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初代・安達 曈子(あだち とうこ)

華道家
1936年(昭和11年)〜2006年(平成18年)

1936年(昭和11年)、安達式挿花の初代家元であった安達潮花の次女として、東京都港区に生まれる。両親は長女を1歳にして亡くしたことから、曈子を60年の伝統ある流派の次期家元として育てられる。学習院女子高等学校を卒業後、後継者に指名。しかし、1968年(昭和43年)に父との考え方の相違から独立し、安達曈子制作室を設立。1973年(昭和48年)、花芸安達流を創設。主宰として、日本の伝統的な華道と西洋芸術との融合を追究した。また、着物の似合う才女として、テレビ、ラジオなどでも活躍。NHKのバラエティ番組「連想ゲーム」でも約2年間レギュラー解答者を務めた。1980年(昭和55年)、安達式の2代目家元となった長兄・良昌の急死を機に、安達式は免許状や機関誌発行など一切の活動をやめ、1981年(昭和56年)に事実上花芸安達流として一本化した。1986年(昭和61年)には、新本部「花芸の館」を建設。外部の生け花団体には一切加盟せず、独自の道を歩んだ。このほか、東京農業大学、山野美容芸術短期大学、恵泉女学園大学の客員教授、日本ツバキ協会会長、東京都の「東京緑化推進委員会」の委員長を歴任した。2006年(平成18年)3月10日午前7時8分、急性肝不全のため東京都新宿区の病院で死去。享年69。


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伝統的な華道と西欧的な芸術を融合させた花芸安達流を創設し、 独自の作風で知られた安達曈子。植物の生態と形態に立脚した基本型を確率し、自然の中の動きを原型とした「動の世界」を創出した。また、華道の教授法を改革し、今日ある教室での指導を華道家として初めて行った。伝統的な型を基本とする閉鎖的な世界から脱却し、自然の動きを意識した「動の花」を求め続けた安達曈子の墓は、東京都世田谷区の浄因寺にある。墓には「安達家之墓」とあり、両側面に墓誌が刻む。戒名は「浄香院釋尼曈華」。

# by oku-taka | 2022-10-05 20:41 | 芸術家 | Comments(0)

久和ひとみ(1960~2001)

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久和 ひとみ(くわ ひとみ)

ニュースキャスター
1960年(昭和35年)〜2001年(平成13年)

1960年(昭和35年)、東京都武蔵野市に生まれる。両親が結婚8年目でようやく生まれた娘であったことから、5才でバイオリンを習わせるなど大事に育てられた。東京都立国立高等学校を卒業後、東京大学を受験するも失敗。一浪して再度チャレンジするも不合格となり、第二志望の早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。在学中の198年(昭和55年)、菅直人が初めて当時の社民連から地元の選挙区より衆議院議員選挙に出馬した際に、選挙応援ボランティアとして選挙カーでウグイス嬢をした。中学生の頃からアナウンサーに憧れがあったひとみは、これをきかっけに益々アナウンサーへの憧れが強くなり、就職活動は東京の民放キー局を全て受験。結果はどこも不合格であったが諦めず、CNNデイウォッチの契約キャスターのオーディションを受け合格した。1984年(昭和59年)、早稲田大学を卒業し、テレビ朝日の『CNNデイウォッチ』初代キャスターとなる。当初、担当期間は3ヶ月か6ヶ月と言われていたが、キャスターとしての才能を担当者に見いだされて契約期間を延長。さらに、チャレンジャー号爆発事故の緊急ニュースを担当したことで一躍有名となり、最終的に1989年(平成元年)9月まで5年半担当した。降板後は『モーニングショー』など複数の番組でリポーターを中心に担当。また、同年4月にはTBSと専属契約。荒川強啓とともに、ローカルニュース『テレポート6』キャスターとして起用された。番組そのものは荒川と久和の登場後1年で終了し、1990年(平成2年)春に『JNNニュースコープ』と統合されて『JNNニュースの森』となったが、引き続き荒川とメインキャスターを務めた。1996年(平成8年)3月、『JNNニュースの森』との契約期間満了と番組リニューアルを機に降板。コロンビア大学に留学し、国際関係論などを学ぶため客員研究員として研究を重ねた。1998年(平成10年)2月、帰国。『ニュースジョッキー』『ジャーナル8』のキャスターを務めた後、政治・経済面に強いキャスターとして、1999年(平成11年)10月にテレビ東京の『TXNニュースアイ』のメインキャスターに起用された。この『ニュースアイ』のタイトルは彼女の名前「ひとみ」(eye)に因んだものである。しかし、2000年(平成12年)10月20日の放送にて「実は体調を崩しまして、来週からしばらく休ませていただくことになりました。また元気になりしだい戻ってまいります」と挨拶し、『ニュースアイ』を休演(事実上降板)。検査を受けた結果、子宮癌を患っていることが判明し、最後の出演の4日後に手術を受け、復帰に向けて治療に専念をした。しかし、2001年(平成13年)2月、肝臓への転移が見られ、容体が急変。3月1日午前11時25分、急性肝不全のため都内の病院で死去。享年40。久和の死は当日の番組の冒頭で伝えられ、その際に癌にかかっていたことが初めて明かされた。没後、久和の一周忌である2002年(平成14年)3月1日、久和の遺産の一部を基金として、マスコミ関係の職務経験がある女性を対象とした奨学金「久和ひとみスカラシップ」が設立。2004年(平成16年)までに計4人を留学生として送り出し、一旦解散した。その後、選考委員長を務めていた筑紫哲也の遺族の申し出により香典が寄付され、2009年(平成21年)11月に「久和ひとみ・筑紫哲也スカラシップ」として1人限りの募集を再開した。


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クリっとした瞳とショートヘアがトレードマークだった久和ひとみ。早くからキャスターとしての才能を認められ、チャレンジャー号爆発事故を皮切りに、ベルリンの壁崩壊、ドイツ統一、湾岸戦争など、激動の世界情勢を知的と歯切れの良さで報道した。『ニュースの森』の看板キャスターとして地位を固め、留学後には自身の名に因んだニュース番組のメインに就任するなど、ベテランキャスターとしてこれからという矢先の死は多くの人に衝撃をもたらし、その訃報は各局で一斉に伝えられた。40歳で夭折となった久和ひとみの墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「久和家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻まれ、左側に犬のモニュメントが建てられている。戒名は、「釋尼妙聲」。

# by oku-taka | 2022-10-05 20:28 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)

利根一郎(1918~1991)

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利根 一郎(とね いちろう)

作曲家
1918年(大正7年)〜1991年(平成3年)

1918年(大正7年)、群馬県邑楽郡明和町に生まれる。本名は、恩田良武。1938年(昭和13年)、早稲田大学政経学部中退。1942年(昭和17年)、ポリドールレコードに入社。1945年(昭和20年)、テイチクレコードに移籍。1947年(昭和22年)、菊池章子が歌った『星の流れに』が初のヒット。以降、『さらば赤城よ』(東海林太郎)、『母紅梅の唄』(菊池章子)とヒットを重ねる。1949年(昭和24年)、キングレコードに移籍。小畑実とのコンビで『アメリカ通いの白い船』『星影の小径』をヒットさせるとともに、津村謙に『白夜行路』を提供した。1950年(昭和25年)、ビクターに移籍。移籍の条件として、小畑実のビクター移籍を提示し、ここでもコンビで『山の端に月の出る頃』『そよ風のビギン』をヒットさせた。このほか、『ミネソタの卵売り』(暁テル子)、『水色のスーツケース』(灰田勝彦)、『ガード下の靴みがき』(宮城まり子)などがヒット。また、1955年(昭和30年)にポリドールレコードから移籍してきた新人・曽根史郎(後に曽根史朗)に『花のロマンス航路』『若いお巡りさん』『白いジープのパトロール』などを提供し、人気歌手の仲間入りをさせた。1966年(昭和41年)、橋幸夫が歌った『霧氷』で日本レコード大賞を受賞。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章を受章。1991年(平成3年)12月16日、死去。享年73。


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戦後の歌謡界において、ヒットメーカーの1人であった利根一郎。戦争に翻弄された女性の悲哀を歌った『星の流れに』をはじめ、ちあきなおみを筆頭に数多の歌手にカヴァーされ続ける『星影の小径』、コミカルなやりとりを軽妙なメロディーの歌にした『若いお巡りさん』など、歌謡史を語る上で欠くことのできないヒット曲を量産。そして、そのほとんどの曲が、ロマンチックさを感じる洒落たメロディーであった。今やその存在が忘れ去られようとしているメロディーメーカーの墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。五輪塔の墓には「恩田家」とあり、右側に簡単な略歴が刻まれた墓誌が建つ。戒名は「観音院殿良範秀頴大居士」。

# by oku-taka | 2022-10-05 19:57 | 音楽家 | Comments(0)

堀越二郎(1903~1982)

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堀越 二郎(ほりこし じろう)

航空技術者
1903年(明治36年)〜1982年(昭和57年)

1903年(明治36年)、群馬県藤岡市に生まれる。この年、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功し、その後、第一次大戦で飛行機が本格的な活躍を見せはじめた事により、欧州戦線での飛行機の空中戦のニュースや飛行機を題材にした雑誌の記事が、幼少期の堀越の心を躍らせた。藤岡中学校を経て、第一高等学校に進学。在学時は文武両道でトップクラスの成績だったが、大学への進路を決める頃になると空への憧れを抱くようになり、1924年(大正13年)東京帝国大学航空学科に入学。1927年(昭和2年)、同大学を首席で卒業し、三菱内燃機製造(後の三菱重工業)名古屋航空機製作所に入社。最先端の航空機技術を学ぶため、ドイツのユンカース社やアメリカに1年半派遣される。1932年(昭和7年)、入社5年で設計主任に抜擢される。この頃、九〇式艦上戦闘機の更新を目的として海軍機の試製3ヶ年計画がスタートし、三菱と中島飛行機の二社が競争試作を実施。堀越は、まだ複葉機が主流な時代において、単葉機である七試艦上戦闘機を設計したが、試作された2機は試験飛行中に墜落してしまい不採用となった。1934年(昭和9年)、九試単座戦闘機の設計・開発を進め、九試単座戦闘機では機体表面の空力的平滑化を徹底するなど革新的な設計を行い、逆ガル翼を持つ試作一号機を経て、1935年(昭和10年)に試作二号機が日本海軍初の全金属単葉戦闘機九六式艦上戦闘機として採用された。これは日本で初めて全面的に沈頭鋲を採用した航空機である。1937年(昭和12年)、十二試艦上戦闘機(後の零式艦上戦闘機)の設計を行う。しかし、海軍からのあまりに高い性能要求に悩み、会議において堀越は「格闘性能、航続力、速度の内で優先すべきものを1つ挙げてほしい」と要求するが、源田実の「どれも基準を満たしてもらわなければ困るが、あえて挙げるなら格闘性能、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」という意見と、柴田武雄の「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」という意見が対立し、両方正論で並行したため、堀越は自分が両方の期待に応えようと決めていた。以降、技術部第二設計課長として雷電、烈風の設計に携わったが、零戦も含めいずれも途中以降は他課に設計が移されている。戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加。三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(後の新三菱重工業)に勤務し、参与を務めた。1953年(昭和28年)、奥宮正武と共著で『零戦』を発表。後にアメリカ・イギリス・フランスでも翻訳出版され、世界的に零戦設計者として知られるようになる。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)にかけ、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。また、「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 昇降だ操縦系統の剛性低下方式」で東大工学博士を取得。1965(昭和40年)から1969年(昭和44年)にかけて防衛大学校の教授に就任。この間の1967年(昭和42年)に新三菱重工業を退社した。1972年(昭和47年)〜1973年(昭和48年)にかけ、日本大学生産工学部の教授に就任。1973年(昭和48年)、次期対潜哨戒機選定の国防会議専門家会議の座長となる。同年11月3日、勲三等旭日中綬章を受章。1982年(昭和57年)、1月11日死去。享年78。没後、従四位が追賜された。


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第二次世界大戦下、米英のパイロットから「ゼロファイター」と呼ばれた「零戦」。この日本を代表する戦闘機を設計したのが、木村秀政と並んで航空技術の第一人者となった堀越二郎である。その生涯は、柳田邦男の小説『零式戦闘機』や、東宝映画『零戦燃ゆ』などで描かれ、近年も宮崎駿によるスタジオジブリ映画『風立ちぬ』の主人公のモデルとして注目された。零戦以外にも、逆ガル翼を採用した「九試単座戦闘機」や、「雷電」「烈風」などの海軍機の設計主務者としても活躍し、戦後もYS-11の設計に参加。ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した年に生まれた飛行機の申し子は、生涯をかけて航空技術の発展に寄与した。堀越二郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「堀越家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は、「秀光院慈航智璨居士」。

# by oku-taka | 2022-09-19 23:53 | 経済・技術者 | Comments(0)

江戸川乱歩(1894~1965)

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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ)

作家
1894年(明治27年)〜1965年(昭和40年)

1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現在の名張市)に生まれる。本名は、平井 太郎(ひらい たろう)。2歳の頃、父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)、翌年には愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であり、中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事を経験する。1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現在のシンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど、地域交流の仕事に回された。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという。1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビュー。当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。1925年(大正14年)、森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたり、2作目の『心理試験』が好評を博す。これを機に会社を辞めて小説家一本となったが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『幽霊』は自ら愚作と評し、小説家になったことを後悔したという。しかし、森下の紹介で『写真報知』や『苦楽』にも掲載を持てることとなり、探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定した。創作活動初期は、欧米の探偵小説に強い影響を受け、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されず、『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』など、衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスクといったフェティシズム、残虐趣味の要素を含んだ通俗探偵小説などの変格ものと称される作品が一般大衆に歓迎された。1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、病欠の山本有三の代役として、朝日新聞に『一寸法師』を連載。作品は評判がよく、映画化もされたが、自身は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪。以後、戦前は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる。1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、自己の総決算的中篇『陰獣』を発表。変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。1929年(昭和4年)8月、かねてより執筆依頼のあった『講談倶楽部』に通俗長編『蜘蛛男』を連載。自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだったが、作品は大好評で、これを契機として続けざまにヒット作を連発させる。1931年(昭和6年)5月、『江戸川乱歩全集』全13巻が平凡社より刊行開始。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになった。また、海外作品にも通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。1933年(昭和8年)11月号、推理小説の専門誌『新青年』に『悪霊』の連載を開始。『新青年』編集部の懇請に応じて執筆を開始し、大衆小説を書いていた乱歩が2年ぶりの本格推理小説復帰と注目されたが、途中で創作意欲をなくし、2号続けて休載した後、4月号に読者へ「失敗のひとつの理由は、種々の事情の為に、全体の筋立ての未熟のまま、執筆を始めた点にもあったと思いますが、抜け殻同然の文章を羅列するに堪えませんので、ここに作者としての無力を告白して、『悪霊』の執筆をひとまず中絶することに致しました」との詫び状を書いた上で中断となった。その後も執筆が再開されることはなく、永遠に未完の作品となった。また、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。結果、1935年(昭和10年)頃より評論家として活躍し始め、評論集『鬼の言葉』を発表した。1936年(昭和11年)、初めての少年ものである『怪人二十面相』を雑誌『少年倶楽部』に連載。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、以後、創作レパートリーに少年ものを定期的に加えるようになった。しかし、日本が戦争体制を強化していくに従い芸術への検閲が強まっていき、日中戦争に勃発した1937年(昭和12年)頃より探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、『芋虫』が発禁となる。1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。12月、日本が太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない海軍省の会報に論評を載せるなどしていた。この時期、少年時代のノートから気になった近年の新聞記事など取り溜めておいた資料をスクラップブックに貼るようになった。他見させるつもりはなかったようであるが、没時までに9冊に増え、後に『貼雑年譜』として復元・刊行され、乱歩自身や日本の推理小説史の貴重な史料となっている。戦後は創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年(昭和21年)から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年(昭和22年)に探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。評論の分野では、『随筆探偵小説』を上梓。1951年(昭和26年)には『幻影城』、1954年(昭和29年)に『続・幻影城』、1958年(昭和33年)に『海外探偵小説作家と作品』が上梓される。 また、1949年(昭和24年)、雑誌『少年』1月号から連載の『青銅の魔人』で少年向け小説を再開。少年探偵団シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代頃から映像化された。このように、戦後においても大衆は乱歩の「本格もの」よりも「変格もの」を支持し、作家としても日本・海外を問わず既出のトリックがある本格推理が軽蔑されたため、乱歩だけではなく変格ものが中心に執筆され、乱歩が本意としていた本格ものはあまり反響がなかった。1954年(昭和29年)、探偵作家クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定。同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となり、推理作家の登竜門となる。1961年(昭和36年)、紫綬褒章を受章。 1963年(昭和38年)、探偵作家クラブを社団法人日本推理小説作家協会と改組し、初代理事長に就任。晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。1965年(昭和40年)7月28日、くも膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で死去。享年70。没後、正五位勲三等瑞宝章を追贈された。


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怪人二十面相や明智小五郎といった印象的なキャラクターを生み出し、日本に探偵小説の基礎を築いた巨人・江戸川乱歩。従来の推理物とは異なり、サディズムやグロテスクをトリックで彩っていく手法は大衆の心を鷲掴みにし、怪奇幻想文学史と後年の官能小説界に大きな影響を残した。しかし、当人は本格派の探偵小説を志向し、そうした作品をいくつか執筆したが、全く反響を得られなかったのは、本人にとって悲劇だったかもしれない。妖しさ漂う怪奇小説で一時代を築いた江戸川乱歩の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「平井家之墓」とあり、左側に略歴が刻まれた墓誌が建つ。戒名は、「智勝院幻城乱歩居士」。

# by oku-taka | 2022-09-19 23:34 | 文学者 | Comments(0)