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千之赫子(1934~1985)

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千之 赫子(ちの かくこ)

女優
1934年(昭和9年)〜1985年(昭和60年)

1934年(昭和9年)、京都府京都市伏見区新町に生まれる。本名は、若和田 光子(わかわだ みつこ)。旧姓は、長尾。京都市立伏見板橋小学校、東山女子中学校を経て、1949年(昭和24年)に東山女子高等学校へ入学するが、1950年(昭和25年)に高校を中退し、宝塚音楽学校に入学。1952年(昭和27年)、宝塚歌劇団に39期生として入団。同期生に朝丘雪路、眞帆志ぶきらがいる。同年、「アメリカーナ/春の踊り」で初舞台。1953年(昭和28年)、花組の所属となり、娘役として活動。1958年(昭和33年)8月30日、宝塚歌劇団を退団。この退団を報じる新聞記事が、当時歌舞伎座プロダクションで映画『蟻の街のマリア』を準備していた五所平之助の目にとまり、同作の主役・北原怜子(マリア)役に起用。この作品で映画製作者協会新人賞を受賞した。以降は女優として活動し、同年12月には歌舞伎座プロと契約。1959年(昭和34年)8月に歌舞伎座プロが解散するとフリーになり、『愛と希望の街』『女舞』『京化粧』『雪国』『女体』など主に松竹映画に出演し、庶民的な役柄で親しまれた。1965年(昭和40年)11月30日、俳優の東千代之介と見合い結婚。1967年(昭和42年)、映画『銀の長靴』を最後に映画界を引退し、活動の中心をテレビドラマに移す。その後も1983年(昭和58年)から放送を開始したTBS『千春子』までは精力的に仕事をこなしていたが、1985年(昭和60年)に持病の喘息が悪化。同年6月18日、慢性呼吸不全のため死去。享年51。


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元宝塚の娘役、そして東千代之介夫人としても知られる千之赫子。後年はテレビの世界に活動の場を移し、あらゆるドラマで母親役を好演。特に『3年B組金八先生』で演じた加藤優の母親役は彼女の代表作となり、中島みゆきの『世情』をバックに優を乗せた護送車を全速力で追いかけるシーンは、テレビドラマ史上屈指の名シーンとなった。それから数年後に喘息の悪化で世を去ってしまった千之赫子の墓は、東京都新宿区の専福寺にある。墓には「若和田家之墓」とあり、右側面に墓誌、名刺入れに「東千代之介 千之赫子」、花立てに夫の名取「若菜伊三郎」の名が刻む。戒名は「妙華院釋尼光赫」。

# by oku-taka | 2026-02-04 20:00 | 俳優・女優 | Comments(0)

東千代之介(1926~2000)

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東 千代之介(あずま ちよのすけ)

俳優
1926年(昭和2年)〜2000年(平成12年)

1926年(昭和2年)、長唄の六代目杵屋弥三郎の次男として、東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に生まれる。本名は、若和田 孝之。5歳から長唄をはじめるが、歌舞伎俳優の尾上鯉三郎が伯父だったことから俳優を志すようになる。1938年(昭和13年)、初代花柳徳太郎に師事し、日本舞踊を習う。1945年(昭和20年)7月には応召するが、間もなく敗戦。復員後は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)邦楽科で学ぶ一方、藤間勘十郎や坂東蓑助(後の8代目坂東三津五郎)らに師事して日本舞踊の振付けを学んだ。1952年(昭和27年)、坂東流の名取となり、"坂東伊三郎”の名で踊りの師匠となる。1953年(昭和28年)、名古屋で稽古中、踊りのできる若手を探していた東映中部支部長・竹本元信の眼に止まり、その誘いで翌年に東映へ入社。マキノ光雄の命名で"東千代之介“を芸名とし、映画『雪之丞変化』(河野寿一監督)でデビュー。本作でいきなり主役に抜擢されたが、作品は大ヒットとなった。その後、中村錦之助(後の萬屋錦之介)とコンビを組んだ『笛吹童子』『里見八犬伝』『紅孔雀』がいずれもヒット。昭和30年代前半には『侍ニッポン』『美女と怪竜』『夕日と拳銃』『鞍馬天狗』『佐々木小次郎』など年間10本に近い主演作を持ち、踊りで鍛えた端麗な容姿と軽やかな身のこなしで、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金時代を築いた。しかし、昭和30年代後半になると主演から外れることが多く、早い時期から東映製作のテレビ映画に出演することが多くなる。さらに、時代劇の衰退に伴い当時の東映京都撮影所長・岡田茂が時代劇を切り捨て、任侠路線に急転換したため、これに反撥し、中村錦之助、里見浩太朗らと1965年(昭和40年)に東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成して副代表になった。このほかにも、岡田には長年ギャラを値切られ続け、一年干された挙句「キャバレーに出るなら世話してやろう」などと言われ、堪忍袋の緒が切れたといわれる。しかし、後援会長の座館経営者から「赤旗を振るようなことがあったら会長を退くから」と叱られて副代表を辞任。同年11月には東映を退社した。私生活では、同年11月30日に女優の千之赫子とお見合い結婚。金銭関係や男女関係・違法行為などにまつわる不祥事とは全く無縁の人物でもあり、常に腰が低く、子供を含めたファンやスタッフへも親切かつ丁寧に対応する常識人な人柄とクリーンなイメージはスタッフからの厚い信頼にも繋がり、東映を離れた後も、主に東映や東映系のスタッフが制作に関連する数多くの映像作品で出演依頼を受け、重要な役どころを演じ続けた。1972年(昭和47年)、日本舞踊の若菜流を興し、"三世若菜伊三郎”として日舞教授として踊りを教える。1979年(昭和54年)、スーパー戦隊シリーズ第3作『バトルフィーバーJ』で、バトルフィーバー隊の司令官・倉間鉄山将軍として不定期ながらレギュラー出演。劇中では、主人公の若者たちを厳しく鍛えつつも愛情深く見守る重要な役どころで人気を博し、また自身が立ち回りを繰り広げる場面も用意された。これ以降、スーパー戦隊シリーズを含む東映の子供向け特撮作品においては司令官など“主人公たちの後ろ盾”という重要な役柄で著名な中堅・ベテラン俳優の出演枠が度々設けられた。1985年(昭和60年)、赫子と死別。1987年(昭和62年)、弟子と再婚。後年もテレビ番組『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演したり、林海象監督の映画『ZIPANG』では達者な名古屋弁をしゃべる徳川家康役を演じ、NHK朝の連続テレビ小説『京、ふたり』などで健在ぶりを見せたが、1993年(平成5年)に脳梗塞で倒れてからは踊りに専念した。1996年(平成8年) 、第6回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞を受賞。2000年(平成12年)11月9日午前5時33分、左心不全と慢性腎不全のため東京都新宿区の病院にて死去。享年74。


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萬屋錦之介、大川橋蔵とともに戦後の東映時代劇の黄金期を支えた東千代之介。端正な顔立ちと日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、その漂う気品さは晩年まで失われることはなかった。一方、映画スターでありながら仕事を選ばないことでも知られ、殊にスーパー戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』で、バトルフィーバー隊の司令官・倉間鉄山将軍役を演じたことは、今なお語り草となっている。歌舞伎出身者が多い時代劇スターの中で、日本舞踊界からデビューした異色の美剣士スター・東千代之介の墓は、東京都新宿区の専福寺にある。墓には「若和田家之墓」とあり、右側面に墓誌、名刺入れに「東千代之介 千之赫子」、花立てに「若菜伊三郎」の名が刻む。戒名は「映徹院釋深照」。

# by oku-taka | 2026-02-04 19:54 | 俳優・女優 | Comments(0)

岩田専太郎(1901~1974)

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岩田 専太郎(いわた せんたろう)

画家
1901年(明治34年)〜1974年(昭和49年)

1901年(明治34年)、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方の伯父や絵双紙屋のおばがいるという環境で、その感化を受けて専太郎も大衆的な絵画に興味をもち、少年の頃から独学で絵を学ぶ。1914年(大正3年)、旧制尋常小学校を卒業し、父の仕事の都合で家族が京都に転居していたことから専太郎も京都に移る。その後、図案家、日本画家、印刷図案家の順に弟子入りしてはやめるを繰り返し、最終的には日本画家・菊池契月の塾に通う。1919年(大正8年)、東京に戻り、お菓子屋の見本描きなどをして生計を立てていたが、大衆文芸雑誌『講談雑誌』を発行する博文館の挿絵画家として採用される。1920年(大正9年)、『講談雑誌』3月号に挿絵を描いてデビュー。以後、『講談雑誌』や同社発行の『文芸倶楽部』を中心に次々と挿絵を描いていく。また、この頃に伊東深水へ師事した。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居する。1924年(大正13年)、中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となり、同年創刊の『女性』、翌年創刊の『苦楽』で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。特に『苦楽』の編集を担当していた川口松太郎や直木三十五らとともに仕事をすることで、大正モダニズムの影響を強く受けた。1926年(大正15年)には東京に戻ったが、同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判となり、「モダン浮世絵」と呼ばれる。また、谷崎潤一郎『痴人の愛』の挿絵や、三上於菟吉『日輪』などの新聞小説の挿絵も担当し、一流挿絵画家の地位を獲得する。1937年(昭和12年)、山中貞雄監督の映画『人情紙風船』の美術考証を担当。これが縁で、1939年(昭和14年)には山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、萩原遼が監督した映画『その前夜』で美術考証を担当する。このほか、『すみだ川』『血槍富士』『日本橋』などの映画の美術考証や時代考証も担当した。1945年(昭和20年)、陸軍報道部の命により日本画『神風特攻隊基地出発』を製作。戦争末期には、妹の知人の故郷がある岩手県に妹と疎開し、食糧に窮した際には、頼って疎開してきた舞踊家の花柳徳兵衛と一座を組んで村々を慰問し、花柳の踊りを専太郎が解説するという出し物で訪問先から食糧を得た。戦後は出版ブームに乗り、挿絵の依頼が殺到。その一方、1948年(昭和23年)には出版美術家連盟(現在の日本出版美術家連盟)の発足に伴い、初代理事長に就任した。1954年(昭和29年)、表紙絵及び挿絵の功績により、第2回菊池寛賞を受賞。1961年(昭和36年)、紫綬褒章を受章。同年、『週刊読売』にエッセイを連載。1964年(昭和39年)にはこの連載をまとめた『溺女伝』を刊行した。同年、「個展-現代女性風俗画展」を日本橋三越で開催。以降、1972年(昭和47年)まで毎年開催する。1974年(昭和49年)、脳出血のため東京都新宿区の慶応病院にて死去。享年72。


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挿絵画家として一時代を築いた岩田専太郎。線描の美しい官能的な女性を得意とし、新聞の連載小説・週刊誌・月刊誌の挿絵を多く手掛けた。中でも、吉川英治『鳴門秘帖』を皮きりに、谷崎潤一郎『痴人の愛』、大仏次郎『赤穂浪士』、川口松太郎『蛇姫様』、司馬遼太郎『竜馬がゆく』といったヒット作の挿絵を担当しており、まさに「ヒットの陰に専太郎美人画あり」という時代があった。挿絵画の巨匠・岩田専太郎の墓は、東京都新宿区の法蔵寺にある。墓には「岩田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「伯秀院幽玄専空居士」。なお、女優としても活動した妹の湊明子(本名:岩田とし)も同じ墓に納骨されており、墓誌によれば1978年(昭和53年)7月23日に72歳で亡くなったとのことである。

# by oku-taka | 2026-01-26 23:15 | 芸術家 | Comments(0)

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海老一 染之助(えびいち そめのすけ)

太神楽曲芸師
1934年(昭和9年)〜2017年(平成29年)

1934年(昭和9年)、落語家・三遊亭圓駒の次男として、現在の東京都新宿区に生まれる。本名は、村井 正親(むらい まさちか)。少年時代は赤貧の生活で、豆カスやヒエの混ざった飯ですら、茶碗1杯を食べることができなかった。1945年(昭和20年)、「進駐軍に珍しい芸を見せれば、うまい物を食べられるぞ」と父に勧められ、傘の上でまりを回す芸で知られる伝統演芸・太神楽の 2代目海老一海老蔵に兄が入門。しかし、そこにくっついていったことで太神楽に興味を持ち、兄弟揃って入門となった。そのため、兄とコンビを組むことになったが、年齢的にまだ幼いため、しばらくは兄のカバン持ちを務めた。1946年(昭和21年)12月、新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」の名で初舞台を踏む。1949年(昭和24年)、「海老一染之助・染太郎」に改名。以来、染之助が曲芸を披露する傍らで、染太郎が軽快なテンポと独特な話術を展開する芸が十八番となり、“おめでとうございます”などとはやし立てる明るい芸風で子供からお年寄りまで幅広い人気を得た。しかし、兄は曲芸ができなかったわけではなく、弟よりもむしろ頭がよく芸の覚えも早かった。けれども兄は気持ちが長続きせず、結局弟の方が上達することになるので、兄は脇役に回る結果になったという。この一目見て分かる曲芸は海外でも人気を呼び、1960年(昭和35年)5月に旧ソ連文化省より招聘を受け旧ソビエト連邦にて初の海外公演。1965年(昭和40年)2月には 「お染ブラザーズ」の愛称でアメリカのABCテレビに出演。このほか、ブラジル、東南アジアなどで公演し、オーストラリアのシドニーオペラハウス、スウェーデン国立人形劇場などにも招かれた。1973年(昭和48年)、放送演芸大賞曲芸部門賞を受賞。1985年(昭和60年)、浅草芸能大賞の第1回奨励賞を受賞。1988年(昭和63年)10月、フジテレビ『笑っていいとも!』にレギュラー出演。正月だけでなく通年でテレビで見られるようになり、若者にも認知が広がった。1989年(平成元年)3月 にはシングル『おめでとうございます!!』でCDデビューを果たす。以降も正月番組の顔としてお茶の間に親しまれていたが、2002年(平成14年)2月2日に染太郎が胃癌のため死去。その後はピンで活動を続けていたが、晩年は50代で発症した糖尿病が悪化。薬には頼らず、ウオーキングや食事療法で血糖値を抑え、糖尿病をテーマにしたコラムなどを書いていたが、次第に体力が衰え、2013年(平成25年)頃に引退。2014年(平成26年)に入ってからは体調を崩し、車椅子で通所介護を利用するようになった。2015年(平成27年)以降は入退院を繰り返し、2017年(平成29年)11月に肺炎を患って入院。同年12月6日午前11時31分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年83。


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「おめでとうございま〜す」の挨拶で正月の演芸番組にはお馴染みの存在だった海老一染之助・染太郎。伊勢神宮が発祥と言われる伝統の太神楽を一代で正月の風物詩に育て上げた。特に弟の染之助は、汗だくになりながら大技を披露し、「弟は肉体労働、兄は頭脳労働。これでギャラは同じです」などの軽妙なギャグで会場を笑いに包んだ。そうした待遇差もあってか、実生活では兄弟仲が非常に悪く、二人が楽屋で喧嘩している所を見たという芸人もいたようで、かつて内海好江が「あなた達はしょっちゅう喧嘩してますね」と言うほどであった。しかし、後輩芸人が染太郎に対して無礼な態度をとったときは本気で激怒するなど、互いに兄弟として大事に思い合っていた部分はあったようである。実際、兄が先に亡くなり、染之助がピンで活動するようになったが、その姿にどこか寂しさが感じられた。兄・染太郎が亡くなって15年、83歳で旅立った弟・染之助の墓は、東京都中野区の東光寺にある。墓には「村井家 萩原家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「至藝染朗信士」。

# by oku-taka | 2026-01-18 22:27 | 演芸人 | Comments(0)

竜崎一郎(1912~1988)

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竜崎 一郎(りゅうざき いちろう)

俳優
1912年(明治45年)〜1988年(昭和63年)

1912年(明治45年)、神奈川県横浜市に生まれる。本名は、龍崎 光一郎。旧制横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高校)を卒業し、1933年(昭和8年)に助監督志望で新興キネマに入社。映画監督の牛原虚彦に師事するが、1937年(昭和12年)にP.C.L.(現在の東宝)へ移って俳優に転向。1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』で主役の一人に抜擢される。1947年(昭和22年)、『今ひとたびの』で高峰三枝子の相手役に抜擢されて注目を集める。1949年(昭和24年)の『青い山脈』では校医の沼田先生を演じ、人気を高めた。1960年(昭和35年)以降はテレビに活躍の場を移し、家族で楽しめるコメディータッチのNHKドラマ『ママと私たち』や時代劇などに出演した。1988年(昭和63年)6月28日、肺癌のため死去。享年76。


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戦後の東宝映画で二枚目スターの一人であった竜崎一郎。メロドラマで気品ある端正な男性を演じ、俳優としての存在を確立。しかし、なんといっても『青い山脈』で演じた沼田先生が最大の当たり役となった。後年は時代劇の分野に進出して憎々しい悪役を演じたが、凛々しく気品あふれる顔立ちは亡くなるまで健在だった。そんな竜崎一郎の墓は、東京都世田谷区の最勝寺教学院にある。墓には「龍崎家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「慈光院悟岳一道居士」。

# by oku-taka | 2026-01-11 22:33 | 俳優・女優 | Comments(0)