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高野公男(1930~1956)

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高野 公男(たかの きみお)

作詞家
1930年(昭和5年)〜1956年(昭和31年)

1930年(昭和5年)、茨城県西茨城郡北山内村(現在の笠間市大郷戸)に生まれる。本名は、高野 吉郎(たかの きちろう)。小学生の頃から本が好きで、文章を書くことも好きな少年だった。西茨城郡北山内尋常高等小学校を卒業後、上京して軍需工場で働く。その後、小松川工業高校、向島工業高校を経て東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学し、詩作の道に入る。1949年(昭和24年)、栃木県出身で後に作曲家となる船村徹と出会う。同じ訛りの北関東出身者同志ということで意気投合し、高野の詞に船村が曲を付け、レコード会社に売り込みに行く日々を送る。しかし、なかなか採用されず、互いにアルバイトをしながら苦しい日々を何年も続けた。1954年(昭和29年)、ビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたが、これといったヒット曲を出せず、鳴かず飛ばずの状態が続いた。もう後がないと思い、いくつかの曲を売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、1955年(昭和30年)に春日の歌唱による『別れの一本杉』が発表される。この曲は当時50万枚のセールスを記録し、船村徹と高野公男の活動も本格化。続けて手がけた『あの娘が泣いてる波止場』(三橋美智也)、『ハンドル人生』(若原一郎)もヒットとなった。しかし、間もなく肺結核を発症して国立水戸病院に入院。船村は治療費を稼ぐため精力的に仕事をし、忙しい仕事の合間を縫って水戸の病院へ高野を見舞った。1956年(昭和31年)、コロムビアレコードから招かれた船村は、「高野と二人揃って」というのを条件に専属を承諾。8月には、コロムビア入社第1作『早く帰ってコ』(青木光一)を発表した。9月8日、肺結核のため国立水戸病院で死去。享年26。枕元にはびっしり書き込んだ3冊の作詞ノートが遺され、この作詞ノートは高野の母から船村に託された。船村は作品として世に出していくことを誓い、『男の友情』(青木光一)、『三味線マドロス』(美空ひばり)など、多くの作品がレコードになった。


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高度経済成長の時代、集団就職などで都会に出てきた若者たちの心を捉えたのが「ふるさと歌謡」と呼ばれた一連のヒット曲たち。その礎を築いたのが、作詞家の高野公男と作曲家の船村徹コンビであった。多くの人が地方から都市へと移り住んでいた時代、高野青年は酔うと船村に「いずれ田舎の時代が来る」と語っていたそうである。その言葉通り、都会に出る者と田舎に残る者の感情を歌へと昇華させ、歌謡界に「ふるさと歌謡」の時代を到来させた。しかし、高野は肺結核に侵され、その時代を見ることなく26歳で夭折してしまった。残された相棒の船村は、「おれは茨城弁で作詞する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ」という高野の言葉を胸に活動を続け、文化勲章を受章するまでの大作曲家となった。「故郷」にこだわり続けた高野公男の墓は、茨城県笠間市の大郷戸集落墓地にある。五輪塔型の墓には「髙野公男之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。右側には、船村徹による献歌『友よ』の詞が刻まれた碑、そして墓域入口には、髙野の略歴が刻まれた「髙野公男(吉郎)の譜」と「別れの一本杉 髙野公男作詞」の碑が建つ。高野から船村に贈られた『男の友情』、船村から高野に贈られた『友よ』。終生変わらぬ友情を結んだ2人は今、あの世で61年ぶりの再会を果たしていることだろう。

# by oku-taka | 2024-04-08 00:32 | 音楽家 | Comments(0)

正岡容(1904~1958)

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正岡 容(まさおか いるる)

芸能研究家
1904年(明治37年)〜1958年(昭和33年)

1904年(明治37年)、東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。出生名は、平井 蓉 。3歳の時、浅草花川戸の大叔父にあずけられ、1910年(明治43年)12月27日にそのまま正岡家の養子となる。京華中学校在学中、短歌を吉井勇、戯曲を久保田万太郎、川柳を阪井久良伎に学び、それぞれの弟子を自称する。1922年(大正11年) 、日本大学芸術科選科に入学。同年、歌集『新堀端』、小説紀行集『東海道宿場しぐれ』を発表。1923年(大正12年)、『文藝春秋』に発表した小説『江戸再来記』が芥川龍之介に絶賛されたのを機に文筆活動に入り、大学は中退する。8月、『東邦芸術』の同人となる。9月、関東大震災に遭遇し、関西に放浪の旅へ出る。1925年(大正14年)秋、三代目三遊亭圓馬夫妻の紹介で石橋幸子と結婚し、大阪市に居住。圓馬に師事して「文士落語」「漫談」で各所に出演し、大正末から昭和初期にかけては落語をレコードに吹き込んだ。文筆でも『新小説』に「明治開花期の落語について」を発表するなど執筆量も増加した。また、北村兼子とともに掛け合い漫談をレコードに吹きこんだ。私生活では、酒癖と女性遍歴に悪評があり、大阪毎日新聞の記者だった真杉静枝と心中未遂事件を起こしたり、自身が吹き込んだ落語レコードを愛好していた大阪の女給を一時妻にしたりと破滅型の暮らしを送った。1929年(昭和4年)、大阪で知った女性と小田原に移住。翌年、名古屋で「文芸落語発表会」を開催。この頃、まだ次郎時代の二代目玉川勝太郎に「蛇園村の切込」(『天保水滸伝』)の台本を提供。以後、勝太郎とは二人会を開くなど、親交を深める。1931年(昭和6年)、東京市滝野川区西ケ原に移転。1933年(昭和8年)、名を蓉から容に改める。1935年(昭和10年)、西尾チカと結婚し、小岩で所帯を持つ。この年、小島政二郎に入門して小説を再修業。1937年(昭和12年)、勝太郎に「平手造酒の最後」「笹川の花会」(『天保水滸伝』)などの台本を提供。「利根の川風袂に入れて」で始まる外題付けは勝太郎の名調子もあって全国津々浦々に広まった。このほか、初代相模太郎に『灰神楽三太郎』の台本を提供したのをはじめ、複数の台本を提供している。1941年(昭和16年)、舞踏家の花園歌子と結婚し、大塚巣鴨に転居。太平洋戦争の直前、雑誌『日の出』に発表した『圓太郎馬車』が古川緑波主演により映画化、東京有楽座で上演される。1941年(昭和16年)、小説『置土産』が直木賞候補にあげられる。その後も、芸能小説『寄席』、『円朝』などの小説や、江戸期の戯作本の研究、明治大正期の寄席芸能に関する論文やエッセイ、自作の落語の台本を精力的に発表する。1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅が全焼し、11月に阪井久良伎の紹介で市川市に移住。戦後は太平洋戦争中から書き始めた演芸に関する随筆・評論でその方面の権威者となった。その一方、寄席の世界に没入し、一時コロムビア・レコード文芸部で浪曲を担当した。1958年(昭和33年)12月7日、頚動脈破裂のため慶應義塾大学病院で死去。享年53。


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寄席と芸人を愛し、若い時分から親しんだ経験を基にして大衆芸能の啓蒙に努めた正岡容。落語・浪曲・講談などの創作・研究活動を多く行い、著述や研究会などで寄席文化を精力的に紹介。その活動は高く評価され、晩年には無名時代の三代目桂米朝、小沢昭一、加藤武、大西信行といった寄席好きの若人が門弟となった。特に、多くの芸能評論家が評価しなかった芸人や作品も愛し、上方落語を東京へ紹介したり、当時邪道とされていた初代桂春團治の芸を自著『初代桂春團治研究』でいち早く評価するなど、寄席芸への功績は計り知れない。その一方、酒癖が悪く、女性遍歴を重ね、知人との絶交と弟子への破門を繰り返したことから「奇人」と見られ、文壇では孤立した存在だったという。破滅的な性格ながらも、ひたすらに寄席芸を愛し続けた正岡容の墓は、茨城県常総市の谷和原御廟にある。もともとは東京都台東区の玉林寺にあったが、数年前にこちらへ改葬された。樹木葬に埋葬された墓地には「正岡容」と刻まれた墓石がある。戒名は「嘯風院文彩容堂居士」。

# by oku-taka | 2024-04-01 02:35 | 評論家・運動家 | Comments(0)

村下孝蔵(1953~1999)

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村下 孝蔵(むらした こうぞう)

シンガーソングライター
1953年(昭和28年)〜1999年(平成11年)

1953年(昭和28年)、熊本県水俣市浜町仲之町通りに生まれる。1959年(昭和34年)、一家で鹿児島県出水市本町商店街に転居したが、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻る。この頃、姉とともにロカビリーに夢中となり、日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にするようになる。また、エレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがてベンチャーズに夢中となった。1965年(昭和40年)、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキ・ギターも持つ」と言うようになる。かねてから両親にエレキ・ギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで、加山のギターをモデルにラワン材を使って1ヵ月がかりでギターを自作。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという。中学の2年生のとき、父から「ベンチャーズの曲をちゃんと弾けたらギターを買ってやる」と条件を出され、友だちのギターを借りて猛練習し、「ダイアモンド・ヘッド」を父の前で演奏。結果、日本製のグヤトーンのエレキ・ギターを買い与えられた。1969年(昭和44年)、憧れだったモズライト・ギターを父から買い与えられる。その後、阿蘇市に転居。小学校4年のときに『海の若大将』を観て感動し、中学時代から競泳の平泳ぎの選手として活躍。オリンピックを目指し、水泳部の特待生として鎮西高等学校体育科に入学。寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した。1971年(昭和46年)、鎮西高等学校を卒業。大学進学を諦め、得意の水泳でスカウトされた実業団・新日本製鐵八幡製鐵所に入社する。しかし、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたが、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められて入部。宴会部長として活躍するが、ハワイアンが自身の音楽志向に合わず、同年9月に退職。当時父が広島市に転居していたことから、村下も広島フォーク村がありフォークの聖地とも言われていた広島に移り、音楽中心の生活を目指す。1972年(昭和47年)、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入学。当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォーク・ギターを持たなければ仲間が作れなかったことから、エレキ・ギターをフォーク・ギターに持ち替え、学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成する。同年夏、自主制作シングル『ひとりぽっちの雨の中』を発表。日本デザイナー学院広島校を卒業後、ヤマハ広島店に就職。1975年(昭和50年)からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。その後、偶然観た村下の演奏に惹かれた中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターが、『たむたむたいむ』のラジオパーソナリティに村下を推薦。同番組で当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む。1978年(昭和53年)には那須が担当していた全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼ぶ。1979年(昭和54年)、ラジオ番組『ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局』の音楽コーナーを担当。プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励む。同年、ヤマハを退社。7月25日、自費制作アルバム 『それぞれの風』を発表。この頃には第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていたが、『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募するも受賞はならなかった。その後、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBS・ソニー(現在のソニー・ミュージック)の全国オーディション「第1回CBS・ソニーSDオーディション」に応募。CBS・ソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップのアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBS・ソニー社内でも意見が分かれた。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた当時のディレクター・須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声の良さは誰もが認めるところで、須藤の押しや、中国放送がバックアップしていたこともあり、グランプリを獲得。1980年(昭和55年)5月21日、シングル 『月あかり』でプロデビューした。プロとなった後もテレビ出演はせず、広島を拠点にライブ活動を地道に続ける。1981年(昭和56年)1月にリリースされた2枚目シングル『春雨』は、地道なプロモーションを重ねてチャート最高位58位を記録し、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクインした。1982年(昭和57年)発売の『ゆうこ』は、北海道札幌の有線で火がついて全国的ヒットになり、チャート最高位23位を記録。約7か月半にわたってチャートインした。1983年(昭和58年)、シングル『初恋』がオリコンチャートで最高3位を記録する大ヒット。同曲はリリース直後にアイドルの三田寛子とプロ野球選手の田尾安志によりCMでもカバーされ、知名度を高めるきっかけとなった。この曲の発売の前後に全国キャンペーンなどのハードスケジュールが原因で肝炎を患い、多くのイベント、番組出演などをキャンセル。これが原因で広島と東京の往復ができなくなり、1984年(昭和59年)末に生活の拠点を東京に移した。その後も『踊り子』、『少女』と立て続けにヒット曲を飛ばし、同年秋からは全国ツアーを開始した。しかし、1985年(昭和60年)に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。1987年(昭和62年)、全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。同年9月、シングル『陽だまり』が『めぞん一刻』の主題歌の一つとして起用される。その後もコンスタントにシングルやアルバムを発表するとともに、高田みづえ、裕木奈江、柳葉敏郎、中原理恵らに曲を提供。また、バイオリニストの天満敦子とジョイントコンサートを行い、クラシックとポピュラー音楽との融合を図るなど、新しい領域にも積極的に挑戦した。1999年(平成11年)6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に「気分が悪い」と体調不良を訴える。当初は救急車も呼ばず、スタッフ付添のもと自力で虎ノ門病院を訪れていたが、診察でCTの装置に入った時点で意識不明の昏睡状態に陥った。診察の結果「高血圧性脳内出血」と判明し、医師の所見では、当初1週間ほどで回復して日常に戻れると言われていた。その後、脳内出血が再発し、6月24日に死去。享年46。


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歌う吟遊詩人・村下孝蔵。どこか儚い旋律と美しい日本語の歌詞で評価され、抒情派フォークの流れを汲むシンガーソングライターとして支持を集めた。しかし、その哀愁を帯びたメロディーと素朴な歌声は、フォークからニューミュージックに流行が移った当時の音楽界にはあまりマッチせず、大きなヒットは『初恋』と『踊り子』のみとなってしまった。『冬物語』『青い嵐』『私一人』といった名曲もあり、他のアーティストに曲を提供することもあったが、いずれもヒットには至らなかったのは残念であった。高い音楽性で切なさの極みを歌い続けた村下孝蔵の墓は、茨城県筑波市の筑波茎崎霊園にある。墓には「南妙法蓮華経」とあり、左側には墓誌とレコード会社関係者から寄せられたメッセージが刻まれた碑が、右側に村下を模した「ギター地蔵」と村下の略歴が刻まれた碑が建つ。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」。

# by oku-taka | 2024-03-24 14:02 | 音楽家 | Comments(0)

高柳健次郎(1899~1990)

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高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう)

科学者
1899年(明治32年)〜1990年(平成2年)

1899年(明治32年)、静岡県浜名郡和田村(現在の静岡県浜松市中央区安新町)に生まれる。尋常小学校時代、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモンストレーションに感銘を受ける。13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知り、通信に興味を抱くようになる。その後、静岡師範学校を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所に入学。在学中は初代の東京工業大学学長となる中村幸之助氏の薫陶を受ける。1921年(大正10年)、同校を卒業。神奈川県立工業学校(現在の神奈川県立神奈川工業高等学校)の教諭を勤めながら、米英独仏4ヵ国の専門誌を数誌ずつ3年分購読予約し、ドイツ語やフランス語を夜学で勉強。電気通信の分野において情報収集に勤しむ。この頃、アメリカのウェスチングハウス(Westinghouse Electric Corporation)がピッツバーグでラジオ局を開局し、多くの人に音楽や会話を同時に聞かせる「放送」が行われていた。これを受け高柳は、「遠くに映像を送る手段を発明できないか」と案を練っていたところ、ラジオ受信機の上に額縁のようなものが乗り、中で女性歌手が歌っている「テレビジョン」という構想が、フランスの専門誌にイラストで示されているのを発見。この「テレビジョン」の発明を決意し、1923年(大正12年)には「無線遠視法」として提唱した。しかし、1924年(大正13年)9月1日の関東大震災で神奈川県立工業学校が被災。そのため、1924年(大正13年)に郷里の浜松にできたばかりの浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)に助教授として着任した。並行して「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始。しかし、予算の凍結によって一度は頓挫。そこで、芝浦製作所(現在の東芝)に交渉し、実験の協力を依頼。1926年(大正15年)12月25日、石英版に書いた「イ」の字の映像を機械式の円形撮像装置で読み取って、電子式のブラウン管に送り、映像を映し出すことに成功。。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。1927年(昭和2年)、文部省の自然科学研究奨励費の対象となり、同年6月には特許権を取得。同年11月28日、電気学会主催の発表会が開かれ、無線による映像の送受信を実演した。1930年(昭和5年)、静岡を訪れていた昭和天皇の御前で、より鮮明な映像をブラウン管に映し出す実験に成功。これを機会に浜松高等工業学校の教授に昇格し、「テレビジョン研究施設」としての子算計上、大勢の研究貝を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現した。当時、テレビの開発は世界各地で同時に行われており、その方式は大きく分けて機械式と電子式の2つがあった。機械式は円形板に渦巻き状に小さな穴をたくさん開けて回転させた映像をコマ送りで送り、同じように穴を開けた円形版を通して映像を映し出す方式で、こちらの方が先行していたが、高柳は巨大な真空管=ブラウン管を使って映像を再生する電子式の方に将来があると確信。電子式の撮像管作りに苦闘する高柳は、同時期にテレビの開発を進めていた米国RCA社(Radio Corporation of America)のツヴォルキン(Vladimir Koz'mich Zworykin)と連絡をとって渡米。ツヴォルキンが考案した電子式の撮像管アイコノスコープは圧倒的に綺麗な映像を送ることができ、開発予算もケタ違いであることに驚嘆。これを受け、高柳はオリジナルのアイコノスコープを開発した。1937年(昭和12年)、浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。研究室では東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが、日中戦争の激化等で1938年(昭和13年)に東京オリンピックの中止が決定。テレビの研究も中断させられ、レーダーや奮龍の誘導装置など、軍事関連の研究をすることになった。終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するが、GHQの指令によりテレビの研究を禁止させられる。また、軍属だったことが災いとなり、公職追放となった。1946年(昭和21年)、日本ビクターに弟子と共に入社。自身が中心となり、NHK、シャープ、東芝と共同で再びテレビ開発に没頭する。同年、産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織された「テレビジョン同好会」の委員長に就任。同学会はその後文部省認可の社団法人「テレビジョン学会」(後の映像情報メディア学会)に改組された。1952年(昭和27年)、日本のテレビ放送標準式の検討で、カラー化を視野に入れた周波数7メガへルツ幅の採用を主張。しかし、郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案準拠を主張し、結局アメリカ技術が優秀との先入観と早期事業化への便宜を優先した「6メガ派」が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となる。1953年(昭和28年)1月、シャープから国産第1号の白黒テレビが発売。 同年2月に日本放送協会(NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は富裕層がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網(日本テレビ・日テレ)が広告料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で街頭テレビを設置。当時の看板番組で、力道山戦などのプロレス中継、巨人戦が主のプロ野球中継、大相撲中継などのスポーツ中継に人が集まり、喫茶店や銭湯などにも家庭用テレビが業務用途に設置する動きも見られるようになった。1959年(昭和34年)には皇太子明仁親王の成婚パレードが中継され、これを境にテレビの普及が進んだ。1950年代後半から1960年代初頭までには、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようになった。一方の高柳は、1955年(昭和30年)4月に紫綬褒章を受章。1956年(昭和31年) 12月にはNHKでカラーテレビの実験放送が開始。以降はカラーテレビ改良に尽くし、1959年(昭和34年)に世界初の 2ヘッドVTRを開発。翌年には放送用2ヘッドカラーVTRも開発。日本のカラーテレビを世界最高水準のレベルに高め、代表的輸出商品としての急成長に貢献した。1961年(昭和36年)5月、国際無線通連合(ITU)第1回世界TV祭でRCAのサーノフとともに功労者表彰を受ける。同年11月、日本ビクター専務取締役に就任。1963年(昭和38年)4月、世界最小VTR「KV200」を開発。1970年(昭和45年)11月、日本ビクター代表取締役副社長に就任。1973年(昭和48年)11月、日本ビクター技術最高顧問に就任。1974年(昭和49年)2月、科学放送振興協会理事長に就任。1974年(昭和49年)11月、勲二等瑞宝章を受章。1980年(昭和55年)11月3日、文化功労者に選出。1981年(昭和56年)11月3日、文化勲章を受章。1984年(昭和59年)10月、高柳記念電子科学技術振興財団を設立し、理事長に就任。電子科学技術の振興のため、高柳健次郎賞、高柳健次郎業績賞、研究奨励賞、科学放送高柳賞を制定した。1987年(昭和62年)7月、米国アラバマ州立大学の名誉教授となる。1988年(昭和63年)10月、米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に推挙。1988年(昭和63年)11月、静岡大学の名誉博士を与えられる。1989年(平成元年)4月、勲一等瑞宝章を受章。1990年(平成2年)7月23日、肺炎により死去。享年91。


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今や一家に一台が当たり前となったテレビを生み出し、「テレビの父」と称された高柳健次郎。テレビはおろかラジオも開局していなかった頃から「テレビジョン」の研究に力を注いできた。世界で初めてブラウン管に映し出したかの有名な「イ」の字は、大正時代に行った実験の結果というから驚かされる。世界で最初にテレビジョンの開発に成功という偉業を成し遂げながらも決して威張らず、その温厚さと穏やかな話し方が印象的であった高柳健次郎の墓は、静岡県浜松市の妙恩寺にある。五輪塔の墓には「高柳家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「暁覺院創造興谷日健人居士」。

# by oku-taka | 2024-03-17 11:01 | 学者・教育家 | Comments(0)

藤田まさと(1908~1982)

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藤田 まさと(ふじた まさと)

作詞家
1908年(明治41年)〜1982年(昭和57年)

1908年(明治41年)、静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。本名は、藤田 正人。1918年(大正7年)、小学校3年を修了と同時に旧満州の遼寧省大連へ渡り、私塾「振東学社」に入る。その後、大連商業学校に進学。在学中は柔道・野球を得意とし、中等野球全国大会「甲子園」にも出場した。1926年(大正15年)、大連商業学校を卒業。内地に戻り、明治大学に入学したが、1928年(昭和3年)に3年生で大学を中退。「野球」が縁で日本ポリドール蓄音機株式会社に入社し、文芸部に配属。外国解説文の翻訳にあたる。1929年(昭和4年)、社長命令で『ウエートレスの唄』(四家文子)を書き、創作活動にはいる。1930年(昭和5年)、処女詩集『太陽が雲の中で苦笑した話』を出版。1933年(昭和8年)、小唄集「ボクの街」を出版。1935年(昭和10年)、制作課長に就任。同年、『旅笠道中』(東海林太郎)、『大江戸出世小唄』(高田浩吉)、『明治一代女』(新橋喜代三)と手がけた曲が次々に大ヒットとなり、一躍人気作詞家となる。1936年(昭和11年)、文芸部制作部長兼専属芸術室長に就任。1938年(昭和13年)、文芸顧問兼専属作詩家となり、11月には『麦と兵隊』(東海林太郎)を発表。1940年(昭和15年)、戦争詩集『征旅の人々』を出版。1941年(昭和16年)、東海林太郎、作曲家の長津義司とともにテイチク専属となるが、1944年(昭和19年)に退社。1946年(昭和21年)、東京タイムズの運動部嘱託記者となる。親友・サトウハチローの「『リンゴの唄』が大ヒットしても作家がむくわれないのは不合理だ」との話から大日本音楽著作権協会常務理事に就任し、著作権問題と対峙する。同年、再度テイチクの専属となるが、1947年(昭和22年)に退社し、ポリドールにカムバックした。同年、日本音楽著作衆組合を結成し、古賀政男とともに副委員長となる。1951年(昭和26年)、マーキュリーに移籍。また、旧著作権法第30条1項8号の撤廃運動に着手する。1953年(昭和28年)、三たびテイチクに移籍。1954年(昭和29年)、第二次世界大戦後、ソ連による抑留からの引揚船で、引揚港の桟橋へ帰ってくる息子の帰りを待つ端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じて『岸壁の母』を作詞。歌手には専属の菊池章子が選ばれ、藤田にとって久々の大ヒットとなった。その後も『親子舟唄』(田端義夫・白鳥みづえ)、『面影いずこ』(白根一男)などのヒットを手がけたが、1956年(昭和31年)に日本グラモフォンへ移籍。1959年(昭和34年)、再びテイチクに移籍。翌年、『お吉物語』(天津羽衣)を手がけて大ヒットとなる。1969年(昭和44年)、紫綬褒章を受章。1970年(昭和45年)、念願であった著作権法案が国会において可決し、翌年1月1日から「新著作権法」が施行。1973年(昭和48年)には日本音楽著作家連合会の会長に就任した。1978年(昭和53年)、勲三等瑞宝章を受章。1979年(昭和54年)、71歳で自分のレコードを出し、歌手としてもデビュー。1982年(昭和57年)8月16日、心不全のため東京・池上の島田総合病院にて死去。享年74。没後、作詞した『浪花節だよ人生は』が大ヒット。もともと小野由紀子のシングルのB面曲として発表されたが、この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという二代目木村友衛が生前の藤田に直訴。地道なキャンペーンの努力が実り、徐々に人気を獲得。これを受けて歌手16人、レコード会社13社による競作としてレコードが制作され、1984年(昭和59年)にその人気は最高潮に達した。同年大晦日の第26回日本レコード大賞では細川たかしが最優秀歌唱賞、木村が特別賞を受賞し、同日の第35回NHK紅白歌合戦では水前寺清子と細川による同曲対決が行われた。


藤田まさと(1908~1982)_f0368298_23274299.jpg

戦前から戦後にかけ、多くのヒット曲を生み出した作詞家の藤田まさと。戦前はポリドールの専属作詞家として、東海林太郎、新橋喜代三、上原敏といった歌手をスターに押し上げるとともに、「股旅もの」という新たなジャンルを確立した。また、映画俳優であった高田浩吉の美声を活かし、日本初の歌う映画スター誕生に貢献したことは特筆すべき点である。戦後は人の生き様をそれまで以上に描き、『岸壁の母』『傷だらけの人生』といった歌謡史に残る大ヒット作を世に送り出した。50年以上にのぼる作詞家生活において、各年代で大きなヒット曲を持ち、かつ没後にも手がけた曲が大ヒットとなるという、非常に稀有な作詞家であった藤田まさとの墓は、静岡県牧之原市の照国寺にある。墓には「藤田家の墓」とあり、訪問時にはなかったが近年になって左側に墓誌も建立された。戒名は「大光院壽德正詠居士」。

# by oku-taka | 2024-03-12 23:29 | 音楽家 | Comments(0)