が建つ。戒名は「慈風弘照信士」。

# by oku-taka | 2024-11-17 22:45 | 文学者 | Comments(0)

飯干晃一(1924~1996)

飯干晃一(1924~1996)_f0368298_22323390.jpg

飯干 晃一(いいぼし こういち)

作家
1924年(大正13年)〜1996年(平成8年)

1924年(大正13年)、大阪府に生まれる。大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)卒業後、旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)を経て、1950年(昭和25年)に京都大学法学部(現在の京都大学大学院法学研究科・法学部)を卒業。読売新聞社に入社し、社会部記者として組織暴力団追及に健筆を振るった。その後、社会部副編集長となったが、「現場に出られないとつまらん」と1968年(昭和43年)に退職。1970年(昭和45年)、『山口組三代目』を執筆。1972年(昭和47年)、『週刊サンケイ』5月19日号から『広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い』と題するノンフィクションの連載をスタート。この連載は、戦後の広島県で発生した「広島抗争」に当事者として関わった美能幸三が網走刑務所で服役中に執筆した原稿用紙700枚に及ぶ手記をベースとし、これに飯干が当時の状況を書き加えた内容となっており、やくざと関わりの深い政治家、芸能人、プロ野球選手等の人名、団体・地名も全て実名で掲載され、手記と解説が一対になって広島抗争が事件や行事ごとに時系列に沿って進行する。それまでになかった切り口で広島ヤクザ抗争の内部を克明に描いたことから圧倒的な人気となり、印刷所ではゲラの奪い合いになったというほど反響を得た。翌年には『仁義なき戦い』として東映から映画化されて大ヒットとなり、シリーズ化することになる。これを受け、飯干も『日本の首領』、『会津の小鉄』『暴行』など、緻密な取材に裏づけされたエンターテイメント作品を多く発表していく。1992年(平成4年)春、娘でタレントの景子が統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)の行事に参加するようになり、同年夏には失踪する。9月25日、「今、ニューヨークに着いたところです」とのファックスが、行方を捜していた晃一のもとへ届いた。10月1日、晃一は記者会見を開き、娘を取り戻すと宣言するとともに「あの集団は許せない。景子が戻ってきても戦いは続ける」と述べた。10月4日、景子は急遽帰国。脱会に向けての晃一の説得が始まり、元信者も交えて2週間の話し合いを行った末、景子は脱会を決意。11月5日発売の『週刊文春』11月12日号に告白手記を寄稿し、脱会した旨を明かした。1993年(平成5年)には『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』を発表した。1996年(平成8年)3月2日午前0時46分、急性心筋梗塞のため東京都港区の東京船員保険病院で死去。享年71。


飯干晃一(1924~1996)_f0368298_22352787.jpg

飯干晃一(1924~1996)_f0368298_22323523.jpg

暴力団の実情を描いた作品で知られる飯干晃一。新聞記者として自ら取材していた実績を活かし、裏社会で暗躍するヤクザたちの現実を世に知らしめた。そのうちの一つである『仁義なき戦い』が映画化されるやいなや大ヒットとなり、その後シリーズ化されたことで東映の実録路線を切り開く契機となった。一方、晩年は娘を統一教会から奪回するべく果敢に闘い、あらゆる手段を駆使して徹底抗戦する姿が話題をさらった。娘を脱会に導いた安堵感からなのか、そのときの苦労が祟ったのか、3年半後に心筋梗塞で世を去った飯干晃一の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「飯干家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。

# by oku-taka | 2024-11-17 22:36 | 文学者 | Comments(0)

田部井淳子(1939~2016)

田部井淳子(1939~2016)_f0368298_22003434.jpg

田部井 淳子(たべい じゅんこ)

登山家
1939年(昭和14年)〜2016年(平成28年)

1939年(昭和14年)、福島県田村郡三春町に生まれる。三春小学校4年生のときに那須の茶臼岳に登ったことが(一説には福島・安達太良山とも)登山家への意識の芽生えになったと言われている。 その後、福島県立田村高等学校を経て、1962年(昭和37年)に昭和女子大学英米文学科を卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。以後数年間、谷川岳や穂高岳でのクライミングに熱中した。1965年(昭和40年)12月、佐宗ルミエと共に女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功。1969年(昭和44年)、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立。初の遠征先にネパールのアンナプルナIII峰(7555m)を選び、翌年、南壁に新ルートを開拓して登頂に成功した。1971年(昭和46年)、エベレストへの登頂に向け、外務省を通じてネパール政府に申請。また、スポンサー集めに奔走したが、女性だけの登山ということだけで賛同してもらえず、理解や協力を得ることに苦労した。1975年(昭和50年)、エベレスト日本女子登山隊副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)に登頂。女性 15人、シェルパ 6人からなるチームを率い、5月4日には雪崩に巻き込まれたが死傷者は出ず、その 12日後に田部井とシェルパのアン・ツェリンが頂上を極めた。この功績から、ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞を受賞した。その後も、1980年(昭和55年)にタンザニアのキリマンジャロ山(5895m)、1987年(昭和62年)にアルゼンチンのアコンカグア山(6959m)、1988年(昭和63年)にアラスカのマッキンレー山(今日のデナリ。6190m)、1989年(平成元年)にロシアのエリブルース山(5642m)、1991年(平成3年)に南極大陸のビンソン山(4892m)、そして 1992年(平成4年)6月28日にはオセアニアの最高峰であるニューギニア島のジャヤ山(4884m)の登頂に成功し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となった。同年、2度目の文部省スポーツ功労賞を受賞。さらに世界各国の最高峰制覇を目指し、およそ 70ヵ国の最高峰登頂に成功している。1995年(平成7年)、内閣総理大臣賞を受賞。1999年(平成11年)、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、日本女性としては初のスノー・レオパードの称号を得た。一方、環境保護運動にも取り組み、九州大学大学院で登山者が山に残すごみの影響を研究し、2000年(平成12年)に修士課程を修了。また、山岳環境保護団体「HAT-J(ハット・ジェー)」の代表を務めた。2002年(平成14年)、国連が定めた「国際山岳年」で、日本委員会の委員長を務めた。2007年(平成19年)夏、早期の乳癌が発覚し、乳房温存手術を受ける。2009年(平成21年)、NHK放送文化賞を受賞。2012年(平成24年)、がん性腹膜炎を発症。余命3カ月を宣告されたが、抗がん剤治療を行った結果、寛解となった。しかし、2014年(平成26年)に転移性脳腫瘍を発症。以降は治療を続けながら国内外の山に登り続けた。2015年(平成27年)には生前葬を開催し、これまで支えてくれた130人を招いた。その後、脳腫瘍はガンマナイフによる治療で消えたものの、腹膜癌を発症。その後、残された時間を日常生活に充てるべく、抗がん剤治療を断念。2016年(平成28年)7月27日、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加したが、7合目で断念したため登頂には至らなかった。これが生涯最後の登山となった。同年10月には緩和ケア施設に入所し、10月20日午前10時、腹膜癌のため埼玉県内の病院で死去。享年77。


田部井淳子(1939~2016)_f0368298_20142322.jpg

田部井淳子(1939~2016)_f0368298_20142287.jpg

女性として世界で初めてエベレストに登頂、そして七大陸最高峰への登頂も成功した田部井淳子。「男は仕事、女は家事」という認識がまだ強い時代に女性だけの海外遠征の登山隊を編成し、世間からの偏見に真正面から向き合った。しかし、それ以上に山を愛する思いは強く、病との二人三脚の生活を強いられた晩年でも、点滴の合間に副作用で痺れる足で登山に挑み、またあるときは肺に溜まった水を抜いて富士山の七合目まで登るなど、常人では考えられない底力を発揮し続けた。山を愛し、山に挑み続けた田部井淳子の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には、山の絵とともに「田部井」と刻まれ、右横に墓誌が建つ。

# by oku-taka | 2024-11-17 22:02 | スポーツ | Comments(0)