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小川国夫(1927~2008)

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小川 国夫(おがわ くにお)

作家
1927年(昭和2年)〜2008年(平成20年)

1927年(昭和2年)、静岡県志太郡藤枝町長楽寺(現在の藤枝市本町)に生まれる。1934年(昭和9年)、青島小学校に入学。1938年(昭和13年)、肺結核に腹膜炎を併発し入院。3ヶ月後に自宅療養となり、1941年(昭和16年)に復学するまで安静療養状態が続いた。この自宅療養の時期に相当量の読書をしたことが、その後の人生に影響を与えることになる。1942年(昭和17年)、旧制志太中学校(現在の藤枝東高等学校)に入学。学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通う。1946年(昭和21年)、旧制静岡高等学校(静岡大学の前身校の1つ)文科乙類に入学。この頃、カトリックの洗礼を受ける。洗礼名は、アウグスチノ。1950年(昭和25年)、東京大学文学部国文科に入学。1953年(昭和28年)、「東海のほとり」を『近代文学』に発表。同年10月にはフランスへわたりパリ・ソルボンヌ大学に3年間私費留学。1954年(昭和29年)7月、グルノーブル大学へ移籍。スペイン、北アフリカへ、単車のヴェスパで旅行する。同年12月、スイスへ旅行し、フライブルクの修道院に24日間滞在。1955年(昭和30年)7月、イタリア、同年9月ギリシアへそれぞれ40日間の単車ヴェスパにて旅行。10月下旬にパリへ出て滞在。1956年(昭和31年)3月からドイツ、オーストラリア、イギリスを旅行する。同年7月、フランス留学を終えて帰国。東京大学には復学せず、そのまま創作活動に入る。1957年(昭和32年)、丹羽正、金子博等と共に同人雑誌『青銅時代』を創刊。第1号に「アポロンの島」と8つの短編を発表する。1957年(昭和32年)10月、ヨーロッパを放浪した体験を自伝風に描いた『アポロンの島』を私家版で刊行。全く売れずにいたところ、1965年(昭和40年)6月に同作を唯一買った島尾敏雄が突然小川家を訪問。同年9月5日の『朝日新聞』「1冊の本」欄で、『アポロンの島』を島尾が激賞する。これが契機となり、1966年(昭和41年)から商業雑誌に登場。1969年(昭和44年)、『ゲヘナ港』が芥川賞候補にされるが辞退。その後、『或る聖書』、『試みの岸』、『彼の故郷』など、簡潔な文体で光と影の原初的光景の中に人間の行為を映し出した作品を発表し、内向の世代を代表する作家となった。1986年(昭和61年)、『逸民』で川端康成文学賞を受賞。1990年(平成2年)4月、大阪芸術大学文芸学科の教授に就任。平家物語、芭蕉、芥川などを講じる。後に創作演習ゼミ、卒業制作ゼミを担当し、学生に小説の書き方を教える傍ら、同大学発行の文芸雑誌『河南文学』『河南文藝文学篇』の編集人を務めた。1994年(平成6年)、『悲しみの港』で伊藤整文学賞を受賞。1999年(平成11年)、『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞を受賞。2000年(平成12年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院会員に選出。2006年、旭日中綬章を受章。2008年(平成20年)4月8日、静岡市内の病院で肺炎のため死去。享年80。


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「内向の世代」を代表する作家の一人、小川国夫。30歳の時に自費出版した『アポロンの島』は一冊も売れず、その8年後に島尾敏雄から絶賛され、突如として文壇に登場。以降、非現実や抽象に基づくイメージを簡潔な文体で描き、郷里の静岡県や地中海を舞台にした作品やキリスト教を主題とする作品を発表し続けた。若い頃は賞嫌いとして知られ、晩年まで静岡県からは離れなかったことなど、目立つ活動から距離を置いていた寡黙な作家・小川国夫の墓は、静岡県島田市の敬信寺にある。3基ある墓のうち、小川国夫が納骨されている墓には「南無阿弥陀仏」とあり、左側に墓誌が建つ。なお、20歳でカトリックの洗礼を受けていることから戒名はなく、洗礼名アウグスチノも刻まれていない。

# by oku-taka | 2024-03-03 11:50 | 文学者 | Comments(0)

村田英雄(1929~2002)

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村田 英雄(むらた ひでお)

歌手
1929年(昭和4年)〜2002年(平成14年)

1929年(昭和4年)、浪曲師の広沢仙遊と曲師の子として、福岡県浮羽郡吉井町(現在のうきは市)に生まれる。本名は、梶山 勇。生後まもなく母の姉弟子の養子となり、その養母が浪曲師の浪花綱若と結婚したことに伴い、佐賀県東松浦郡相知町(現在の唐津市)へ引っ越す。4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり、巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』で初舞台を踏む。その後、当時大人気だった浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となって大阪・道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入り。当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し、修行を開始する。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらう。13歳で真打に昇進。14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、“天才少年浪曲師”として九州を中心に巡業。1945年(昭和20年)、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。同年6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。1947年(昭和22年)、少女浪曲師の吉田伊万里と結婚。1949年(昭和24年)、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現在の新栄プロダクション)社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)宛てに自ら手紙を書いてマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意し、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京。1952年(昭和27年)、浪曲新人最優秀賞を受賞。1953年(昭和28年)、村田英雄に改名。同年、NHKの新人賞であった桃中軒雲右衛門賞を受賞。1954年(昭和29年)、NHKとの専属契約を蹴り、文化放送での毎日15分の連続歌謡浪曲に出演する契約を結ぶ。数年後に妻子を呼び寄せたが、当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していた。その後、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。1958年(昭和33年)、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)。同曲で日本コロムビアから歌手デビューを果たした。しかし、当時はヒットに恵まれず、1959年(昭和34年)に『人生劇場』がリバイバルブームにのってわずかにヒットしたのみであった。そのため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家でフランス文学者の西條八十邸を訪問。当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり、「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」という文言が作詞された。始めの文言が完成した20日後には、全ての詞が完成。1961年(昭和36年)9月に発売された歌謡浪曲のLPの挿入歌として『王将』が発表され、11月にはシングルカット。これがミリオンセラーとなり、NHK紅白歌合戦に初出場。以降、通算27回の出場を果たした。1962年(昭和37年)、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。『王将』のヒットで、以前に出した『無法松の一生』『人生劇場』なども相乗効果でヒット。その後も『柔道一代』『花と竜』とヒットを放ち、男の世界を歌う独自のスタイルで人気を確立。また、二階堂伸、北くすをのペンネームで作詞・作曲もこなした。1963年(昭和38年)、鶴田浩二と意気投合して映画界に誘われ、東映の任侠映画で鶴田や高倉健らと共演。身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。北島三郎と組んだ『兄弟仁義』や『男の勝負』シリーズもあったが、2代目中村鴈治郎から「歌の仕事がある身でよくこうして映画に出ていられるなあ」と言われたことがきっかけで、その後は一切出演しなかった。1971年(昭和46年)、東芝EMIに移籍。1973年(昭和48年)、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであったことから35歳で発症していた。その後、復帰を果たしたが、ヒットがなく低迷期となる。1979年(昭和54年)、12年前に発売した『夫婦春秋』が有線放送からヒットし、相乗効果で当時の新曲『人生峠』が20万枚を超えるヒット。続けて『夫婦酒』もヒットし、レコード歌手の第一線に返り咲く。1981年(昭和56年)、『ビートたけしのオールナイトニッポン』内の「デカ頭コーナー」で、芸能界では有名な三波春夫とのエピソードから派生し、「村田先生の頭はデカい」という話になり、どの位デカいかのネタを投稿するコーナーが誕生。「セーターを試着しようとしたら、頭が出なかった」等の「頭がデカい」ネタから徐々にトンチンカンな村田の言動や行動をネタにする内容に転じて行き、リスナーの間でブームになる。その噂を聞きつけた村田本人からニッポン放送に電話があり、急遽番組に出演して行ったトークが好評で、任侠物のラジオドラマを作るなど、同番組に度々出演するようになる。当時いわゆる「業界聴取率」が高かった同番組がテレビ番組などへも影響を与え、従来は出演しなかったバラエティー番組やコント番組などへも出演の幅が広がり、「ムッチーブーム」と言われるまでになった。ビートたけしが発した「村田だ!」のフレーズは人気となり、清水アキラが1986年(昭和61年)頃から始めた村田のものまねでさらに広く浸透した。1988年(昭和63年)、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成し、ジョイント・コンサートなどで活動した。しかし、1991年(平成3年)に長年連れ添った妻が死去。その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった春日八郎も死去したことで心労が重なり、再び持病の糖尿病が悪化。見かねた周囲の関係者からの勧めで、妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(「全国村田英雄後援会」幹部)と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(ユイ子も生前「この人ならば」と半ば公認していた)が住む大阪府門真市に身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。体調管理を行い小康を得ていたが、1995年(平成7年)頃より糖尿病の合併症が深刻となり、体も痩せてしまう。それでも、「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、ステージに立ち続けていたが、同年8月には急性心筋梗塞、欝血性心不全で一時意識不明に陥る。1996年(平成8年)2月には、白内障手術のための入院中に倒れ、6時間におよぶ心臓バイパス手術を受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。さらに5月には右下肢閉塞性動脈硬化症で壊疽状態に陥り、右膝下12センチで切断。このとき「一切無になりたかった」と剃髪(病の影響で90年代以降、かつらを着用していた)。以後は坊主頭に作務衣がトレードマークになった。1997年(平成9年)には半生記「命あってこそ」を出版。糖尿病患者のための月刊誌「さかえ」に掲載された闘病記は大きな反響を呼んだ。以後全国を回り、自らの体験を糖尿病講座などで講演。また、大月みやこ公演への特別出演という形で全国公演を実施。回復ぶりを示したものの、同年10月に低血糖発作(今まで呑んだことの無かった白ワインを酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。12月には糖尿病性網膜症のため左目を手術。2000年(平成12年)1月には左足も同様に切断。それまでは義足で歩いていたが完全に車椅子生活となる。さすがの村田も大きなショックを受けるも「足がなくても歌は歌える」と自ら鼓舞をするなど、ますますその存在感を示した。同年、村田の闘病生活を支えた愛人と「男としてけじめをつける」として再婚(但し未入籍)。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。2001年(平成13年)6月、「私にはもう時間がない、生きているうちに何としてでも世に出さなければ」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。2002年(平成14年)5月に体調を崩し入院。同年6月13日午前9時52分、合併症の肺炎のため大阪市都島区の大阪市立総合医療センターで死去。享年73。没後、勲四等瑞宝章を追贈された。


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浪曲で鍛え上げた豪快な歌声で男の世界を歌い続けた村田英雄。若干14歳で一座を率いた天才少年浪曲師が歌手に転向し、戦後歌謡界の黄金期を代表する歌手の一人にまで上り詰めた。その道のりは、生前語っていた「人生は攻め」「退くのではなく前に進む」の通りであった。九州一から日本一の浪曲師になるべく、浪曲界に顔の利く西川幸男に自ら手紙を書いてマネージメントを依頼。売れない歌手時代には、依頼を断り続ける西條八十のもとに粘り強く通い、見事『王将』のヒットを得た。晩年は闘病生活を余儀なくされ、両足切断という憂き目に遭うも、歌への情熱を失うことはなかった。同じ浪曲出身で互いにライバル同士と位置付けされていた三波春夫の後を追うかのように旅立った村田英雄の墓は、静岡県富士宮市の富士桜自然墓地公園にある。洋型の墓には「妙法 梶山家」とあり、背面に墓誌が刻む。この墓には刻まれていないが、戒名は「玉泉院英聲日楽大居士」。

# by oku-taka | 2024-02-26 10:26 | 音楽家 | Comments(0)

赤木圭一郎(1939~1961)

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赤木 圭一郎(あかぎ けいいちろう)

映画俳優
1939年(昭和14年)〜1961年(昭和36年)

1939年(昭和14年)、東京府麻布区麻布笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。本名は、赤塚 親弘(あかつか ちかひろ)。戦時中に一家で神奈川県鎌倉市に疎開し、そのまま終戦を迎えた。湘南学園小学校に入学したが、その後三浦郡葉山町に引っ越した事で葉山小学校に転校。小学生時代は家の裏山で友達とインディアンごっこをしたり、妹と一緒に海で泳ぐなどしていた。中学は父の希望でクリスチャン系の私立の名門・栄光学園に入学するも、勉学第一の校風に馴染めず地元の鵠沼中学校に転校した。鎌倉高校時代は帰宅部であったが、スポーツ好きだった為、助っ人を頼まれては柔道、テニス、ボクシング、水泳などの様々な部に一日入部する形で色々と楽しんだ。一方、中学時代に横須賀の港を見て航海士に憧れ、中南米などを船で旅する夢を抱く。船乗りになるつもりで、高校卒業後の進路を水産系の学科がある大学や商船学校を志望したが、両親に反対されたため成城大学に進学先を変更。文芸学部に進学し、気ままな学校生活を送っていた1年生の夏休みに、父の囲碁仲間だった日活プロデューサー・高木雅行にスカウトされる。当人は「いいアルバイトになる」と軽い気持ちでこの誘いに乗って後日オーディションを受ける。当時日活は二枚看板俳優だった石原、小林に続く新人俳優を探しており、赤木は全国2万人を超える応募者の中から男8人女13人の「第4期ニューフェイス」の1人として選ばれて入社した。その後、石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。当初は本名で活動したが、入社からほどなくして井上梅次監督から「もっと簡単で親しみやすい芸名にした方がいい」と改名を助言され、井上の考案で、井上の母校である慶應義塾大学で当時野球部で活躍していた赤木健一から名前を借り、「下の名前は、石原裕次郎にあやかって三文字にしよう」ということから“赤木圭一郎”に決まった。1959年(昭和34年)、『拳銃0号』で演じた不良少年役が評判になった後、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たす。この映画で赤木の人気に手応えを感じた日活は、『清水の暴れん坊』と『鉄火場の風』で石原と共演させ、これらの映画も評判となった。その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、当時人気のあったハリウッドスターのトニー・カーティスにどことなく風貌が似ていたことから「トニー」の愛称で呼ばれるようになる。1960年(昭和35年)1月、日活は赤木、石原、小林旭に和田浩治を加えた4人で「ダイヤモンドライン」を結成させ、それぞれ毎月1本ずつのペースで彼らの主演映画を製作することを決定。主演した『拳銃無頼帖』シリーズの第一作『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』は、赤木にとって初のカラー作品にして大ヒットとなり、トニー人気は不動のものとなった。この頃から月収も15万円まで跳ね上がった(大卒の初任給が1万数千円の時代)。同年12月、映画製作者協会の新人賞を受賞。その後も20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として「タフガイ=石原裕次郎」「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれた。また、『霧笛が俺を呼んでいる』では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」とも評価された。歌手としても、日本グラモフォン(ポリドール)から『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめとする数々のヒット曲をリリースした(生前レコーディングしたのは、全部で25曲)。しかし、人気俳優の仲間入りを果たしたことで、この頃から撮影スケジュールに追われるようになる。少しでも通勤時間を減らすため、東京・調布市の撮影所付近に住んでいた山崎辰夫撮影所長の自宅に間借りしたが、目覚まし時計を3個使わないと起きられないほど寝不足に苦しんだ。1961年(昭和36年)1月、『激流に生きる男』で主演を演じるはずだった石原裕次郎が、スキーで転倒して骨折したことで赤木にその代役が回ってくる。ただでさえ多忙だった赤木は、この映画への参加により超人的なスケジュールを送ることとなった。2月14日、午前中に栄養剤を2本飲んで撮影を行った後、昼休みの日活撮影所の中庭では俳優や歌手たちの行列ができていた。そこでは輸入代理店のセールスマンが持ってきた、当時アメリカで流行していたゴーカートを試乗させていた。赤木は疲労困憊だったが運転が好きだったことから、「すぐに撮影始まるから先に乗せてよ」と言ってヘルメットを被ってゴーカートに乗り込んだが、撮影所内を走り出した直後にブレーキとアクセルを咄嗟に踏み違え、60 km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突。東京都北多摩郡狛江町(現在の狛江市)にある慈恵医大病院に緊急搬送された後に緊急手術が行われた。病院には家族や俳優仲間日活関係者、多数の報道陣が詰めかけ騒然となった。医師は赤木の関係者に「生命が危ぶまれる」と告げたが、事故の翌日に日活は会見を開くと、周りを安心させるためか「重症に見えるが脳は大丈夫」と告げたという。手術後も危篤状態が続いたが、翌19日朝9時頃に意識を回復。ガーゼに浸した水を自分で飲んだが、20日に再び容態が悪化して昏睡状態となり、21日午前7時50分、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため死去。享年21。


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劇的な幕切れで21年という短い生涯を駆け抜けた赤木圭一郎。日活のアクション映画黄金期に颯爽と登場し、「トニー」の愛称で瞬く間にスターとなった。映画主演のみならず流行歌の吹き込みも行い、特に『霧笛が俺を呼んでいる』は映画・主題歌共にヒットとなった。石原裕次郎、小林旭に次ぐ人気スターとして将来を嘱望されていたが、撮影の合間に運転したゴーカートでスタジオの壁に衝突。ジェームス・ディーンのように不慮の事故で夭折となってしまった。21才という若さ、そして衝撃的な死によって伝説の俳優となった赤木圭一郎の墓は、静岡県富士宮市の大石寺にある。墓には「妙法蓮華経 赤塚家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「英俊院法親信士」。

# by oku-taka | 2024-02-19 02:45 | 俳優・女優 | Comments(0)

浦辺粂子(1902~1989)

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浦辺 粂子(うらべ くめこ)

女優
1902年(明治35年)〜1989年(平成元年)

1902年(明治35年)、静岡県賀茂郡下田町(現在の下田市)に生まれる。本名は、木村 くめ。父は臨済宗建長寺派・長松山泰平寺の住職だったが、1909年(明治42年)、に河津町見高の洞雲山隠了寺へ移ったため、見高入谷尋常小学校に入学する。母の姉が東京の明治座で吉野屋という売店を経営しており、いつも演芸雑誌や芝居の絵番付を送って貰っていたことから芝居好きとなる。5年生の頃は、隣の稲取町にかかった連鎖劇(無声映画と舞台劇を組み合わせた劇)に心を奪われ、今井浜で近所の子を集めては芝居ごっこに熱中していた。1914年(大正3年)、父が駿東郡金岡村字岡宮(現在の沼津市岡宮)の妙心寺派・仏日山常照寺に移るにともなって、金岡尋常高等小学校に転校。1917年(大正6年)に高等科を卒業して、私立の沼津女学校に進学する。沼津へ移ると乗り物の便が良くなり、休日には母に連れられ芝居見物に上京するようになる。明治座で市川左團次、本郷座で新派合同劇、新富座で中村鴈治郎、歌舞伎座で中村歌右衛門などを観るうち通になり、明治座で松井須磨子の『復活』を観て女優に憧れるが、かつて観た連鎖劇の影響で、活動写真の女優を夢見るようになる。同年8月、高木徳子一座の楽長だった鈴木康義と宝塚少女歌劇の舞台教師だった西本朝春が結成した東京少女歌劇団の一員となり、一条粂子を名乗る。1919年(大正8年)、女学校を中退して女優になろうと決意するが、厳格な父に猛反対される。そこで、父には内緒で母を口説いて20円の金を借り、家出する。女優への足がかりとして、沼津に来ていた奇術の松旭斎天外一座に加わって遠山みどりの芸名で一座とともに全国を巡業するが、下ごしらえばかりで給金は貰えず、なかなか旅費が工面できなかった。1921年(大正10年)春、山梨県大月に来たとき、やっと一座を抜けて上京する。日活向島撮影所を訪ね、門衛に女優志願を告げると門前払いをくらい、仕方なく浅草の根岸歌劇団のオペラ小屋・金龍館に入ると、楽屋口に女優募集の貼り紙があり、即座に応募して採用される。奇術一座時代の芸名でコーラスガールとして舞台に立つが、田谷力三からは「君は素質もないし、器量も良くないから、家に帰った方がいいよ」と言われた。やがて芸名を静浦ちどりと変え、役が付いてきたが、6ヶ月を過ぎたころ、音楽部員でチェロを弾いていた外山千里(後の佐々木千里)の口利きで、大阪の浪華少女歌劇団に入団する。遠山ちどりの芸名でお伽劇や舞踊劇に出演し、ここで後に溝口健二夫人となる嵯峨千枝子と出会い、「サガチー」「トーチー」とあだ名で呼び合う仲となる。1922年(大正11年)、歌劇団を退団して上京。外山の世話で3月から上野公園で催された平和記念東京博覧会に余興として出演していた平和歌劇団に入り、再び静浦ちどりの芸名で舞台に立つ。博覧会が終わると、ここで仲間となった杉寛に誘われ、旅回りの新派一座と合同のオペレッタ一座に加わる。横須賀へ巡業した際、新派の女優に活動写真出演を誘われ、高田馬場にあった小松商会という町工場程度の撮影所を持った会社に入社する。監督の波多野安正と夫人の松本静子と親しくなり、演技の勉強のため彼らの勧めで、撮影が終わると早稲田の近くの小劇場で常打ちしている玉椿道場という新派一座にも出演するようになる。1923年(大正12年)、小松商会の撮影所は解散。思いあぐねていたところ、易者から「このまま東京にいると死ぬか大怪我する」と言われ(実際、この年の9月1日に関東大震災が起こった)、昔の仲間もいることから大阪へ向かい、京都で旗揚げした沢モリノ一座に入る。一座は不入り続きで解散寸前だったが、一座ぐるみ新京極の中座へ契約され、新派の筒井徳二郎一座と合同公演をする。そのうち、筒井一座の娘役が急病で倒れその代役に立ったところ、座長に認められて筒井一座に移る。同年7月から名古屋公演に同行、新聞の演芸欄に名前が載るようになる。同年8月、当時日活の装置部にいた波多野安正から日活京都撮影所の女優採用試験を受けるよう薦められ、同撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を浦辺粂子とした。同年公開の尾上松之助主演『馬子唄』がデビュー作となり、日活旧劇女優としては岩井咲子に続く第2号ということになったが、ついた役は女中や腰元ばかりであった。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され、向島の所属者が京都撮影所に合流して、第二部の名称で現代劇部が設立されると、浦辺も第二部へ移る。1924年(大正13年)、村田実監督の『お光と清三郎』、細山喜代松監督の『街の物語』に端役でテスト出演して合格し、村田監督・吉田絃二郎原作の『清作の妻』でヒロイン・お兼役に起用される。村の模範青年・清作と結婚して村人から白い眼で見られていた妾上がりのお兼は、清作の2度目の出征を嫌がって彼の眼をかんざしで突き刺すが、刑期を終えて出所すると村人の反目が激しくなり、夫と自殺を遂げる、という物語で、映画経験も浅く無名だった粂子はこの難役を見事に演じきり、一躍性格女優として注目を浴びた。続いて、溝口健二監督の『塵境』で鈴木傳明の相手役を務め、流し芸人のお松を演じる。この演技で古川緑波に「誇張ではない。この映画における浦辺粂子嬢の演技を見た時、日本にもこれだけ演れる女優がいてくれたかと、涙ぐましいほど嬉しかった。立派な演技である」(『キネマ旬報』第160号)と絶賛され、演技派スターとしての地位を決定づけた。ブラスコ・イバニェスの小説を翻案した村田監督の『お澄と母』では、貧窮の生活から逃れようと芸者になり、金持ちの妾となって哀れな母を捨てるという虚栄のドライ娘を好演。女の執念をはらんだエゴイスティックな女性という至難の役どころを的確に演じた。その後も、村田監督の『金色夜叉』、溝口監督の『曲馬団の女王』『乃木大将と熊さん』、三枝源次郎監督の『愛の岐路』『吉岡大佐』、阿部豊監督の『人形の家』などに出演。性格女優としてだけでなく、人気スターとしても酒井米子・沢村春子に次ぐ存在となる。1928年(昭和3年)10月23日、京都の資産家の息子である上野興一と結婚。これを理由に1929年(昭和4年)日活を退社する。しかし、夫婦で競馬狂いになり、結婚生活は1年で破綻し、1930年(昭和5年)4月に離婚。日活企画部にいた波多野に身の振り方を相談すると池永所長に会うように言われ、日活太秦撮影所へ行くと、粂子の腕を惜しんでいた池永が即座に復帰を求め、ただちに日活に再入社する。入江たか子主演の『未果てぬ夢』で復社初出演。その後、溝口監督の『唐人お吉』では発狂して死ぬお松、『しかも我等は行く』では男を渡り歩いた女の若い時と中年の2つの年代を演じ、心理的表現の巧みさを評価された。1932年(昭和7年)、日活大争議が発生し、伊藤大輔、内田吐夢らと「七人組」で退社した村田監督に同脚して日活を退社し、入江ぷろだくしょんに入社。阿部監督の『光・罪と共に』『須磨の仇浪』などに助演し、溝口監督の『瀧の白糸』では、女水芸師一座の下座の三味線弾きで夜鷹になるお銀という悪女を演じ本領を発揮する。1933年(昭和8年)7月、新興キネマ太秦撮影所に入社し、多数の作品に助演。やがて東京撮影所の作品にも出演する。1942年(昭和17年)、新興キネマは戦時下の企業統合で大映となり、粂子も引き続き大映所属となった。戦後は確かな演技力を買われて他社の作品にも多く出演し、老け役女優として活躍する。成瀬巳喜男監督の『稲妻』では、父親の異なる4人の子供を育て、生活の落ち着かない子供らに振り回されながらも愛情を注ぐ母親を演じ、同じく成瀬監督の『あにいもうと』でも母親役を好演。成瀬作品では他にも、『ひき逃げ』『乱れ雲』などに出演している。豊田四郎監督の『雁』では、貧しい娘を妾宅に囲う高利貸しの女房を演じ、生活に疲れた女の底にギラつく嫉妬心を抑えた演技で表現し、戦前から持ち味とした女の執念のすさまじさを、さらに年季の入った巧技で見せた。市川崑監督の『私は二歳』で赤ん坊の世話を焼く祖母役で出演するなど、やさしい老母・祖母を演じることが多いが、川頭義郎監督の『青空よいつまでも』の祖母役のように、嫁をいじめぬく憎まれ婆さんの役でも絶妙の巧味を見せた。このほか、黒澤明監督の『生きる』、五所平之助監督の『煙突の見える場所』、木下惠介監督の『野菊の如き君なりき』、小津安二郎監督の『早春』『浮草』、溝口監督の『赤線地帯』、市川監督の『日本橋』、伊藤大輔監督の『切られ与三郎』、豊田監督の『恍惚の人』などに出演。1966年(昭和41年)、紫綬褒章を受章。1971年(昭和46年)に大映が倒産してからはフリーとなる。1980年代になると、バラエティー番組にて「おばあちゃんアイドル」として人気を呼び、タレントの片岡鶴太郎やタモリによくモノマネされた。特に「ネタがすぐバレる手品」などは有名だった。1984年(昭和59年)11月21日、「わたし歌手になりましたよ」(テイチク)で82歳にして歌手デビューを果たす。これは、1992年(平成4年)にきんさんぎんさんに抜かれるまで日本での最高齢レコードデビュー記録でもあった。しかし、1986年(昭和61年)10月に自宅の階段で脚を踏み外して転落し、1階の床に前頭部を強打して出血をする事故を起こす。粂子は一人暮らしで仕事がオフだったため、近隣の住民に発見されたのは3日後だった。発見者の話によると、「毎朝、元気に“おはよう”って言ってくる浦辺さんが2日前から外に出てこない。変だと思って玄関を開けたら、血まみれで倒れていた」と言っている。この一件を機に粂子は足腰が極端に弱ったため、事務所関係者の中には老人ホームへの入院を勧める人もいたが、粂子はこれを拒み続けたという。それでも事務所の粘り強い説得により週何度かは家政婦が自宅を訪れ、様子を見たり身の回りの世話をしたりする程度のことは行っていた。ところが、1989年(平成元年)10月25日午前7時55分頃、東京都渋谷区の自宅で湯を沸かそうとした際に和服の袂にコンロの火が引火。火だるまとなり、全身に大火傷を負って自宅前の道路で倒れている姿を発見され、病院へと緊急搬送された。全身の約70%にやけどを負っており、治療もむなしく、10月26日午前0時30分、大火傷による多臓器不全のため搬送先の東京医科大学病院で死去。享年87。


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晩年「おばあちゃんアイドル」としてブレイクを果たした浦辺粂子。愛嬌のある童顔と舌足らずの喋りがお茶の間に受け、『ライオンのいただきます』を皮きりに多数のバラエティー番組に出演。その特異なキャラクターが片岡鶴太郎にモノマネされ、一躍時の人となった。また、特技としていた手品においては、ぎこちない手つきで仕掛けはバレバレであるが、それでもとにかく一生懸命にやるという姿がこれまたウケた。しかし、そうしたコミカルな姿は仮の姿ともいうべきで、本来は無声時代から数多くの映画で活躍したスター女優であった。戦前は性格女優として人気を博し、戦後は40代で老け役女優に転向。60年以上の女優生活の中で300本以上の映画に出演し、成瀬巳喜男、小津安二郎、木下恵介、黒澤明ら日本映画の巨匠作品に欠かせぬ名バイプレイヤーであった。それだけに、コンロの火が服に引火しての焼死という最期は、あまりに痛ましいものであった。浦辺粂子の墓は、静岡県沼津市の常照寺にある。僧侶の娘であったことから、歴代住職の墓に納骨されている。円形の墓には「常照」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「大優院映照妙壽大姉」。

# by oku-taka | 2024-02-11 00:35 | 俳優・女優 | Comments(0)

安倍晋太郎(1924~1991)

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安倍 晋太郎(あべ しんたろう)

政治家
1924年(大正13年)〜1991年(平成3年)

1924年(大正13年)、安倍寛の長男として東京市四谷区に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町大字蔵小田(現在の長門市)。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。旧制山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)に進学。一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に第六高等学校(岡山市)に入学。1944年(昭和19年)9月、1年半で繰り上げ卒業。東京帝国大学法学部に進学するが、同年10月に海軍滋賀航空隊へ予備学生として入隊させられた。太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学。1946年(昭和21年)1月29日、父が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母が死去した。1949年(昭和24年)、東京大学を卒業し、毎日新聞社に入社。政治部に配属される。1950年(昭和25年)6月、岸信介の長女と見合いをし、1951年(昭和26年)5月に結婚。1956年(昭和31年)12月23日、石橋湛山内閣が成立。岸が外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となった。1957年(昭和32年)2月25日、第1次岸内閣が成立。安倍は内閣総理大臣秘書官に就任した。1958年(昭和33年)、第28回衆議院議員総選挙に郷里の旧山口1区から自民党公認を得て立候補。安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選する。この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった。1960年(昭和35年)11月20日、第29回衆議院議員総選挙では4番目の得票数で再選。しかし、1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では次点で落選した。支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、2回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮・藤本万次郎を後援会長に迎えた。1967年(昭和42年)、第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。1969年(昭和44年)の総選挙は、周東の後継者として元通産省職員の林義郎が立候補。林の父親で、サンデン交通社長の林佳介は安倍の後援会長を、母親も安倍の婦人部の会長を務めていた。しかし、林が出馬したことから林家傘下の山口合同ガスなど下関市の有力企業のほとんどは林の支援に早変わりし、苦戦を強いられるもトップで当選を果たす。下関市では「異端者」であった安倍は、幅広い層からの支持や支援を必要とした。そこで、同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった。山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手の七洋物産創業者の吉本章治などからの支援を受けた。自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て、1974年(昭和49年)三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年(昭和51年)に自民党国会対策委員長を務め、1977年(昭和52年)福田改造内閣の内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与。1978年(昭和53年)、福田の自民党総裁再選への流れを作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官が解散反対を公言するなどして解散は頓挫。同年暮れの総裁選で福田は大平正芳に敗れ、福田内閣は退陣する。1979年(昭和54年)11月、大平総裁の下で党政調会長に就任。福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。1980年(昭和55年)5月のハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。1981年(昭和56年)11月、政調会長を退任。同年11月30日、鈴木善幸改造内閣が発足し、通商産業大臣に就任した。1982年(昭和57年)10月12日、鈴木善幸は首相退陣を表明。田中派の支援する総裁候補であった中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。同年11月24日、総裁選予備選が行われ、1位中曽根、2位河本、3位安倍、4位中川、と中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。1982年(昭和57年)11月27日、第1次中曽根内閣が成立。中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。安倍は外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもなかったが、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスメディアなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。1986年(昭和61年)7月6日、衆参同日選挙が執行され、自民党が大勝。同年7月14日、福田赳夫は派閥会長の座を安倍に禅譲。7月22日に第3次中曽根内閣が発足すると、安倍は党総務会長に就任した。中曽根の総裁任期満了が近づくと、後継総裁候補として安倍、竹下、宮澤が出馬表明するが、禅譲によって影響力を残したい中曽根は、安竹の親友関係や角福戦争の後遺症に目を付け、安竹連合による選挙の実施を阻止するため、様々な情報を出して撹乱し、総裁選挙の実施を阻んだ。三角大福中時代の熾烈な党内抗争に辟易としていた安竹宮3人は、話し合いによる後継総裁決定を模索。3人による話し合いは10月10日から6回行われたが、調整は最後までうまくいかなった。投票期限の10月19日、「候補者一本化を総裁に一任する」との報告が総裁・四役会議に出される。中曽根は調停役を引き受け、3人は候補辞退届を提出した。自民党の歴史の中で、「後継指名」や「裁定」の形をとったことは何度かあるものの(池田による佐藤指名、及び椎名裁定による三木指名)、有力候補が揃って退任間際の総裁に、自らへの指名を期待して裁定を仰ぐという異例な事態は、中曽根の巧みさとともに、ニューリーダーの「ひ弱さ」を印象づけることにもなった。中曽根は党本部の総裁室で福田赳夫、鈴木善幸、二階堂進の意見を個別に聞き、選考作業をすすめた。10月20日午前0時、中曽根は党四役を総理官邸に呼び、選考結果を伝達した。同日午前0時25分、党本部の総裁応接室に待機する3人に対し、伊東正義政調会長が中曽根の書いた「自民党総裁候補の指名について」という文書を読み上げ、竹下が後継総裁に指名された。中曽根の後継指名は極秘裏に進められ、かつ様々な煙幕を張っていたために、憶測が乱れ飛んだ。特に意図的にか、事前に裁定文の1枚目が漏れ、そこに「国際関係が重要である」といった趣旨のことが書かれていたため、外交経験が少ない竹下ではなく、安倍・宮澤が有力なのではないかといった予想が飛び交った。時事通信は「安倍総理誕生」と誤報を打ち、総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃『ニュースステーション』は独自の総裁選シミュレーションを行ない、安倍総務会長が竹下、宮澤を抑え第12代自民党総裁に選出すると予測したりした。同年11月6日、竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで、国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。1988年(昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現在のコスモスイニシア)の非公開株を譲り受けていたためリクルート事件に巻き込まれ、自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となる。1989年(平成元年)4月18日、順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院。表向きには「総胆管結石治療」による入院と述べていたが、当時はリクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた。 5月、膵臓癌により膵臓から十二指腸、胃の一部まで取る手術を行った。長期入院を余儀なくされ、同年7月25日に退院。1990年(平成2年)1月には、ソビエト連邦を訪問した。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では自派から若手議員を大量に当選させた。同年6月に訪米するも、8月に病状が悪化し、9月6日に検査入院。9月10日にいったん退院するも、14日に再入院した。この際、次男の晋三から「癌です」と告げられるが、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという。病状悪化により9月20日から予定されていた訪ソを断念。1991年(平成3年)1月19日、「かぜのため」として再入院すると、党内で重病説がささやかれるようになる。4月中旬、来日中のソ連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの歓迎昼食会に出席。これが安倍にとって最後の政治活動となった。5月15日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年67。



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新聞記者から政界に転じた安倍晋太郎。父と同じ国会議員の道を歩み、田中内閣時代には「外交の安倍」として、ニューリーダーの一人と称されるほどの活躍ぶりを見せた。やがて「安竹宮」の一人として総裁選を争うも、角福戦争の悪影響と政治的影響力を残したい中曽根による影響を受け、そのチャンスを逃すことになった。その後も、「総裁の椅子に最も近い男」と評価されながら、リクルート事件で追及を受け、ついには病に倒れ、総理総裁の座に就くことはなかった。志半ばで世を去った悲運のプリンス・安倍晋太郎の墓は、山口県長門市油谷と静岡県駿東郡の冨士霊園にある。後者の墓には「安倍家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「慈徳院壂譽晋順政照大居士」。

# by oku-taka | 2024-02-03 20:04 | 政治家・外交官 | Comments(0)