人気ブログランキング | 話題のタグを見る

十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195865.jpg

十代目・桂 文治(かつら ぶんじ)

落語家
1924年(大正13年)〜2004年(平成16年)

1924年(大正13年)、落語家・初代柳家蝠丸の長男として、東京都豊島区雑司ヶ谷に生まれる。本名は、関口 達雄(せきぐち たつお)。早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年(昭和19年)に召集令状を受ける。航空兵志望だったが、父が初代蝠丸だというのが知られていたのか、「はなし家はオトスから」という理由で断られた。終戦後の1946年(昭和21年)6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年(昭和23年)10月、2代目桂伸治に改名して二つ目に昇進。1958年(昭和33年)9月には真打に昇進した。1959年(昭和34年)、フジテレビ『お笑いタッグマッチ』に回答者として出演。テレビ演芸の草分け的であった当番組に出演したことで人気を集め、1960年代の演芸ブームでテレビやラジオに多く出演。丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」のテレビCMでも有名となった。1979年(昭和54年)3月、前年に亡くなった九代目桂文治の盟友である八代目林家正蔵(後の林家彦六)の推薦で十代目桂文治を襲名。桂派宗家となる。以降、江戸落語の重鎮として人情噺や怪談噺には目をくれず、落し噺一筋に活躍。とぼけた味の爆笑落語が持ち味で、「源平盛衰記」「お血脈」「やかん」などの地噺は“文治流”とも呼ばれた。その一方、書道、彫刻、盆栽など落語界きっての多芸としても有名で、中でも南画は書壇院展で特選を繰り返し、東京都美術館の審査員も務めた。1981年(昭和56年)、芸術祭優秀賞を受賞。1996年(平成8年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1999年(平成11年)9月、四代目桂米丸の後任で落語芸術協会の会長に就任。2002年(平成14年)11月、勲四等旭日小綬章を受章。2003年(平成15年)末、高齢を理由に落語芸術協会会長の退任を表明したが、2004年(平成16年)1月18日に急性白血病のため入院。その後、東京都新宿区の東京女子医科大学病院に転院したが、容態が悪化し、芸協会長の任期満了日であった1月31日午後5時17分、急性白血病による腎不全のため死去。享年80。


十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195700.jpg

十代目・桂文治(1924~2004)_f0368298_17195872.jpg

歯切れの良い軽妙な語り口で知られた十代目桂文治。江戸の言葉遣いにこだわり、「こたけむかいはら」(小竹向原)というのは間違っている、江戸言葉では「向こう」というのが正しいから、正確には「こたけむこうはら」、「やじうま(野次馬)」ではなく「やじんま」、「何を言やがるんでえ」ではなく「何をいやんでぇ」、また江戸の職人は「やかましいやい」ではなく「うるせいやい」、商人は「ありがとうございました」では縁が切れるから「ありがとうございます」や「ありがとう存じます」というのが正しいんだ、という持論を持っていた。また、普段から落語家らしく色紋付きのない着物姿で過ごし、高座では黒紋付きで通した。古来からの風習にこだわり、芸協会長の任期満了日に旅立っていった先代文治の墓は、東京都港区の玉窓寺墓地にある。二基ある墓のうち、左は「関口家代々之墓」、右は先祖の戒名が刻まれた墓となっており、十一代目桂文治によれば、納骨されたのは右側の墓であるという。戒名は、「文翁院話玄達道居士」。

# by oku-taka | 2022-11-26 17:22 | 演芸人 | Comments(0)

原貢(1936~2014)

原貢(1936~2014)_f0368298_17103019.jpg


原 貢(はら みつぐ)

野球指導者
1936年(昭和11年)〜2014年(平成26年)

1936年(昭和11年)、佐賀県神埼郡三田川町(現在の吉野ヶ里町)に生まれる。鳥栖工業高等学校を卒業後、立命館大学に進学するも中退。ノンプロの東洋高圧大牟田(現在の三井化学)に入社し、三塁手として活躍。1959年(昭和34年)、東洋高圧大牟田でプレーしながら、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。打撃に力を入れ、速球に負けないスイングスピードを身につけるために素振りを日課とさせ、一人一人に合わせた特注品のバッドを熊本の工場に注文した。これが実を結び、1965年(昭和40年)に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きで、1966年(昭和41年)東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。「神奈川の高校野球を変える」と宣言し、それまで、引っ張らずに単打を重ね、犠打で少ない好機を生かすのが主流であったチーム打撃を、三池工の攻撃的野球スタイルそのままに東海大相模を鍛えた。その結果、1970年(昭和45年)夏の甲子園で同校を初の全国優勝に導くなど、9度の甲子園出場を果たし、まだ歴史の浅かった同校を全国屈指の強豪校へと育て上げた。守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、当時は「水を飲むと動きが鈍くなる」「飲むような奴は根性が無い」というのが通説となっていた1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたり、塩を舐めさせたりするなど、進歩的な考えも併せ持っていた。1974年(昭和49年)には長男の辰徳が入学し、親子鷹と注目を集めたが、辰徳には野球部内では親子の関係を一切断ち切るなど厳しい条件を押し付けた。練習では何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせ、ほかの選手の襟を正すための手本とさせた。1976年(昭和51年)11月16日、辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任することを発表。首都大学リーグでは22シーズンに渡って指揮を執り、13度のリーグ制覇を果たし、7連覇をも達成した。東海大の名は一気に全国区となったが、辰徳が巨人入りすることが決まった直後の1980年(昭和55年)12月19日に東海大相模監督に復帰。1984年(昭和59年)からは東海大学系列校野球部の総監督となったが、1990年(平成2年)春から東海大監督に復帰。6度のリーグ優勝に導き、1996年(平成8年)10月29日に勇退を表明した。以降は再び東海大学系列校野球部総監督として後進の指導にあたった。2011年(平成23年)、孫の菅野智之がドラフトで巨人の単独指名を受けるとみられていたが、日本ハムが強行指名して交渉権を獲得したことについて、「日本ハムからあいさつが一言もなかった。これは人権蹂躙」「あいさつもなしに指名するなんて“だまし討ち”」と憤った。2014年(平成26年)5月4日、ゴルフを終えて帰宅後に胸の痛みを訴え、神奈川県相模原市内の病院に緊急入院。心筋梗塞と大動脈解離を併発し、集中治療室(ICU)に入った。5月29日午後10時40分、心不全のため死去。享年79。没後、生前の功績を讃えられ、東海大学の松前達郎総長から『東海大学野球部名誉総監督』の称号が追贈された。2015年(平成27年)6月8日には、2015年度の育成功労賞を受賞した。


原貢(1936~2014)_f0368298_17083574.jpg

原貢(1936~2014)_f0368298_17083787.jpg

原貢(1936~2014)_f0368298_17083687.jpg

強固な意志と常に攻めの姿勢で挑み続けたアマチュア野球界の重鎮・原貢。炭坑の街・大牟田の三池工を率いた夏の甲子園大会で工業高校としては初の全国制覇を果たし、5年後には東海大相模の監督として再び全国制覇を成し遂げた。その後、東海大学野球部監督に就任し、首都大学リーグ通算13度の優勝を達成。また、妥協を許さない熱血指導で、上田卓三や遠藤和彦などのプロ野球選手、岩井美樹や村中秀人などのアマチュア指導者ら多くの人材を育て、日本球界に大きな功績を残した。中でも、巨人軍の4番打者を務め、監督として名将の名を欲しいままとした息子・原辰徳、同じく巨人軍のエースとなった孫・菅野智之を育て上げたことは特筆すべき点であろう。それだけに、日本ハムが強行指名して菅野の交渉権を獲得した際、「日本ハムからあいさつが一言もない。これは人権蹂躙だ!」と憤ったときは、その時代錯誤さに引いてしまった。高校野球の世界において一時代を築いた原貢の墓は、東京都港区の玉窓寺墓地にある。野球ボールをかたどったモニュメントのある墓には「原家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「熱球院釋貢勝」。

# by oku-taka | 2022-11-26 17:14 | スポーツ | Comments(0)

荒木伸吾(1938~2011)

荒木伸吾(1938~2011)_f0368298_16280406.jpeg


荒木 伸吾(あらき しんご)

アニメーター
1938年(昭和13年)〜2011年(平成23年)

1938年(昭和13年)、愛知県名古屋市に生まれる。中学卒業後、日本車輌製造に勤務するが、さいとうたかを、辰巳ヨシヒロの影響を受けて漫画の執筆をはじめる。1955年(昭和30年)、貸本劇画誌『街』(セントラル文庫)の新人コンクールで入賞し、漫画家としてデビューする。その後、昼は工場で働きながら、『街』や『顔』(エンゼル文庫)などの貸本劇画誌に約60本の短編を執筆する。しかし、漫画で生計を立てることは出来ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事した後、貸本漫画家仲間で先に虫プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年(昭和39年)に虫プロダクションへ入社。テレビアニメ『ジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。虫プロダクションは1年ほどで退社して、1966年(昭和41年)に作画スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間数人で発足。ジャガードは虫プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作画も手がけており、荒木も楠部大吉郎作画監督の下で『巨人の星』の劇画タッチの作画に挑戦し、劇中の一つのクライマックスになる星飛雄馬の大リーグボール1号を花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作画は語り草となった。1970年(昭和45年)、虫プロダクションで杉野昭夫、金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作画監督を担当。また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作画監督をしたのを手始めに東映動画作品にも参加するようになった。1971年(昭和46年)、友人とスタジオZを設立。1973年(昭和48年)、フリーに転身。また、テレビアニメ『バビル2世』で初のキャラクターデザインを任された。さらに東映動画では、『キューティーハニー』、『魔女っ子メグちゃん』、『少年徳川家康』『UFOロボ グレンダイザー』、『惑星ロボ ダンガードA』と立て続けに東映動画作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。特に『惑星ロボ ダンガードA』の男性キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。この間、倒産したジャガードに代わり1974年(昭和49年)に荒木プロダクションを設立。設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫画的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。1979年(昭和54年)、東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を担当。ここでも、演出面での高い要求に答えた。1980年(昭和55年)、同じく東京ムービーでフランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を手がける。日本国内では目立った仕事がなかったが、フランスとの仕事ではソフトな演技を学び、後の仕事に役立ったという。1986年(昭和61年)、車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化を担当。当作は3年間にわたって放送され、自他ともに認める代表作となり、荒木の作風の人気に再び火がついた。その後は車田作品の『リングにかけろ1』・『風魔の小次郎』に加え、横山光輝作品の『横山光輝 三国志』など、多くのキャラクターデザインを手がけるようになった。この人気を背景に、荒木・姫野のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲーム『BURAI』(1989年)と『KIGEN 輝きの覇者』(1991年)が発売された。『聖闘士星矢』以降も荒木は東映動画作品を主としてキャラクターデザインを続けたが、作画監督を務めることは少なくなっていった。2000年代後半に持病の悪化などで体調を崩し、一線からは離れるものの、創作への熱意は衰えることなく、自作の漫画を描き続けた他、ウォーキングやスイミングなどで体を鍛え、驚異的な回復力を見せて医者や家族を驚かせた。 2010年(平成22年)8月には公式サイトを開設。45年ぶりに作成中の漫画作品『Sourire』のサンプルを数ページほど公開した。2011年(平成23年)11月30日、近所のプールでケノビの練習中に溺れて日大板橋病院に救急搬送。意識が戻らないまま、12月1日午前1時21分、急性循環不全のため死去。享年73。


荒木伸吾(1938~2011)_f0368298_16452601.jpg

荒木伸吾(1938~2011)_f0368298_16452622.png

荒木伸吾(1938~2011)_f0368298_16452705.jpg

端正な美形キャラクターの作画を得意とし、1970年代のアニメ界において地位を確立した荒木伸吾。柔らかくて美しい曲線の髪、強い目力、鼻筋の通った顔、メリハリを強調したフォルムの人体、鬼気迫った表情など、特徴的なキャラクターを多く作画。『巨人の星』『あしたのジョー』における劇画タッチの作画や、『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』の可憐なキャラクター、少女マンガのタッチを取り入れて美形キャラ路線を推し進めた『惑星ロボダンガードA』、従来のスタイルに回帰して2000年代以降も続編を制作する人気シリーズとなった『聖闘士星矢』など、手がけた作品のほとんどが日本アニメ史に残る人気作となった。不慮の事故という形であまりに突然旅立ってしまった伝説的なアニメーター・荒木伸吾の墓は、東京都港区の玉窓寺墓地にある。洋型の墓には「荒木家」とあり、左側に荒木が描いた男の子の絵が背面に刻まれた墓誌が建つ。戒名は「漫樂院釋慈伸」。

# by oku-taka | 2022-11-26 16:47 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)

さいとう・たかを(1936~2021)_f0368298_11360325.jpg

さいとう・たかを

劇画家
1936年(昭和11年)〜2021年(令和3年)

1936年(昭和11年)、和歌山県和歌山市に生まれる。本名は、齊藤 隆夫(さいとう たかお)。生後まもなく転居し、大阪府堺市に移り住む。父親は理髪店を営んでいたが、写真家・画家・彫刻家などを目指しては挫折し、やがて出奔して家を出ていった。理髪店は母親が営み、女手一つで子供を育てたが、これを機に芸術関係の仕事を人一倍嫌悪し、父親の絵を何の躊躇もなくかまどにくべて焼き「男が芸術で食べていけるわけが無い」と吐き捨てた。小さい頃は図画工作(美術)科目とケンカが得意の不良少年であり、将来の夢はボクサーか画家になることであった。中学時代には府の絵画展で金賞を獲得している。1950年(昭和25年)、堺市立福泉中学校を卒業し、実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく、将来の夢は挿絵画家だったが、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感から、当時はまっていた映画や進駐軍が持ち込んだ「10セント・コミックス」に影響を受け、ストーリー漫画を志す。同時期に手塚治虫の『新寶島』を見て衝撃を受け、「紙で映画が作れる!」と興奮したという。1952年(昭和27年)、家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年(昭和30年)仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。1956年(昭和31年)には漫画に専念するために家業の理髪店を辞めるが、母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになった。さいとうが大成した後も、送ったゴルゴ13の単行本を見もせずに即刻焼却し、その挙句、死の床にあっても単行本に指一つ触れようとしないどころか視界から背け、和解を拒むなど、さいとうのことを最期まで認めず、同時に許さなかった。このことはさいとうも気にしているようで、執筆室には仕事をしているさいとうに向かい合うように亡母の写真が飾られていた。同年、辰巳ヨシヒロや松本正彦らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始める。1958年(昭和33年)、先輩漫画家の久呂田まさみに連れられて上京。東京都国分寺市のアパートに居を構える。1959年(昭和34年)、国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家のさいとう、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、松本正彦ら8人で劇画制作集団「劇画工房」を結成。人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して多数の貸本劇画短編集を出版するが、組織論や仕事配分、ギャラの分配などで揉め、翌年の春に分裂した。「劇画工房」の分裂後、佐藤まさあき、川崎のぼる、南波健二、ありかわ栄一ら、ガンアクション系の劇画家5人で「新・劇画工房」の設立を計画するも頓挫。その計画を元に、1960年(昭和35年)東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立。さいとうの「漫画制作に分業体制や脚本部門を置く」という組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、さいとうの兄の斉藤發司がマネージャーを務めることになる。以後、多数の貸本劇画を出版。中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博した。1962年(昭和37年)、貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。メンバーはさいとう、横山まさみち、永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志、都島京弥、いばら美喜、山田節子、武本サブロー、影丸譲也、など。もっとも、この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違って劇画家の親睦のための団体であり、一般読者会員にも会報などを発行していた。貸本業界が傾き始めた1963年(昭和38年)、ボーイズライフ連載の『007』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。1967年(昭和42年)には時代劇アクション劇画『無用ノ介』(『週刊少年マガジン』)を連載。劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作となった。1968年(昭和43年)、10月より連載開始した『ゴルゴ13』(『ビッグコミック』)は、さいとうにとっての代表作となり、日本における「劇画」の代名詞となる。『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、1976年(昭和51年)1月に1975年度小学館漫画賞の青年一般部門、2005年(平成17年)1月に2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞し、2021年(令和3年)7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定された。21世紀に入ると、『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の3作の長期連載を軸に活動。大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開した。2003年(平成15年)、紫綬褒章を受章。2010年(平成22年)には旭日小綬章を受章した。しかし、2008年(平成20年)に武本サブロー、2014年(平成26年)に石川フミヤスと、長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去。さいとうの作業量が増加し、そのため2015年(平成27年)2月に体力的な負担を理由として『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定した。残り2作品の連載執筆に専念しつつ(これらもページ数を減らしている)、『梅安』再開も模索したが、結局体力の限界を理由に2016年(平成28年)3月『梅安』連載終了を告知した。また2020年(令和2年)5月には、10人以上のスタッフが1か所に集まって作画作業を行うことで、新型コロナウイルス感染リスクが高まることに配慮し、『ゴルゴ13』も52年目にして初の休載が決定した。そうした状況であったが、2021年(令和2年)7月から『ビッグコミック増刊号』にて、『ゴルゴ13』のスピンオフ作品である『銃器職人・デイブ』の連載を開始している。しかし、2021年(令和2年)9月24日午前10時42分、膵臓癌のため死去。享年84。没後、正六位に叙することが決定。連載中だった『ゴルゴ13』については、「自分抜きでも続いていってほしい」とのさいとうの遺志に沿い、さいとう・プロダクションと脚本スタッフ、連載元の『ビッグコミック』編集部の協力体制で連載を継続させていくことがビッグコミック編集部から発表され、もう一つの連載作品である『鬼平犯科帳』も同年9月30日に連載の継続がリイド社公式サイトで発表された。


さいとう・たかを(1936~2021)_f0368298_11360355.jpg

さいとう・たかを(1936~2021)_f0368298_11360213.jpg

さいとう・たかを(1936~2021)_f0368298_11360441.jpg


漫画界において「劇画」の分野を確立した、さいとう・たかを。国籍・年齢・本名・すべてが不明の寡黙なスナイパーの活躍を描いた代表作『ゴルゴ13』は半世紀以上にわたって連載され、単行本200巻刊行は最も発行巻数が多い漫画としてギネス世界記録に認定された。東西冷戦をはじめ、テロや民族紛争など、作品には最新の国際情勢を常に取り入れ、谷垣禎一や麻生太郎といった政治家にも愛された。劇画界の代表的人物として君臨する一方、若くして「さいとう・プロダクション」を設立し、脚本や作画を各スタッフの分業体制によって制作する仕組みをいち早く確立。作品の世界観が古びることのないよう、そして万が一自身に何かあっても作品を発表できるようにと、徹底したポリシーを持ち続けた。亡くなる直前まで現役の劇画家として活躍したさいとう・たかをの墓は、東京都港区の梅窓院にある。墓には、感謝の「謝」とサイン、右側面に墓誌が刻む。戒名は「眺望院劇画和顔温徳隆光清居士」。

# by oku-taka | 2022-11-13 11:38 | 漫画家 | Comments(0)

星野淳一郎(1960~2017)

星野淳一郎(1960~2017)_f0368298_11253193.jpg


星野 淳一郎(ほしの じゅんいちろう)

テレビディレクター
1960年(昭和35年)〜2017年(平成29年)

1960年(昭和35年)、生まれる。早稲田実業学校ではブラスバンド部に所属し、高校生の頃からアルバイトとしてフジテレビでADを務めていた。「THE MANZAI」のアルバイトADだった学生時代に、番組のターゲットを学生に当てることを発案し、大学の落語研究会やプロレス研究会に動員をかけて約400人の学生を集め観覧をさせたことで若者の間に漫才ブームを巻き起こした。早稲田大学卒業後の1983年(昭和58年)、バイト先だったフジテレビにフリーディレクターとして契約。編成局第二制作部(現在の編成制作局バラエティー制作センター)で、同期の吉田正樹と共に横澤彪班に所属した。その後、昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』、タモリを司会に抜擢した『笑っていいとも!』を制作。特に後者ではチーフディレクターを務め、ADの人事や、誰をどこにつけるのかまで全部を取り仕切り、出演者側とのギャラ交渉をも担当、放送時はスタジオアルタの下手に立って全体を指揮した。1985年(昭和60年)、は無名の若手お笑い芸人たちやミュージシャンたちを紹介する深夜番組『冗談画報』のディレクターとなり、星野は所ジョージ、ダウンタウン、憂歌団を担当した。1987年(昭和62年)、フジテレビ開局30周年を記念して『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』(後の27時間テレビ)を企画。当番組に星野はチーフディレクターとして参加。全てのコーナー台本を書き上げるだけでなく、総合演出を務めた三宅恵介の後方で全スタッフに指示出しを行い、事実上現場を取り仕切った。1988年(昭和63年)、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子が出演した深夜番組『夢で逢えたら』のディレクターに就任。当初は金曜(木曜深夜)2時過ぎの放送だったためか、初期の視聴率は1%を切ることもあったが、作家の書いたコント台本を星野がリライトし、「ガララニョロロ」「伊集院みどり」「サービス」「タキシーズ」「ポチ&卍丸」など多数の人気キャラクターが生まれたことで徐々に人気が高まり、土曜に移って全国ネット化してからは、深夜番組としては異例の最高平均視聴率20.4%という高視聴率を記録した。以降、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば』『ダウンタウンのごっつええ感じ』など、主にウッチャンナンチャン、ダウンタウンの番組で演出と監修業務を担当。フジテレビとの契約が切れた後は、日本テレビなどでもディレクター・番組演出家・スーパーバイザーとして、『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』『ウンナンの気分は上々。』など、バラエティ番組を中心に演出や監修を担当する。1998年(平成10年)、フジテレビ『笑う犬』シリーズのチーフプロデューサーを担当することとなった元同僚の吉田に誘われ、同番組のプロデューサーに就任。後進のディレクターの指導育成などを任された。2017年(平成29年)12月、逝去。享年57。


星野淳一郎(1960~2017)_f0368298_11253141.jpg

星野淳一郎(1960~2017)_f0368298_11253296.jpg


1981年(昭和56年)、それまでの「母と子のフジテレビ」としていたフジテレビは、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出した。このキャッチフレーズの下に、プロデューサー・横澤彪の懐刀として人気番組を次々に手がけ、フジテレビを一躍時代の寵児にのし上げたせのが、伝説のテレビマンと呼ばれた星野淳一郎である。タモリ、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンと、今も活躍するタレントたちの代表的番組でディレクターを務め、番組のみならずそのタレントたちの人気に大きく貢献した。特に、若干26歳で27時間テレビを企画し、30年も続くことになる大型番組の基礎を築いたことは特筆すべきことであろう。前に出るタイプではなく、自らをも語ることがなかった為、その素性は謎に満ちていた星野淳一郎の墓は、東京都港区の梅窓院にある。墓には「星野淳一郎」の名とともに、手がけた代表的番組と「多くの人々との思い出と共に眠る」の一文が刻まれている。戒名は「喜道淳祐信士」。

# by oku-taka | 2022-11-13 11:29 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)