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朝倉響子(1925~2016)

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朝倉 響子(あさくら きょうこ)

彫刻家
1925年(大正14年)〜2016年(平成28年)

1925年(大正14年)、彫刻家・朝倉文夫の次女として東京に生まれる。本名は、朝倉 矜子。当時、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で教鞭をとっていた父の「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。幼少期は姉の摂(後に舞台美術家となる)とともに絵を描いていたが、やがて彫刻を制作するようになり、1939年(昭和14年)9月に東京府美術館で開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会に「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品。1942年(昭和17年)10月の第5回新文展に「望」を出品し、初入選を果たした。1943年(昭和18年)10月、第2回日展に出品した「晨」で特選を受賞。以後日展では、1947年(昭和23年)第3回展に出品した「萌」、1950年(昭和25年)第6回展に出品した「作品S」、1951年(昭和26年)第7回展に出品した「Mlle S.」で特選を受賞。1952年(昭和27年)の第8回展、1957年(昭和32年)の第13回展では審査員を務めたが、その後に日展を脱退した。一方、1954年(昭和29年)5月に第1回現代日本美術展へ「首」を出品。以後、第8回展まで毎回作品を出品した。1958年(昭和33年)4月、新聞を配る少年保護育成の会の依頼で約1年をかけて制作した新聞配達の少年像が完成。麻布有栖川宮記念公園に設置された。1959年(昭和34年)5月、第5回日本国際美術展に「男の顔」を出品。以後、第9回展まで毎回作品を出品する。1960年(昭和35年)春、それまで父のアトリエの一隅を仕切って制作を行っていたが、本郷千駄木町にアトリエを新設。1961年(昭和36年)、新聞配達の少年像をきっかけとし、神田錦町の製本業者からの依頼で製本工の像を制作。10月、文藝春秋画廊にて初の個展を開催。1965年(昭和40年)1月、朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」が選抜出品される。1967年(昭和42年)11月、ギャラリー・キューブにて個展を開催。石彫、ブロンズによる作品10余点を出品し、中でも3点のトルソでは形態の単純化と抽象化が見られた。こうした傾向は1970年(昭和45年)4月にギャラリー・ユニバースで行った個展でも見られ、ブロンズによる具象的な人物像と石彫によるトルソという彫塑と彫刻の両方が試みられた。また、1960年代後半頃よりブロンズによる女性像には着衣のものが多く見られるようになり、「アヤ」「リサ」「ユミ」「マヤ」などの女性名をタイトルにした作品も発表された。1971年(昭和46年)7月、第2回現代国際彫刻展に招待され、「女」を出品。1973年(昭和48年)9月、ギャラリー・ユニバースで個展を開催。椅子に腰掛け両足をまっすぐに伸ばした着衣の女性像「WOMAN」をはじめとしたブロンズ作品18点を発表する。1974年(昭和49年)9月、第2回現代彫刻20展に招待され、「WOMAN」「WOMAN」「FACE・S」を出品。1970年代後半頃、それまでのデッサンにかわってモデルの写真を撮るようになり、その写真から対象のイメージを引き出し、造形化するという新しい方法での制作を行うようになる。1978年(昭和53年)10月にギャラリー・ユニバースで行った個展では、有名歌手やファッションモデルをモデルに制作した作品を発表。1979年(昭和54年)、布施明をモデルにした「F」(後に「憩う」と改題)で第7回長野市野外彫刻賞を受賞した。1980年(昭和55年)1月、写真家の奈良原一高が撮影を担当した写真集『光と波と 朝倉響子彫塑集』を刊行。1982年(昭和57年)、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞。1985年(昭和60年)9月、写真家・安斎重男の撮影による写真集『KYOKO』の刊行を記念し、渋谷のパルコパート3内のスペースパート3にて個展を開催。同会場では1988年(昭和63年)9月、1993年(平成5年)3月にも個展を開催した。ている。2000年(平成12年)9月、現代彫刻センターにて個展を開催。同年11月には大分県の朝倉文夫記念文化ホールにて、70年代からの作品38点に野外設置作品の大型プリント9枚を加えた回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催された。2003年(平成15年)12月、北九州市立美術館にて回顧展「朝倉響子展―ときの中で―」が開催。2006年(平成18年)、中原悌二郎賞を受賞。2010年(平成22)1月には上野の森美術館ギャラリーにて個展を開催したが、2016年(平成28年)5月30日午後8時36分、腸閉塞のため東京都文京区の病院で死去。享年90。


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「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫を父に持ち、女性彫刻家として現代具象彫刻を代表する存在だった朝倉響子。朝倉文夫の娘と言われることを嫌った姉・朝倉摂とは異なり、反抗することなく父と同じ道を歩んだ彼女は、スタイリッシュなモデルを起用し、その四肢をありのまま表現することを得意とした。また、国内に多くのパブリックアートを設置し、東京・町田の「WOMAN」、大阪・御堂筋の「ジル」、兵庫・姫路の「二コラ」などが挙げられる。朝倉響子の墓は、東京都台東区の谷中霊園天王寺墓地にある。墓には「朝倉文夫夫妻之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「澄月院純心妙響清大姉」。

# by oku-taka | 2023-03-12 00:41 | 芸術家 | Comments(0)

鳩山一郎(1883~1959)

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鳩山 一郎(はとやま いちろう)

政治家
1883年(明治16年)〜1959年(昭和34年)

1883年(明治16年)、衆議院議長を務めた鳩山和夫の長男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)東五軒町に生まれる。高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)、高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て、1907年(明治40年)に 東京帝国大学法科大学英法科を卒業。父の弁護士事務所に勤めるも、1911年(明治44年)に父が死去。1912年(大正元年) 、父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。1915年(大正4年)、立憲政友会公認で衆議院議員に当選。1924年(大正13年)、政友会分裂に伴い、政友本党に参加。しかし、1925年(大正14年)に政友本党を離党。同交会を経て、翌年に自身が中心となって合計26名で政友会に復党。田中義一総裁に気に入られ、復党早々に幹事長に登用されてたことが、党内の反発を受けた。1927年(昭和2年)、田中義一内閣で内閣書記官長に就任。同年5月2日、正五位に叙される。1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議で、軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして、犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃した。また、第2次若槻内閣末期には山本悌二郎、森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山、今村均、東條英機らに倒閣を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた。こうした行動は戦後になってGHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱める結果となり、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。1931年(昭和6年)、犬養内閣で文部大臣に就任。五・一五事件後の斎藤内閣でも引き続き文部大臣を務めた。1932年(昭和7年)、義兄の鈴木喜三郎が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。同年10月28日、京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が中央大学駿河台校舎で開催された刑法学講演会(中大法学会主催)で「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」を講演。この内容が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発し、1933年(昭和8年)4月に内務省が瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として出版法第19条により発売禁止処分を下した。1934年(昭和9年)5月には鳩山が文相として小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月25日に文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて翌26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した。瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、宮本英脩の6教授のみを免官としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。この結果、法学部教官は解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した中島玉吉、末広重雄、牧健二などの残留組と、辞表を撤回せず解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に恒藤恭および田村徳治の教授2名、大隅健一郎、大岩誠ら助教授5名、加古祐二郎ら専任講師以下8名が辞職という形で事件は決着した。同年、勲一等瑞宝章を受章。しかし、1月17日に『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会問題をあばく」を掲載し、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、昭和恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山や「番町会」(関東大震災の前頃に河合良成、岩倉具光、後藤圀彦が、懇意の郷誠之助男爵の番町の自宅を訪れ食事を共にする会として設立)という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。この一件を贈収賄疑惑と報じられ、文部大臣の鳩山は議会で関連を追及された。樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく、「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任した。1936年(昭和11年)2月20日の総選挙では、総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。1937年(昭和12年)、中島知久平、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任。鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島、前田、島田らと対立した。1939年(昭和14年)、政友会の分裂に伴い、正統派に所属。中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し、反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ、自由主義的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったため、やがて鳩山は久原とも対立した。1940年(昭和15年)、民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために久原から圧力をかけられる。1942年(昭和17年)、翼賛選挙に非推薦で出馬し、無所属で当選。しかし、1943年(昭和18年)の第81帝国議会で東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対。翼賛政治会を脱会した。その後は長野県軽井沢の別荘で隠遁。鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。軽井沢に引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。1945年(昭和20年)8月15日、軽井沢の石橋正二郎の別荘で玉音放送を聞き、翌16日には数年に及ぶ山荘生活に終止符を打って、東京へ帰った。9月15日付の朝日新聞東京版に、原子爆弾の投下は国際法違反の戦争犯罪であるという内容を含む談話を発表。GHQは朝日新聞に48時間の発行停止を命じた。1946年(昭和21年)の総選挙では日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等をGHQが問題視し、同年5月7日(GHQの処分決定は同年5月3日)に公職追放の処分を受けた。軍国主義台頭に協力した(統帥権や滝川事件)との理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったことが理由とされた。公職追放に際し、鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1951年(昭和26年)6月11日、自邸で自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる。同年8月6日、追放が解除。首相の座を目前にした追放や追放解除を目前にしての健康問題と、不運な状態が続いた鳩山は、世間の同情を集めることとなった。1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰。1953年(昭和28年)、友愛を標榜する友愛青年同志会が結成され、鳩山は会長に就任。10万人の会員を率いる会長として政財界で指導力を発揮した。鳩山の提唱する「友愛」は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitalian State against Man』(直訳: 全体主義国家対人間)を原点としており、元々同書はクーデンホーフ=カレルギーのアメリカ亡命を手助けした日本人外交官・米澤菊二に贈呈したものであったが、米沢の帰国後、本は早稲田大学教授・市村今朝蔵の手を経て鳩山に渡された。鳩山は「Fraternity」(フラタニティ。元のドイツ語はBrüderlichkeit ブリューダーリッヒカイト)を「友愛」と訳出し、『自由と人生』の邦題で洋々社から出版。鳩山は友愛の普及に努め、彼の孫の代に引き継がれるに至っている。その一方、政界においては、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、吉田との対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱。改進党と合流し、日本民主党を結党した。その後、貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、同年12月10日に第52代内閣総理大臣となった。これにより、首相としては初の地方議会議員経験者となった。吉田の後を受けて内閣総理大臣となった鳩山は、日本民主党だけでは衆議院で過半数に足りなかったため、前年の首班指名選挙では左右両社会党の支持をもって首班指名を受けた。その際の見返りとして、鳩山は左右社会党に対して早期解散の約束をしていた。1955年(昭和30年)1月24日、衆議院本会議では政府三演説に対する代表質問が行われて、社会党の長正路議員の質問に対し、まず鳩山・一万田尚登蔵相が答弁。次に石橋湛山通産相が登壇して答弁を始めたその時、松永東衆議院議長が突然「石橋湛山君、石橋湛山君……」と石橋の言葉をさえぎり、「石橋湛山通商産業大臣、しばらくお待ち下さい」と言葉を続けると、議場内は騒然となった。そして松永が「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします」と告げると、解散を今や遅しと待ちわびていた与党民主党と左右両社会党の議員たちの興奮は頂点に達した。松永は「日本国憲法第7条により、衆議院を解散する。御名御璽。」と朗読。 この瞬間、議場内は拍手と「万歳! 万歳!」の掛け声がこだました。新聞記者に「なぜこの日に」とたずねられた鳩山は、淡々と「天の声を聞いたからです。」と答えて記者たちをうならせた。鳩山民主党はその後の第27回総選挙でも単独過半数を制することができず、少数与党にとどまったが、この解散・総選挙を通じて巻き起こった「鳩山ブーム」は鳩山に政権浮揚に必要な「人気」を与えて余りあるものをもたらすことになった。同年11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成。これにより保守勢力と革新勢力を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し、7月8日の第4回参議院議員通常選挙では「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、再び鳩山ブームを起こした。鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。また、原子力基本法を成立させ、後の原子力発電時代の礎を築いた。1956年(昭和31年)、モスクワで日ソ共同宣言に調印。吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、日ソ共同宣言を批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた。鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。政界の第一線を退いた。その後、友愛青年同志会を育成しながら療養生活を送り、1959年(昭和34年)3月7日午前10時47分、狭心症のため東京都文京区音羽の自宅にて死去。享年77。衆議院議員在職のまま没した。没後、大勲位菊花大綬章が追贈された。


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自民党初代総裁を務め、55年体制が成立してから初の総理大臣となった鳩山一郎。「友愛精神」の政治理念を旗印に、総理大臣の座を巡って対立した吉田茂とともに戦後の日本を形成。その集大成として、日ソ国交の正常化を実現させた。息子も孫も同じ道を歩み、特に鳩山由紀夫は総理大臣を務めたが、現在のあの体たらくさを見て、草葉の陰から何を思っているのだろうか。鳩山一郎の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。四基ある墓のうち、一郎の墓は真ん中に鎮座しており、墓には「鳩山一郎 妻 薫」とある。

# by oku-taka | 2023-03-12 00:18 | 政治家・外交官 | Comments(0)

宮城道雄(1894~1956)

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宮城 道雄(みやぎ みちお)

作曲家・箏曲家
1894年(明治27年)〜1956年(昭和31年)

1894年(明治27年)、兵庫県神戸市三宮(現在の神戸市中央区)に生まれる。旧姓は、菅(すが)。父は神戸の外国人居留地の貿易商に勤めており、外国人居留地内で育つ。生後200日頃から眼病を患い、また4歳の頃には母と離別して祖母ミネのもとで育てられた。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることもあったが、この失明が転機ともなり音楽の道を志す。神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして西洋音楽の旋律を覚え、後の作風に大きな影響を与える。8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後、兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校のもとに師事し、11歳で免許皆伝となる。このとき、師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った。13歳の夏、一家の収入を支えるため、父の滞在する朝鮮の仁川へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けた。道雄は既習の曲の演奏だけでは満足せず新規の作曲も目指し、1909年(明治42年)には14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価された。伊藤は道雄を上京させて支援することを約したが、同年に伊藤が暗殺されたため、これは叶うことは無かった。1910年(明治43年)、朝鮮・京城(現在のソウル)へ渡って頭角を現す。1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚した後、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止。本名の宮城姓を名乗った。1914年(大正3年)、同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった。また、朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本の地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねて更なる研鑽に励み、1916年(大正5年)には最高位である “大検校” の称号を受けた。朝鮮箏曲界の第一人者として確固たる地位を築いていたが、1917年(大正6年)4月に晴風の招きにより上京。しかし、程なくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した。1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄の元へ入門した。一方、道雄は葛原しげる、高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)に本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会を開催。作曲家としての本格的なデビューを果たした。1920年(大正9年)5月、葛原の紹介により、箏の経験を持つ内田百閒が道雄に入門する。箏では弟子である百閒は文学面では逆に道雄の師となり、後に『雨の念仏』などの随筆により文筆家としても川端康成や佐藤春夫らから高く評価された。同年11月には東京の有楽座で本居長世とともに合同作品発表会を開催。この場で尺八演奏を担当した晴風が『新日本音楽大演奏会』と命名し、後に「新日本音楽」という邦楽と洋楽の結集による新しい日本音楽を創造することを目的とした活動になり、西洋音楽の理論や方法を導入することで邦・洋楽の融合を図った。この活動は、道雄、長世、晴風がその中心的な役割を果たし、開始されたばかりのラジオ放送や、レコード録音、初世中尾都山との演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の潮流に数多の影響を及ぼした。1921年(大正10年)、十七絃箏を生み出す。これを皮切りに、大胡弓、八十絃箏、短琴といった新しい邦楽器を次々と開発し、邦楽の革新に努めた。また、葛原と童謡運動の興隆に先駆けて、子どもの手ほどき曲として“童曲”という分野を開拓し。『春の雨』『分福茶釜』『ワンワンニャオニャオ』など生涯を通じて100曲を超える童曲を書いている。1925年(大正14年)、JOAKのラジオ試験放送初日に出演。以後、道雄は毎年の正月放送を筆頭に、海外との交歓放送や国際放送、初となる放送による箏曲の講習などを実施した。1928年(昭和3年)、近衛秀麿・直麿兄弟とともに作った『越天楽変奏曲』で箏とオーケストラの協奏曲を試み、高い評価を受ける。1929年(昭和4年)、箏と尺八の二重奏曲『春の海』を発表。同曲は翌年の歌会始の勅題「海辺巌」にちなんで制作されたもので、かつて道雄が瀬戸内海を船で巡った時の印象を基に、それに波の音や鳥の声、漁師の舟唄などを加えて作られた。 1932年(昭和7年)には来日したフランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメー(イタリア語版)が尺八部分をヴァイオリンに編曲して道雄との合奏がなされ、そのレコードは日本だけでなく米国やフランスでも発売され、国内外で絶賛された。この間、1930年(昭和5年)より東京音楽学校講師に赴任。1937年(昭和12年)には同校の教授となり、翌年には東京盲学校の講師も務めた。道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本も執筆。加えて、門人の指導をし後進の育成に努めた。さらに、劇伴制作または筝曲指導という形で映画にもかかわっており、1935年(昭和10年)には田中喜次の映画『かぐや姫』の音楽を手掛けたほか、1938年(昭和13年)には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきも行っている。1948年(昭和23年)8月、日本芸術院会員に選出。1950年(昭和25年)、第1回放送文化賞を受賞。1951年(昭和26年)3月、国内外の門人による「宮城会」が創設された。1953年(昭和28年)夏、フランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加し、最優等賞を受賞した。また、英国放送協会より『ロンドンの夜の雨』を放送初演した。1956年(昭和31年)6月25日、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車「銀河」に付き添いの内弟子・牧瀬喜代子と共に乗車。午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け、現場に向かった刈谷駅の職員に救助されて豊田病院(現在の刈谷豊田総合病院)へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる。道雄の死については、寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えたなどの推測や、一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、百閒が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知った時に、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという。実際に道雄は晩年(場慣れているはずの)自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故も経験しており(その後は義眼を入れていた)、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことを窺わせる。


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今や正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている『春の海』。正月になれば、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているこの曲を生み出したのが、箏の大家であった宮城道雄。大構成の合奏曲から童曲まで、その生涯で残した作品は400曲を超え、箏曲の伝統に根を下ろしながら洋楽を組み込んで新しい日本の音楽を創造した。また、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴、大胡弓などを発明し、邦楽の革新に力を尽くした。事故か自殺か未だはっきりしない形で世を去った宮城道雄の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。正面に「宮城道雄墓所」の碑が建ち、墓には「宮城家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。また、生誕百年を記念して建てたと見える「宮城道雄墓所」の背面に、簡単な略歴が刻まれている。戒名は「感奏院鴨誉最勝道雄居士」。

# by oku-taka | 2023-03-12 00:12 | 音楽家 | Comments(0)

渋沢敬三(1896~1963)

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渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう)

経済人・民俗学者
1896年(明治29年)〜1963年(昭和38年)

1896年(明治29年)、渋沢栄一の長男・篤二の長男として、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1909年(明治42年)、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1913年(大正2年)、渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を後継者に指名した。1914年(大正3年) 、後に民俗学者となる柳田國男と初めて出会う。これを機に、民俗学に傾倒するようになる。1915年(大正4年)4月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。同時期に、祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し、9月に同校へ入学する。1918年(大正7年)7月、第二高等学校を卒業。当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、 9月に東京帝国大学法科大学経済学科へ入学した。1921年(大正10年)、港区三田の自邸の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」 をつくる。その後、東京帝国大学経済学部(前々年の学部制導入時に法学部から分離独立)を卒業し、横浜正金銀行に入行。1922年(大正11年)にはロンドン支店に着任したが、1925年(大正14年)に栄一の体調がおもわしくなかったことから帰国。1926年(大正15年)、横浜正金銀行を退職し、栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任した。1931年(昭和6年)、栄一の死去にともない子爵を襲爵。1932年(昭和7年)、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』を刊行し、後に日本農学賞を受賞した。また、竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、こちらは戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折している。1934年(昭和9年)、日本民族学会を設立。理事となる。1937年(昭和12年)、保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミューゼアムの資料を移管する。1941年(昭和16年)、第一銀行副頭取に就任。1942年(昭和17年)、日本銀行副総裁に就任。1944年(昭和19年)、第16代日本銀行総裁に就任。1945年(昭和20年)3月17日、貴族院議員となる。戦後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。これに伴い、日本銀行総裁を辞任した。在任中は、預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。また、この頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋澤家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦、津島寿一、次田大三郎らとともに証人喚問された。1949年(昭和24年)、水産庁に水産資料館設置を進言。1951年(昭和26年)、公職追放解除となる。同年、経済団体連合会相談役に就任。1953年(昭和28年)、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD)の社長に就任。また、十和田科学博物館を開設。在日沖縄戦災校舎復興後援会の会長にも就任した。1955年(昭和30年)、渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』の刊行を開始。1956年(昭和31年)、財界が共同で設立した文化放送の会長に就任。また、KDD会長、日本モンキーセンター初代会長にも就任した。1957年(昭和32年)、外務省顧問に就任。移動大使として、中南米各国を歴訪した。また、日本電波塔株式会社設立時の取締役にも就任した。1960年(昭和35年)10月31日、熊本大学における第15回日本人類学会・日本民族学協会連合大会に出席して発病。11月7日、東京大学医学部附属病院に入院した。1961年(昭和36年)1月17日には回復して退院するも、2月に腎機能不全のため虎の門病院に入院。療養生活を送りながらも、東洋大学の理事に就任し、小川原湖民俗博物館を開設した。1963年(昭和38年)、朝日賞を受賞。5月、文部部省史料館に寄贈した民俗資料の収蔵庫が落成し、その式典に出席。6月には東洋大学の名誉文学博士号を授与。その贈呈式にも出席したが、8月18日に病状が悪化し、虎の門病院に再入院。10月25日午後9時30分、糖尿病と萎縮腎の併発のため死去。享年67。没後、勲一等瑞宝章を追贈された。


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昨年、大河ドラマでその生涯が描かれ、大いに話題となった渋沢栄一。その栄一から若くして後継者に懇請され、経済界に身を投じたのが孫の渋沢敬三である。経済人として、日銀総裁や大蔵大臣を務め、戦中戦後の混乱期における日本経済の重責を担った。その一方で、民俗学に傾倒し、自ら漁業史を研究するなど文化活動にも尽力。庶民資料館の開設や学術団体の支援、そして多くの民俗学者を育て、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎らに援助を行った。「日本近代資本主義の父」の後継者として数多の役職を務め、日本の経済界に多くの貢献をしながらも、夢であった動物学者への道を諦めざるを得なかった自分への癒しなのか、研究者たちの調査研究費用、刊行物の出版費用などの莫大な金額を次々にポケットマネーから注ぎ込んだ渋沢敬三。自らを「得たいの知れない男である」と語った男の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。長らく渋沢家の墓域は塀に囲われていたが、2020年(令和2年)に公園として整地され、その際に合祀墓へ納骨されていた敬三は個人墓として独立し、栄一の墓と栄一の先妻・千代の墓の間に建立された。墓には「渋澤敬三 渋澤登喜子之墓」とあり、洋型の新しい合祀墓の右側に墓誌が建つ。戒名は「謙徳院殿慈岳敬道大居士」。

# by oku-taka | 2023-02-26 21:45 | 経済・技術者 | Comments(0)

中嶋弘子(1926~2021)

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中嶋 弘子(なかじま ひろこ)

ファッションデザイナー
1926年(大正15年)〜2021年(令和2年)

1926年(大正15年)、東京都に生まれる。終戦後、フランスで服飾について学び、日本に帰国後ファッションデザイナーとして働き始める。NHKのテレビ番組にも専門家として出演し、そこでディレクターの末盛憲彦の目に留まり、1959年(昭和34年)に放送作家の永六輔と作曲家の中村八大が手がけたNHKのバラエティー番組『午後のおしゃべり』の司会に抜擢される。この番組は、若い主婦層を対象にした午後のバラエティー番組として、「お見合」「結婚」「挨拶」 「編物」「やせる方法」など、女性にとって身近な話題をテーマに選び、歌と踊りとコントでつづった。特に、中島のテレビ慣れしていないたどたどしさと、頭を前ではなく右横にかしげてお辞儀する独特の仕草が上品であると人気となった。中島を司会にすることを強く推薦した永六輔は、後年当時を回想し「素人で、司会をやる気もない人のほうがかえってテレビに向いていると考えていたこと、またファッションデザイナーということでテレビ用の衣裳に困らないという思惑もあった」ことを語っている。1961年(昭和36年)、『午後のおしゃべり』と同じスタッフで立ち上げた歌と踊りと笑いでつづる本格バラエティー『夢であいましょう』でも司会を担当。「皆様こんばんは。中島弘子です」の小首をかしげる挨拶は一世を風靡した。1962年(昭和37年)、夫と協議離婚。このとき、「被告は『中島』の姓を称号使用してはならない」となったことから、中嶋弘子と改名する。1965年(昭和40年)、元国税庁長官で日本専売公社の総裁を務めていた阪田泰二と再婚。これを機に『夢であいましょう』を3月で降板した。以降はファッションデザイナーとして活躍し、有楽町ビルに「中嶋弘子ブティック」を開いた。また、1970年(昭和45年)からスタートしたNHKの若者向け音楽番組『ステージ101』の衣装を担当した。1977年(昭和52年)、阪田弘子名義で「阪田泰二の絵と文」を出版。ファッションデザイナーとしては80歳まで現役として活躍し、2021年(令和2年)7月18日、老衰のため東京都内の病院で死去。享年95。


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バラエティー『夢であいましょう』の司会者として、「皆様こんばんは。中嶋弘子です」の小首をかしげる挨拶で一世を風靡した中嶋弘子。本業がデザイナーの彼女にとって、テレビの仕事は不慣れなものだったが、そのたどたどしさと、頭を前ではなく横に傾げる気品さが視聴者に受けた。この番組の放送作家だった永六輔は、「あの人はいつまでたっても上手にならないでしょう」と語っていたが、芸達者な出演者たちといつまでも素人っぽさが抜けなかった中嶋弘子というコントラストが大変良かったように思う。番組降板後はファッションの世界に戻り、時折りテレビに出演しては当時の思い出を語るなどしていたが、2006年(平成18年)に放送された『思い出のメロディー』が最後に見た姿となった。その後は一切表舞台に出ることはなく、ひっそりと96歳の大往生を遂げた中嶋弘子の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。洋型の墓には「阪田泰ニ」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「蓮雅院峯月弘源大姉」。

# by oku-taka | 2023-02-26 21:33 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)