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吉原幸子(1932~2002)

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吉原 幸子(よしはら さちこ)

詩人
1932年(昭和7年)〜2002年(平成14年)

1932年(昭和7年)、東京府東京市四谷区に生まれる。兄姉の影響で幼い頃から萩原朔太郎や北原白秋の詩に親しむ。東京都立第十高等女学校(現在の東京都立豊島高等学校)時代には演劇・映画に熱中したが、国語教師で後に詩人となる那珂太郎の奨めで、校内文芸誌『果樹園』に詩作「考へ方」「星」ほか3篇を発表した。一浪の後、1952年(昭和27年)に東京大学文科二類(現在の東京大学文科三類)へ入学。在学中は演劇研究会に在籍し、ジャン=ポール・サルトルやベルトルト・ブレヒトなどの現代劇に出演。1956年(昭和31年)、東京大学文学部仏文科を卒業し、初期の劇団四季に入団。江間幸子(えま さちこ)の芸名で第6回公演のアヌイ作『愛の條件 オルフェとユリディス』にて主役を務めるも、同年秋に退団。1958年(昭和33年)12月、黒澤明の助監督であった松江陽一と結婚。1961年(昭和36年)3月には長男を出産するが、1962年(昭和37年)2月に離婚。同年、那珂太郎を通じて草野心平を紹介され、歴程同人となる。1964年(昭和39年)5月、第一詩集『幼年連祷』を歴程社から350部を自費出版。これが思潮社社主の目にとまり、第二詩集『夏の墓』を思潮社から出版した。同年、吉行理恵、工藤直子、新藤凉子、山本道子、村松英子、山口洋子、渋沢道子ら同世代の女性詩人と8人でぐるーぷ・ゔぇが(VEGA)を起ち上げ、詩誌『ゔぇが』を刊行。1965年(昭和40年)、『幼年連祷』で第4回室生犀星詩人賞を受賞。1974年(昭和49年)、『オンディーヌ』『昼顔』で第4回高見順賞を受賞。この頃より、諏訪優、白石かずこ、吉増剛造らと共に、詩の朗読とジャズのセッション、舞踊家・山田奈々子との公演など、詩と他分野のコラボレーションを手がけるようになる。1978年(昭和53年)、アイオワ大学に招かれて渡米。4か月滞在する。1983年(昭和58年)7月、新川和江と共に季刊詩誌『現代詩ラ・メール』を創刊。通巻40号を以て終刊するまで、広く女性詩人や表現者の活動を支援した。輩出したラ・メール新人賞の受賞者には鈴木ユリイカ、小池昌代、岬多可子、高塚かず子、宮尾節子らがいる。しかし、1990年(平成2年)頃から手の震えなど身体の変調を来し、1994年(平成6年)にパーキンソン症候群と診断される。1995年(平成7年)、新川和江によってまとめられた最後の詩集『発光』を出版。同年、第3回萩原朔太郎賞を受賞。2001年(平成13年)、自宅で転倒し、大腿骨頸部を骨折して入院。同年11月末には半蔵門病院に転院。何度かの危篤状態をもちなおしていたが、2002年(平成14年)11月28日午後、肺炎のため死去。享年70。


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透明感ある言葉ながら、鋭い表現で愛・裏切り・孤独をテーマとした詩を創り続けた吉原幸子。その詩に魅せられた人は今なお多くいるそうで、作詞家の松本隆もその一人だという。詩人としての活動はもちろんだが、その一方では女性詩人を支援する活動にも力を注ぎ、新宿の自宅を女性詩人のために「ラ・メール水族館」として開放し、詩の世界における女性の活躍の充実を図った。晩年はパーキンソン病との闘いを強いられ、自由な活動ができなかったことは、おそらく本人が一番悔しがっていたことであろう。吉原幸子の墓は、東京都杉並区の龍泉寺にある。アパレルメーカー「三陽商会」の創業者である次兄の墓域に建てられた洋型の墓には、生前最後の詩集『発光』の中にある「散歩」の最終節「歩き疲れて うとうと眠れば 波の鐘がかすかに鳴って 二十四時間 の次は すぐ永遠だが 吉原幸子」の自筆が、背面には墓誌が刻む。戒名は「文藻院詠道幸雅大姉」。

# by oku-taka | 2025-11-09 19:31 | 文学者 | Comments(0)

安藤昇(1926~2015)

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安藤 昇(あんどう のぼる)

ヤクザ・映画俳優
1926年(大正15年)〜2015年(平成27年)

1926年(大正15年)、東京府豊多摩郡淀橋町(現在の東京都新宿区)に生まれる。横浜市平安尋常小学校では6年間級長を務めたが、1938年(昭和13年)頃から学校をサボり、新宿のミルクホールでたむろするようになる。1939年(昭和14年)、神奈川県立旧制川崎中学校(現在の神奈川県立川崎高校)に入学。1940年(昭和15年)、横浜ゴムに勤務していた父が満州国の奉天支社に異動。母親も奉天に移り、昇は祖母とともに日本に残った。同年、先輩の相田とともに自宅の剣道具を古道具屋に売った。その後、相田は単独で学校の剣道具を盗み、古道具屋に売った。相田は警察に逮捕されると、「安藤昇が主犯だ」と主張したことから、昇は淀橋警察署に連行されて取調べを受けた。それから60数日間、相田と共謀して剣道具を盗んだことを否認し続けたため、九段の少年審判所に送られ、その後、調布の感化院「六踏園」に入れられた。入園から1ヵ月後、相田の証言で嫌疑が晴れて六踏園を出たが、以降は他校の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになった。この頃、帝京商業学校(現在の帝京大学高校)の加納貢と知り合い、さらに立教大学の学生・杉本法介と知り合った。この杉本の紹介で、新宿不良グループの首領で慶應義塾大学の学生だった館崎直也の弟分となる。しかし、1941年(昭和16年)2月に両親の元へ移り、同年4月には奉天第一中学校に転入した。同年11月、奉天の料理店で奉天商業高校の教師と喧嘩になり、暴行を加えたことで、奉天第一中学校を退学。昇は日本に帰り、鍋屋横丁の叔父の家に預けられた。1942年(昭和17年)4月、京王商業学校(現在の専修大学附属高校)に転入したが、同年7月には退学となる。その後、旧制智山中学校に転入。その3ヶ月後、旧制智山中学校の同級生が、東洋商業学校(現在の東洋高校)の不良たちに因縁をつけられたため、昇が間に入って話をつけた。さらにその1ヵ月後、旧制智山中学校の柔道部主将・戸山剛史や副将たちに、東洋商業学校の一件が知られて、柔道部部員たちにリンチを受けた。リンチを受けた1週間後、昇は不良仲間2人を連れて戸山の住むアパートを襲い、戸山ら柔道部部員を恐喝して、現金5円や剣道具、柔道着などを奪った。昇たちは、剣道具、柔道着などを古道具屋に売って、150円を得た。しかし、同年の暮れに柔道部部員が警察に訴え、昇たちは淀橋警察署に逮捕される。1943年(昭和18年)、練馬警察署に移送された後、九段の少年審判所に送られ、そこから多摩少年院に護送された。その4ヵ月後、海軍予科練習生になる決心をして願書を提出。合格したことから恩赦で少年院を退院し、同年12月8日に第21期海軍乙種飛行予科練習生として、三重海軍航空隊第83分隊6班に入隊した。1945年(昭和20年)6月、109部隊特攻「伏龍」に志願。横須賀市久里浜に配属され、命の危険も伴う苛酷な訓練を受けるも、同年8月15日の終戦で除隊となり、両親の疎開先である神奈川県藤沢市に移った。同年10月、疎開先を出て上京。同年12月、戦前からの仲間だった野田克己と再会。その後、加納、法政大学の学生・黒木健児、西条剛史、庄司茂とも再会。愚連隊「下北沢グループ」を形成し、下北沢の喫茶店「パール」を根城にして、新宿・渋谷・銀座に進出し始めた。当初は新宿で勢力拡大を試みたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区だったことから渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば”子どもの町”であったためか、1950年代半ばまで警察が飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、戦勝国民と称して都心の主要駅前を占拠し、闇市を取り仕切っていた在日朝鮮人と対立した。1946年(昭和21年)1月、昇と野田は銀座で愚連隊・銀座白虎隊の2人と喧嘩になる。このとき、昇は銀座白虎隊の1人が持っていたドスを奪い取った。同年3月、下北沢の屋台で、黒木と野田が、三田組の組員2人ともめ、同月に下北沢駅前で下北沢グループが三田組組員と喧嘩になり、加納、野田、黒木らが叩きのめした。その後、喫茶店「パール」で再び黒木・野田と三田組組員が喧嘩になり、黒木が三田組組員を倒した。それを知った三田剛造の舎弟・沢野哲也は、配下の三田組組員とともに東北沢で黒木と野田を襲い、野田が沢野に日本刀で背中を切られて重傷を負った。その日のうちに、昇たちは三田組に殴り込みをかけたが、三田や沢野は既に自首していた。その後、昇は銀座白虎隊の1人から奪ったドスから足がつき、世田谷警察署に逮捕。銃砲刀剣等不法所持で書類送検された。同年4月、法政大学予科に入学。同年、渋谷で地回りのヤクザ3人と喧嘩していた外食券食堂の闇切符売り・須崎清を西条とともに助け、須崎はその場で昇の舎弟となる。さらに、須崎の口利きで外食券売りの元締めたちの用心棒となる。1947年(昭和22年)、花田瑛一、石井福造、島田宏が下北沢グループに参加。同年、ハワイの日系2世の下士官と知り合い、駐留軍の物資を闇で売りさばくようになる。しかし、1948年(昭和23年)に下士官や須崎が物価統制令違反でCID(特別犯罪捜査部)に逮捕され、下士官は軍事裁判で本国送還となった。同年秋、兄弟分・高橋輝男の紹介で、銀座に洋品店「ハリウッド」を開店。その一方、裏では再び駐留軍の物資を闇で売りさばいていた。1949年(昭和24年)春、銀座みゆき通りの交差点付近で、在日外国人のヤクザ・蔡に言いがかりをつけられる。喧嘩に発展する様相となったが「待ってくれ!上着を脱ぐから」と言うので律儀に従ったところ、上着に隠していた短刀(長匕首)で切り付けられる。傷は左頬のもみあげから唇までの約15センチで、手術では1時間半かけて30針が縫われた。その後、高橋は蔡の兄から和解を頼まれ、1ヵ月半後に喫茶店で高橋から昇に蔡との和解話を持ちかけた。しかし、昇は和解を断り、高橋が蔡を喫茶店近くまで連れて来ていたので、昇の舎弟たちが蔡を捕まえて刺殺した。同年、法政大学を中退。1950年(昭和25年)秋、渋谷区宇田川町にバー「アトム」を開店。同年、石井の紹介で、花形敬が下北沢グループに加入する。1952年(昭和27年)、志賀日出也が下北沢グループに加入。この頃の昇は、渋谷区宇田川町に「東京宣伝社」の看板を掲げ、舎弟たちにパチンコの景品買いやサンドウィッチマン、靴磨きなどを取り仕切らせていた。同年7月、東京都渋谷区宇田川町に「株式会社東興業(通称:安藤組)」を設立。登記上の業種は、不動産売買と興行だったが、裏では水商売の用心棒なども行っていた。専務には志賀日出也、営業部長には花田瑛一、参謀に島田宏が就いた。設立当時、幹部が13人、それぞれの幹部に属する準幹部が26人、直属配下が70人、下北沢グループの流れをくむ組員が200人いた。組員には安藤組のバッジを配布し、安藤組のバッジのデザインは、黒地にアルファベット「A」の文字を金色で浮き立たせたもので、幹部はそれを三重、準幹部は二重、他は一重の丸で囲んで区別した。幹部と準幹部はグレーのベネシャンのスーツに黒色のネクタイを制服とし、刺青や指詰めを禁止にした。組員が使用する拳銃は、米軍用コルト45口径に統一。上級者には絶対服従を徹底した。同年、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から落合一家・高橋岩太郎を紹介される。昇は高橋岩太郎から博打のテラの取り方などを学んだ。1953年(昭和28年)、東興業の事務所を渋谷区上通り4丁目のビル3階に移す。また、賭博を開帳し始め、毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。1955年(昭和30年)、渋谷区宇田川町に「純情」なるキャバレーがオープン。しかし、安藤組に挨拶がなかったことから、花田や大塚ら50人が「純情」に赴いて営業妨害を行うと、店内から用心棒の力道山が出てきた。報告を受けた昇は力道山襲撃を計画。安藤組組員が力道山の自宅近くに待機していたが、力道山は帰宅しなかった。その後、元横綱でプロレスラーの東富士が仲介に入り、安藤組と力道山は和解した。1956年(昭和31年)、東京の赤坂に赤坂支店を開設。支店長には、東興業専務・志賀日出也を据えた。1957年(昭和32年)、武田組組員と安藤組組員が揉め、翌日午前6時ごろ、昇は2丁の拳銃を所持し、志賀とともに、武田組・武田一郎組長の親分で関東尾津組・尾津喜之助の自宅に赴いた。昇は武田組との抗争の件で、直接尾津のもとに掛け合いに来たことを告げ、尾津は昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は昇の行動に立腹し、翌日に尾津宅を訪れ、尾津に昇の行動を謝罪。高橋岩太郎は、尾津に安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案し、尾津はその提案に賛成したことから、その後に安藤組と武田組は池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津の兄弟分・関口愛治を見届人として、手打ちを行った。1958年(昭和33年)6月、三栄物産代表取締役の元山富雄から、実業家・横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負う。昇は元山とともに銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れて横井と交渉。しかし、横井は「その件なら話はついているはずですが」と支払いを拒否し、さらに「日本の法律ってやつは借りた方に便利にできてるんだ。なんなら君たちにも金を借りて返さない方法を教えてやろうか」とうそぶく。元山と安藤は一旦会社を後にするが、話し合いの席上における横井の態度に昇は激怒し、組員に横井襲撃を命じる。同日午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘が東洋郵船本社の社長室に押し入り、横井をFN ブローニングM1910で1発銃撃。弾は横井の右腕から左肺と肝臓右を貫通して右わき腹に達し、意識不明の重体に陥ったが、かろうじて一命は取り留めた。千葉は逃走し、警視庁は横井に対する恐喝容疑で昇を全国指名手配した。6月16日の夕方には花形にも逮捕状が出され、神宮外苑で逮捕された。7月15日に、昇と島田宏が神奈川県葉山町の別荘で、7月22日に千葉と志賀が山梨県内でそれぞれ逮捕された。7月23日、小笠原郁夫が自首。また、北海道旭川市内で花田も逮捕された。右翼の佐郷屋留雄は横井英樹を説得し、「減刑嘆願書」を取り付け、12月25日、東京地裁にて昇は懲役8年、志賀は懲役7年、千葉は懲役6年、島田は懲役2年、花形は懲役1年6か月、花田は懲役1年6か月、小笠原は懲役1年の実刑判決を受けた。安藤は中野分類刑務所(後に前橋刑務所に移された)に、志賀と島田は胸部疾患のため八王子医療刑務所に、花形は宇都宮刑務所に、花田は網走刑務所に収監された。1964年(昭和39年)9月15日、昇は6年2か月の服役を経て、仮釈放で前橋刑務所を出所。同年11月6日、西原健吾の舎弟・小池が渋谷区宇田川町のバーで、錦政会(後の稲川会)会員と喧嘩になり、11月7日午後5時50分にレストラン外苑で、西原健吾と矢島武信が錦政会側と話し合いを持ったが、2人は錦政会会員に襲われた。西原健吾は3発の銃弾を受けて死亡し、矢島武信は日本刀で頭を切りつけられて重傷を負った。この一件をきっかけに、昇は12年の歴史を持つ安藤組の解散を決意。12月9日に千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行った。これは暴力団の自主解散第1号となった。1965年(昭和40年)、手記『激動』を出版。これを松竹が映画化するに至り、映画プロデューサーから映画化を申し入れられた。しかし、安藤昇役の俳優が見つからなかったことから、昇自身に『血と掟』での安藤役を依頼した。この依頼を了解し、同年8月に湯浅浪男監督の映画『血と掟』が公開された。その後、短身だがその端整な顔立ちと有名な元暴力団組長という類を見ない経歴と作品のヒットを受け、松竹がさらなる映画出演を持ちかけ、契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結んだ。さらに、『新宿無情』で歌手としてもデビュー。同曲はテレビやラジオで放送禁止になるも、年内に20万枚を超えるヒットとなった。映画俳優として、松竹の子会社として設立されたCAGに所属するかたちで11本の映画に出演。しかし、1967年(昭和42年)に東映へ移籍。本来なら五社協定違反となる移籍だったが、映画界の慣習を認識していない昇は、松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった。1967年(昭和42年)には、鶴田浩二、高倉健に伍して東映で主演作が5本組まれたが、彼らに次ぐ東映の大看板には至らなかった。1969年(昭和44年)からは日活で「やくざ非情史シリーズ」に主演した。1970年(昭和45年)、親友で互いに義兄弟と認め合っていた五社英雄監督のテレビ時代劇『新・三匹の侍』に主演。1976年(昭和51年)、唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。しかし、昇によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた。1977年(昭和52年)、自宅を増改築した際に出た新建材を庭で燃やしていたとき、急に風向きが変わり、毒ガスに近い煙を浴びて目と喉を痛めた経験から、元通産省技官の協力も得て、携帯用防災マスク「ガスボーマスク」の特許を取って製品化。後に消防署の立会いで実証試験を行い、ファンクラブの女学生に防災マスクを付けて5分間煙の中に入ってもらった結果は大成功であり、売値が980円と手ごろな値段もあってデパートや学校関係から大量に注文が来た。これを受け、全世界へと大々的に販売するために製造販売部隊を法人化し、その法人業務のすべてをビジネスパートナーに任せたが、パートナーが会社の金を4千万円も使い込み、会社は倒産となった。1979年(昭和54年)、東映映画『総長の首』を最後に俳優を休業。以降はごく希にVシネマへ客演するにとどまったが、出演数の激減理由には、撮影中のカメラリハーサルにおける拳銃を撃つシーンで、「バン!バン!」と銃を撃つ声を自ら出さなければならなかったところ、それを偶然知人に見られてしまい、そのときの恥ずかしい思いがきっかけと言われている。以後はVシネマのプロデュースおよび文筆活動に勤しんだ。また、開運研究「九門社」を主宰し、家相・気学鑑定を行っていた。2015年(平成27年)12月16日午後6時57分、肺炎のため都内の病院で死去。享年89。


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ヤクザの組長から映画俳優という異色の経歴を持つ安藤昇。大学出身者が多く在籍し、刺青や指詰めを禁止とした斬新なインテリ暴力団「安藤組」を組織し、1000人以上の構成員を率いて渋谷を中心に暴れ回った。映画俳優としても、俗に言う特別出演や脇役ではなく、鶴田浩二や高倉健と並ぶ任侠映画のスターとして看板を張った。素人故に歌も演技も決して上手いとは言えなかったが、それにも増して本職にしか出せないリアルさと圧倒的な存在感が強烈な個性として輝きを放った。後年、バラエティー番組で神田うのから「初めてパンチパーマをしたヤクザは誰か」というインタビューを受けるなどしたが、芸能活動の第一線からは退き、専ら文筆活動に勤しんだ安藤昇。評論家・大宅壮一が「男の顔は履歴書」と評した男の中の男の墓は、東京都杉並区の永福寺にある。墓には「安藤家之墓」とあり、両側面に墓誌が刻む。戒名は「常然院義鑑道昇居士」。

# by oku-taka | 2025-11-02 22:20 | 俳優・女優 | Comments(0)

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堀川 とんこう(ほりかわ とんこう)

ドラマプロデューサー
1937年(昭和12年)〜2020年(令和2年)

1937年(昭和12年)、群馬県吾妻郡中之条町に生まれる。本名は、堀川 敦厚(ほりかわ あつたか)。群馬県吾妻郡の中之条町立中之条中学校から群馬県立高崎高等学校に進学。その後、東京大学に入学して文学部英文科へ進む。在学中、小説『砂の投影』で銀杏並木文学賞を受賞。作品は学友会発刊の雑誌『学園』に掲載された。その後も『駒場文学』や『新思潮』などに堀川敦厚の名で小説を発表する一方、ジャーナリストを目指し東大新聞研究所にも通っていた。大学卒業後の1961年(昭和36年)4月にTBSへ入社。当初は報道志望であったが、ドラマ部門に配属され、アシスタントディレクターを皮切りにディレクター・演出家となり、プロデューサーとしても活動。1976年(昭和51年)、脚本家の市川森一とタッグを組み、『グッドバイ・ママ』の演出とプロデューサーを担当。主題歌にジャニス・イアンが歌った『ラヴ・イズ・ブラインド〜恋は盲目〜』を採用し、同曲は日本のオリコン洋楽シングルチャートで8週連続1位を獲得するほどの話題となる。1977年(昭和52年)、山田太一の新聞連載『岸辺のアルバム』のドラマ化にプロデューサーとして参画。主演の田島則子役に岸恵子を予定していたが、これに反対して八千草薫が起用されたり、タイトルバックに多摩川決壊のニュース映像を挿入したり、ジャニス・イアンの『Will You Dance?』をテーマ曲に採用するなどした結果、作品は第15回ギャラクシー賞を受賞。平均視聴率14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で当時としてはヒットと呼べるものではなかったが、それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立する革命的な作品として後に評価が高まり、テレビドラマ史に残る名作となった。その後、編成部を経て、1980年(昭和55年)に演出部へ異動。当時、高視聴率を誇っていたテレビ朝日「土曜ワイド劇場」の真裏に、TBSは「ザ・サスペンス」を制作することになり、そこで堀川は企画・演出・編集まですべてひとりで担う意欲的な作品を作り続けた。特に、妻殺しの新聞記事からヒントを得て、当時「お嫁さんにしたい女優No.1」と言われた竹下景子がソープランド嬢を演じた異色作のモモ子シリーズ(脚本市川森一)は大当たりとなり、15年間にわたって市民社会の欺瞞や偽善を鋭く風刺し、8作が制作された。 また、1作目『十二年間の嘘~乳と蜜の流れる地よ~』で文化庁芸術祭優秀賞、2作目の『聖母モモ子の受難』で芸術選奨新人賞を受賞した。1991年(平成3年)、松本清張の作家活動40周年を記念する競作シリーズが民放4局により企画され、堀川は初映像化となる『西郷札』(脚本金子成人)をプロデュース。同作で文化庁芸術作品賞を受賞した。1993年(平成5年)、清張の芥川賞受賞作『或る「小倉日記伝」』(脚本金子成人)で、日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞。1994年(平成6年)には清張の私小説的な短編から膨大な執筆の原風景に迫る『父系の指』(脚本高木凛)でギャラクシー大賞を受賞した。1996年(平成8年)、離婚した両親と東京で夢を追う3姉妹の家族の再生を描いた3時間ドラマ『東京卒業』(脚本竹山洋)を企画・演出し、第34回ギャラクシー賞優秀賞を受賞。1998年(平成10年)、TBSを定年退職。2001年(平成13年)、吉永小百合主演『千年の恋 ひかる源氏物語』(東映配給)で初めての映画監督に挑戦。興行収入は20億8000万円であったが、堀川の映画監督作品はこの1本にとどまった。2005年(平成17年)、WOWOW戦後60年特別企画で、山田洋次原作・脚本、上川隆也、マコ岩松主演『祖国』の演出を務め、同作は平成17年度文化庁芸術祭テレビ部門(ドラマの部)優秀賞、平成18年日本民間放送連盟賞番組部門テレビドラマ番組優秀賞、第23回ATP賞テレビグランプリ2006グランプリ/ドラマ部門最優秀賞を受賞した。2014年(平成16年)、東日本大震災の被災者や遺族に寄り添い3年後の姿を描いた山田太一ドラマスペシャル・中井貴一主演『時は立ちどまらない』(テレビ朝日)の演出を務め、同作は第51回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、第40回放送文化基金賞テレビドラマ番組最優秀賞(番組部門)、平成26年日本民間放送連盟賞・テレビドラマ番組優秀賞(番組部門)、MIPCOM BUYERS'AWARD for Japanese Dramaグランプリ、東京ドラマアウォード2014作品賞・グランプリ(単発ドラマ部門)、第19回アジア・テレビジョン賞2014最優秀賞 (単発ドラマ・テレビ映画番組部門)、2014年度芸術祭賞大賞(テレビ・ドラマ部門)を受賞した。2016年(平成18年)、前作に続いて山田太一が東日本大震災から5年後の被災者を描いた渡辺謙主演『五年目のひとり』(テレビ朝日)の演出を務め、第71回文化庁芸術祭賞テレビ・ドラマ部門優秀賞、東京ドラマアウォード2017作品賞単発ドラマ部門優秀賞、2017年日本民間放送連盟賞テレビドラマ種目優秀賞を受賞。この作品が遺作となった。2020年(令和2年)3月28日、肺癌のため神奈川県足柄下郡湯河原町の自宅で死去。享年82。


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数多くのテレビドラマを手がけ、「ドラマのTBS」の礎を築いた名プロデューサーの一人、堀川とんこう。『岸辺のアルバム』では、タイトルバックに多摩川決壊のニュース映像を挿入し、視聴者に強烈なインパクトを残した。さらに、ジャニス・イアンの曲を自ら手がけるドラマの主題歌として積極的に採用し、本国以上の大ヒットへと結びつけた。この他にも、「お嫁さんにしたい女優No.1」と言われた竹下景子をソープ嬢に据えた2時間サスペンスを制作するなど、その手腕は大胆で話題を集める才能に秀でていた。「視聴率とは狙うものではなく、結果として付いてくるもの」のスタンスで次々と名作を世に送り出した堀川とんこうの墓は、東京都杉並区の福相寺にある。墓には「堀川家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「叡明院敦厚日啓居士」。

# by oku-taka | 2025-10-26 22:43 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)

武上四郎(1941~2002)

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武上 四郎(たけがみ しろう)

プロ野球選手・監督
1941年(昭和16年)〜2002年(平成14年)

1941年(昭和16年)、宮崎県宮崎市に生まれる。中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年(昭和32年)に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。1961年(昭和36年)、高校を卒業して中央大学に進学。東都大学野球リーグでは3年次の1963年(昭和38年)秋季リーグ、4年次の1964年(昭和39年)秋季リーグと2度の優勝を経験。同年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場した。大学野球では、リーグ通算86試合出場、330打数82安打、打率.248、0本塁打、21打点、ベストナイン3回(三塁手2回、二塁手1回)を記録。1965年(昭和40年)、大学を卒業して河合楽器に入社。1年目の日本産業対抗野球大会では日本楽器に補強され、決勝で日本石油に敗退するが敢闘賞を受賞した。1966年(昭和41年)の第37回都市対抗野球大会には1番打者として出場するなど活躍した。この年の新人選手選択会議(第2回プロ野球ドラフト会議)でサンケイアトムズに8位指名され、1967年(昭和42年)に入団。1年目からレギュラーとして活躍し、4月8日の阪神との開幕戦に7番二塁手で初出場すると、2回表に村山実から右前適時打を放って初打席・初安打・初打点を記録。同24日の巨人戦では、5回表に金田正一から初本塁打となる中越ランニング本塁打を放ち、セ・リーグ初の「プロ初本塁打がランニング本塁打」という記録を打ち立てる。この時の試合は、1回裏3点、2回裏2点と巨人に早くも得点を奪われ、5、6回にも長嶋茂雄の本塁打などで合わせて9点を奪われて諦めムードが漂っていた。5回表に武上のランニング本塁打が出るも焼け石に水で、サンケイは4投手が21安打を浴び、3-14と一方的に大敗。しかし、この日の武上は4打数4安打と猛打賞の活躍で、5月30日の大洋戦と8月9日の大洋戦でも4安打を放ち、セ・リーグ新人最多記録となるシーズン3度の4安打を打つなど活躍した。プロ1年目は107試合に出場して自己最多の6三塁打、打率.299はリーグ6位を記録。俊足の割に盗塁は成功5、失敗11であったが、失策が僅か9個で、土井正三(巨人)らを凌ぐセ・リーグ1位の守備率を残す。また、江夏豊(阪神)を抑えて新人王を獲得した。1968年(昭和43年)には自己最多の136安打とリーグ最多の19犠打を記録し、同年から4年連続でオールスターゲーム出場を果たす。攻守ともに闘志溢れるプレー、アマチュア時代に大舞台慣れしていた度胸で人気を博し、「ケンカ四郎」の異名をとった。死球でも痛さを顔に出さず、長打を放った時は頭から滑り込むなど闘志を前面に出して存在感を示した。打者としてはチャンスに強く、小柄ながら「すりこぎバット(つちのこバット)」と呼ばれるヘッドとグリップが太く重いバットを使用して強撃する打法でパンチ力もあった。この「すりこぎバット」は若松勉が使用したほか、大学の後輩である南海の高畠導宏打撃コーチが譲り受けて藤原満に使わせ、さらに藤原の近畿大学の先輩である阪急の大熊忠義が福本豊に使わせた。若松・藤原・福本の三人がこのバットで好成績を収めたことにより、以後「すりこぎバット」は俊足のリードオフマン型の選手の間で広く使用されるようになった。守備では二遊間や一・二塁間の難ゴロをダイビングキャッチでさばく美技も見せた一方、正面のゴロをしばしばトンネルした。福富邦夫と1・2番コンビを組んで中軸につなぐ役割を期待されたが、1969年(昭和44年)には自己最多の21本塁打を放ち、チームの打線が安定しなかった間は主に中軸を任された。1970年(昭和45年)、別所毅彦監督が解任される際、別所に「兼任監督をしてくれ」と要請されたが、当時29歳の武上はこれを固辞した。同年10月7日、中日戦(中日)で若生和也から初めて満塁本塁打を放つ。同年、岡嶋博治コーチの引率で松岡弘・藤原真・安木祥二・大矢明彦ら4名と共にエンゼルスのアリゾナ教育リーグ(メサ)に参加。1971年(昭和46年)、自己最多の126試合出場で2年ぶりの2桁となる15本塁打をマークし、唯一の2桁となる14盗塁も記録して、打率.272でベストテンに滑り込んだ。1972年(昭和47年)は本塁打が15本から5本と大きく減らすが、8月8日の広島戦(広島市民)で白石静生から初の代打本塁打を記録した。1973年(昭和48年)には故障もあって定位置を中村国昭に譲り、68試合出場と唯一の3桁を切る。本塁打も自己最低の2本に終わるが、1974年(昭和49年)には9月12日の大洋戦(神宮)で山下律夫から満塁本塁打を放つなど復活して13年ぶりのAクラス入りに貢献した。1975年(昭和50年)10月17日の大洋戦(神宮)に永尾泰憲の代打で起用をされたのが最後の出場となり、同年限りで現役を引退。引退後はヤクルトで一軍打撃コーチを務め、1977年(昭和52年)には一軍守備コーチとなり、翌年の球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献した。1979年(昭和54年)に再び一軍打撃コーチを務めた後、1980年(昭和55年)に39歳で監督に就任。待望の「チーム生え抜き監督」が誕生し、NPBのドラフト会議で指名を受けてプロ入りした元選手では初めての監督就任となった。監督としての最初の仕事は、選手の家族の誕生日調べであるなど、細やかな配慮や面倒見の良さもあって選手に慕われ、際どい判定や自軍選手が死球に遭った時は審判員や投手に大きなジェスチャーでつっかかり、選手を引っ張った。1年目の開幕カード・中日戦では、4月5日の1戦目を先発の鈴木康二朗から井原慎一朗につなぐリレーで接戦をモノにすると、翌6日の2戦目では打たれてもいない先発の神部年男を短イニングで降板させて継投する奇抜な采配で派手な監督デビューを飾った。開幕から6試合で5勝1敗と上々の滑り出しを見せ、4月末の時点で単独トップ。5月3日からの広島との首位攻防3連戦に2敗1分で2位に後退するも、直後に連勝して首位に返り咲くなど、リーグ連覇を狙う広島と激しい鍔競り合いを演じたが、同13日からの広島との3連戦は2敗1分に終わり、首位の座から陥落。同28日に梶間健一の完封で広島戦の連敗を7で止めると、翌29日の同カードでは22安打の猛攻で18-2と圧勝して溜飲を下げたが、ここで2.5ゲーム差まで迫ったのが精一杯であった。結局、シーズンを通じて広島に7勝15敗4分と大きく負け越したのが響き、最下位から一気のリーグ優勝はならず。それでも最後まで2位の座を死守し、球団史上5度目のAクラス入りを果たした。1981年(昭和56年)、ヤクルトの初優勝・日本一に貢献したチャーリー・マニエルが3年ぶりに復帰。近鉄移籍後は2年連続でパ・リーグ本塁打王に輝き、チームをリーグ連覇に導いていた「優勝請負人」の古巣復帰は大きな話題となったが、期待された大砲のバットはなかなか火を噴かなかった。マニエルに待望のシーズン1号本塁打が飛び出したのは開幕から15試合目、実に57打席目のことであった。この時点でチームはまだ6勝8敗で4位であったが、翌日から引き分けを挟んで7連敗を喫し、最下位に転落。さらに不動の三番・若松が4月22日の広島戦(神宮)で右肩のじん帯を損傷して戦列を離れると、5月26日の阪神戦(甲子園)ではトップバッターのジョン・スコットが左足関節挫傷で離脱。2人の主力打者を失いながらも5月はなんとか勝ち越し、マニエルが6月3日の大洋戦から5試合連続本塁打を打てば、前年までさしたる実績のなかった青木実が新たなリードオフマンとして躍動するなど、6月も11勝8敗の成績で2位まで浮上した。しかし、前半戦を4位で折り返すと、広島・阪神と激しい争いを繰り広げていた8月初旬に、今度はマニエルが左脇腹を負傷。8月15日の巨人戦では松本匡史が振り逃げで一塁セーフになると、自軍が4番手に送り出した大川章の投球を「今のはボールだ」と審判に抗議。自軍の投球がボールだという前代未聞の抗議をし、結局それが認められて打席に戻された松本は本塁打を打ってしまう。それでも8月18日からの6連勝で2位に返り咲き、一時は貯金を5まで増やしたが、9月に大きく負け越し、最後は勝率5割にも届かずBクラスの4位に終わった。1982年(昭和57年)、前年不振に終わったマニエル、スコットの両外国人を解雇し、俊足・巧打の触れ込みのラリー・ハーローと、ユマキャンプで入団テストを受けたデビッド・デントンを獲得。しかし、4月3日の巨人との開幕戦ではハーローが拙守を連発し、9回には松岡を投入しながらサヨナラ負けを喫す。翌日の2戦目もルーキー宮本賢治の好投むなしく惜敗し、前途多難なスタートとなった。それでも同6日の広島戦で岩下正明の代打サヨナラ満塁本塁打が飛び出すなど持ち直し、同18日には貯金を1とした。しかし同25日から5月4日まで8連敗し、4日後の同8日には最下位に転落。5月に入って2度の5連敗を喫すると、内藤博文二軍監督をヘッドコーチとして一軍に昇格させるなどの打開策を講じたが、上位との差は広がる一方であった。8月下旬から9月にかけてリーグ連覇を狙う巨人に2カード連続で勝ち越すなど意地を見せたが、最後まで最下位脱出はならなかった。1983年(昭和58年)、早実1年夏の準優勝を皮切りに5季連続で甲子園に出場した荒木大輔をドラフト1位で巨人と競合の末に獲得。「甲子園のアイドル」の入団は一大フィーバーを巻き起こした一方で、鈴木と西井らを放出し、ロッテから抑え投手の倉持明、近鉄からは2桁勝利3度の井本隆を獲得するなど出血を惜しまぬ思い切ったトレードを敢行。さらには元打点王のボビー・マルカーノに代打男として鳴らした萩原康弘を加え、投打ともに積極的な補強を施して開幕を迎えた。4月9日の阪神との開幕戦は、先発の尾花が阪神打線を1点に封じる快投を演じ、打っては杉浦享に通算100号となるソロ本塁打、新加入のマルカーノには3ラン本塁打が飛び出して4対1で快勝。直後に神宮で巨人に3連敗を喫すも、そこから2分を挟んで連勝してすかさず勝率を5割に戻したが、その後に再び3連敗を喫して借金生活に終始。それでも8月半ば過ぎまでは3位争いを演じていたが、8月20日からの4連敗で5位まで後退すると、9月は6位がほぼ定位置となる。最後は5位の中日と0.5ゲーム差ながら、2年連続の最下位に終わった。1984年(昭和59年)、球団の抽選で獲得したドラフト1位のルーキー高野光(東海大)がいきなり開幕戦に先発。ルーキーの開幕投手はドラフト制施行後では初とあって、大きな話題を呼んだ。その開幕戦、高野は大洋を相手に4回3失点でマウンドを下りたものの、打線が試合をひっくり返して逆転勝利。翌日も梶間、尾花のリレーでモノにして開幕連勝を飾ったが、神宮に戻って広島に3連敗を喫すと、4月18日の巨人戦からは8連敗で、あっという間に最下位に転落。開幕から絶不調であったこともあり、4月26日の中日戦限りで監督を辞任。後任には中西太一軍ヘッド兼打撃コーチ(監督代行)を経て、土橋正幸一軍投手コーチが就任。在任中は「三原監督と広岡監督をマッチした監督になりたい」と言っていたが、前年に不自然な引退をしていた大杉勝男が自著『サムライたちのプロ野球』で、自身に対する酷薄な仕打ちを書き綴り、「好き嫌いで選手を使っている」と批判するような状況であった。監督辞任後の5月からは単身で渡米し、ヤクルトの駐米スカウト兼任で、サンディエゴ・パドレス客員コーチに就任。言葉も通じず、プレッシャーから血尿や血便が出るほどであったが、8月12日のブレーブス戦では両軍合わせて12人の退場者を出した乱闘に巻き込まれる。武上はスタンドでパドレスの選手がブレーブスファンと揉み合っている所を目撃し、スタンドへ飛び込んでブレーブスファンの一人に挑みかかったが、額にピストルの銃口を押し付けられて降参している。パドレスでも球団史上初のリーグ優勝に貢献し、日本人として初めてワールドシリーズのベンチに入った。帰国後はフジテレビ「プロ野球ニュース」に出演して「ベンチから見た大リーグ」について語り、1985年(昭和60年)からはテレビ朝日『ゴールデンナイター』『パワーアップナイター』等のプロ野球中継の解説者を務めた。さらに、サンケイスポーツの評論家も務め、コラム「考Q筆打」を連載した。1991年(平成3年)、日本ハムファイターズの監督候補に挙がったが、交渉が難航し、就任には至らなかった。評論家時代は毎年のように2月の宮崎キャンプ期間中に「タケさん会」なる食事会が行われ、当時は巨人、ヤクルト、広島などが宮崎でキャンプを張っていたため、各チームの担当記者が現地に集合。その中で武上が懇意にしている記者連中を会費制で集め、宮崎市内で「アラ鍋」を囲むイベントを行っていた。1995年(平成7年)、巨人一軍打撃コーチに就任。バットを振りまくる熱血指導を長嶋茂雄監督に買われ、試合後は室内練習場でのバットスイングを毎晩深夜まで行うなど打線強化に取り組む。帰宅後も試合のビデオを見て分析するなど、ベッドに入るのが朝になるのも珍しくはなかった。また、当時若手であった松井秀喜と大変仲が良く、アメリカ仕込みの打撃理論を語って聞かせた。1996年(平成6年)のシーズン終了後にコーチを辞任し、テレビ東京『TXNスペシャルナイター』等のプロ野球中継と『スポーツTODAY」の解説者、サンケイスポーツの評論家を務めたが、1998年(平成10年)に再び巨人一軍打撃コーチに就任。野手に猛烈にバットを振り込ませる指導法で高橋由伸らを育てあげた一方、同年8月2日の阪神戦で槙原寛己が投じた死球を巡って、阪神の大熊忠義外野守備・走塁コーチと共に退場処分を受けるなど変わらずの熱血っぷりを見せた。しかし、1999年(平成11年)頃から食欲がなくなり、やたら寒気がするなど体に変調が現れ、以前より悪かった腎臓が激務と心労で悪化。透析治療が必要になることも予想されるほどであったが、2000年(平成12年)もコーチを続行。シーズン中は腎臓のほか胃潰瘍や肝臓癌も見つかり、名古屋遠征中に貧血で緊急入院するなど壮絶なものとなり、退院後も毎晩試合後の自宅に主治医が来て点滴治療をしていた。そのため、同年のオフに深刻な体調不良を理由としてコーチを辞任。退任後は、日本テレビ『劇空間プロ野球(後の『THE BASEBALL 2002バトルボールパーク宣言)』の解説者とサンケイスポーツの評論家を務めたが、2002年(平成14年)8月23日午前9時12分、肝不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。享年61。


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小柄ながらも闘志むき出しのプレーをすることから「けんか四郎」の異名をとった武上四郎。プロ初本塁打がランニング本塁打、ドラフト会議で指名を受けてプロ入りした選手で初めての監督就任、客員コーチとして日本人初のワールドシリーズのベンチに入るなど、様々な珍しい記録の持ち主であったが、やはりヤクルトの監督のイメージが一番強い。救援タイプの投手を先発させて数イニングで交代し、温存していた先発タイプの投手がロングリリーフで抑えるという作戦や、開幕投手にルーキーの投手を起用、自軍の投球がボールだという前代未聞の抗議をするなど、奇抜な采配と指揮で大きな印象を残した。しかし、2年連続で最下位となり、それでも退任しないことから「責任をとらない監督」として話題になってしまった。後年は巨人の打撃コーチとして辣腕を振るい、松井秀喜、仁志敏久、高橋由伸といった打撃陣の良き理解者になれたことは本当に良かったと思う。選手として不遇のチームを支え、監督として不甲斐ない成績で株を下げ、そして最後はコーチとして長嶋政権を支える名参謀となった武上四郎の墓は、東京都町田市の東京多摩霊園にある。洋型の墓には「武上家」とあり、カロート部に墓誌、花立の下にバットとボールが刻まれている。戒名は「禅監院天球悟道居士」。

# by oku-taka | 2025-10-20 09:49 | スポーツ | Comments(0)

森村誠一(1933~2023)

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森村 誠一(もりむら せいいち)

作家
1933年(昭和8年)〜2023年(令和5年)

1933年(昭和8年)、埼玉県熊谷市に生まれる。幼い頃から本の虫で、特に雑誌『少年倶楽部』を愛読。自宅には父の蔵書や居候が置いていった本がたくさんあり、夏目漱石から恋愛小説まで手当たり次第に乱読した。12歳のとき、日本で最後の空襲となった熊谷空襲を体験。森村一家は近くの星川まで避難したが、再び郊外の桑畑まで逃げて助かる。夜が明けて星川まで戻ると、遺体が折り重なり川底が見えないほどの光景に衝撃を覚え、この空爆の情景を書かねばならない、記録したいと思い、作家を目指すようになる。また、このときの体験が後の「反戦平和」の原体験となる。旧制中学校を卒業後、埼玉県立熊谷商業高等学校に進学。しかし、数学が苦手だったことから勉強はサボりがちで、学校を長期欠席して町の図書館に通うほど読書に夢中となる。卒業後、伯父の紹介で東京・新橋の自動車部品会社に入社。しかし、自転車にリヤカーをつないで商品を輸送している最中に神田駿河台の坂を登れず困っていたところを明治大学生に助けられたことから、大学生になるのもよいと考えて会社を退社。入試まで3か月しかなかったが、猛勉強の末に青山学院大学文学部英米文学科へ入学。在学中はハイキング部に所属し、山歩きに熱中した。1年留年の後、1958年(昭和33年)に大学を卒業。しかし、卒業時は就職不況時代であったため、希望したマスコミ業界には就職できなかった。英語が得意だったことから、新大阪ホテル(現在のリーガロイヤルホテル)に入社。1年後には系列ホテルだった東京都千代田区の都市センターホテルに転勤する。ここで、新大阪ホテルの重役の姪と知り合い、28歳のときに結婚した。また、ホテルの目の前に文藝春秋の社屋が完成し、梶山季之や阿川弘之、黒岩重吾、笹沢左保ら当時の流行作家がホテルを定宿とするようになる。フロントマンとして度々接していると、そのうち親しくなった梶山が森村に原稿を預け、各社の編集者に渡すよう頼んでくるようになる。森村はその原稿を盗み読みし、続きを自分なりに書いてみると、次第に3本に1本は「俺の方が面白い」と思えて自信を持つようになる。1964年(昭和39年)、妻のコネという庇護から逃れるため、ホテルニューオータニに自力で飛び込んで転職。しかし、ホテルでの仕事は相変わらず「自分の個性を徹底的に消す」職場環境であり、「鉄筋の畜舎」と感じていた。そんな中、出版社に勤める友人の紹介で、総務関係の雑誌にサラリーマン生活に関するエッセイなどを書き始める。このエッセイが好評となり、1965年(昭和40年)に母親の名前からとった雪代敬太郎というペンネームで『サラリーマン悪徳セミナー』を出版して作家デビューする。その後、副業を咎める上司の言葉をきっかけに、1967年(昭和42年)にビジネススクールの講師に転職。その傍らで執筆を続けたが、あちこちの出版社に原稿を持ち込むも突き返されてしまい、唯一認めてくれた青樹社からビジネス書や小説『大都会』を出版するが売れなかった。1969年(昭和44年)、青樹社の編集長から「ミステリーを書いてみたら?」と言われ、ホテルを舞台にした本格ミステリー『高層の死角』を執筆。同作で第15回江戸川乱歩賞を受賞する。翌年には『新幹線殺人事件』が60万部のヒットとなり、推理作家としての道が開ける。1973年(昭和48年)、原子力開発をめぐる政官財癒着を描いた『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞を受賞。その後、角川書店の編集局長だった角川春樹が森村の自宅を訪れ、小説誌『野性時代』の創刊に合わせて連載を依頼。このとき、角川は「作家の証明書になるような作品を書いてくれませんか」と切り出した。森村は「証明」という言葉が重くのしかかって締め切りまでに書けず、自信を失っていたところ、20代の頃に山歩きの途上で群馬県の霧積温泉に立ち寄り、そこで食べた弁当の包み紙に印刷された西條八十の詩『ぼくの帽子』の一節である「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね…」を思い出す。これに着想を得て『人間の証明』を書き上げ、1975年(昭和50年)に『野性時代』で連載された。当初、読者の反応は低調だったが、角川が映画化を発表してから加速度的に人気が上昇。映画公開に合わせ、文庫フェアと原作者が全国を回るサイン会も行われ、映画のキャンペーンと会場がバッティングすると、森村が映画館で挨拶をするなどの"角川商法"が功を奏し、書籍は文庫本と合わせて800万部に迫る空前のベストセラーとなった。以後、『人間の証明』で登場した「棟居弘一良」を推理小説のシリーズキャラクターとした「棟居刑事シリーズ」を発表した。1977年(昭和52年)、『人間の証明』に続き、角川の依頼により映画化を前提として『野性の証明』を執筆。また、高額所得者作家部門で1位に輝き、年収は6億円に達した。1981年(昭和56年)、日本共産党の機関紙「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)に小説『死の器』を連載。その中で、第二次世界大戦中の「日本の人体実験」(主に関東軍防疫給水部本部、通称731部隊によるもの)を取り上げた際、731部隊について情報提供をしたいという読者からの申し出があった。森村は元隊員からの一本の電話を糸口として、その人脈をたどって取材することで未公表の情報が多く得られると予想し、『人間の証明』の出版で得た収入から費用を捻出し、「赤旗」の記者である下里正樹と共同で取材を始めた。資料が集まるにつれ、『死の器』で当初予定していたストーリー内で取り上げ切れない範囲のものが増えたため、別途ノンフィクションを構成することとし、同年に「赤旗」の日刊紙版に『悪魔の飽食』として連載を開始した。11月には光文社から刊行されると、深夜テレビ番組『トゥナイト』や『11PM』で紹介され、当初は若者を中心に、後に広い層に読まれ、国際的にも反響を呼んだ。また、森村自身が旧日本軍第731部隊の実情を明らかにしたものであると主張したことでも話題を呼び、以降731部隊に関する賛否さまざまな視点からの著作が発表される事となる。1982年(昭和57年)7月には、続編の『続・悪魔の飽食』を刊行。同書では、ある人物Aから提供された写真を731部隊の蛮行の証拠として新発見と収録したが、その一部に1912年(明治45年)出版の「明治四十三四年南満州『ペスト』流行誌」の記録写真など、731部隊に関係しない写真が含まれており、郷土史研究をする東京の会社員が古本屋で同じ写真が掲載された写真帖に偶然遭遇したことで発覚した。これを日本経済新聞が9月15日付で報じ、同日午前に森村はNHKニュースの取材に答えて誤りを認めた。この時点で『続・悪魔の飽食』は前作と合わせてベストセラーになっていたことから、日本経済新聞に続いてサンケイと読売新聞も誤用問題を取り上げ、森村の責任を追及した。森村が誤りを認めた後、光文社がおわびの社告を新聞に掲載するとともに、書店に回収要請をし、訂正版を出版することを告知。10月の森村とAが同席する会見で、Aは写真に付いていた説明文を塗り潰して森村に提供したと告白した。森村と光文社の説明によれば、提供者Aは七三一部隊の石井四郎の親族と関係のあった人物で、問題の写真は他の元隊員複数による判定で本物と見なされていたという。森村は後に、同書のグラビアに用いた「本物の写真の中に偽物が混入されて提供されたので、真偽の判別ができなかった」と述べた。この後、森村は光文社の依頼に応じて経緯を説明するための原稿を光文社に提示したが、両者の間で意見が対立し、森村は12月までに同書の絶版を光文社に申し入れた。しかし、1983年(昭和58年)に『悪魔の飽食』第3部と、第1部・第2部の改訂版が、問題の写真を削除した上で、角川書店より新たに出版されることになる。角川春樹はこのことについて、後に「内容がどうのこうのということより、作者が森村誠一さんであったことと、こうした脅迫に屈したら日本の出版の自由は退歩すると考え、退かなかった」と述懐した。しかし、これを出版したことで、右翼の街宣車から罵声を浴びせられたり、嫌がらせ電話や自宅の窓への投石をされた。このため、警察が森村の家の警備に付いたという。また、角川書店にも右翼活動家が乗り込んできたことがあったという。1987年(昭和61年)、小説『駅』を刊行。以降、この作品で登場した「牛尾正直」を主人公とした『終着駅シリーズ』を発表した。1993年(平成5年)、角川春樹がコカイン密輸で逮捕されたことを受け、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成。その記録を1994年(平成6年)に『イカロスは甦るか―角川事件の死角』として出版した。1999年(平成11年)、友人だった山村正夫の意志を継ぎ、「山村正夫記念小説講座」の名誉塾長に就任。21世紀に入ってからは、写真を用いての俳句に関心を持つ。旅行時や散歩時もカメラを持ち歩き、写真俳句についての著作『森村誠一の写真俳句のすすめ』(スパイス刊)も発表。また、「アスパラ写真俳句塾」審査員も務めた。2003年(平成15年)、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞。2011年(平成23年)、『悪道』で第45回吉川英治文学賞を受賞。2015年(平成27年)、老人性うつを発症。記憶が失われて言葉を忘れてしまうほどだったが、言葉を忘れないように筆ペンでノートに文字を書き散らし、それをトイレ、仕事場の壁、寝室の天井などに貼り、文字や文章を復唱するなどして克服。また、一時期は食事がとれなくなったことで体重が30kg台になり、生死の境も彷徨うほどだったが、流動食を導入したことで食欲が戻り、うつ状態から少しずつ回復していった。2021年(令和3年)には、闘病の記録『老いる意味』を発表し、ベストセラーとなった。しかし、うつと入れ替わるように今度は認知症を発症。脳に刺激を与えようと、散歩をしながらテープレコーダーを回したり、写真を撮ったりと懸命に対策をとるが、症状は進行して要介護3となり、デイサービスや訪問看護を利用せざるを得ない状況となった。晩年は要介護5となり、2023年(令和5年)に老人ホームへ入所。まもなく寝たきりの状態となり、同年7月24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年90。


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ホテルマンからベストセラー作家へと華麗なる転身を果たした森村誠一。社会派のテーマとトリックを融合させたミステリーで人気となり、特に角川春樹と組んで書き上げた『人間の証明』と『野性の証明』は映画化もされて大ヒットに。さらに、前者から生まれた「棟居刑事シリーズ」は何度もテレビドラマ化されるなど、多くのベストセラーを世に送り出した。私自身、彼の代表作である『終着駅シリーズ』を土曜ワイド劇場で観てきたので、森村誠一という名前は幼き頃から馴染みのある名前であった。一時は長者番付の常連となるほど絶大な人気を誇った森村誠一の墓は、東京都町田市の東京多摩霊園にある。洋型の墓には「証明 森村家」とあり、カロート部分に墓誌が刻む。戒名は「景光院?山誠文居士」。

# by oku-taka | 2025-10-13 02:33 | 文学者 | Comments(1)