人気ブログランキング | 話題のタグを見る

砂原美智子(1923~1987)

砂原美智子(1923~1987)_f0368298_12395281.jpg

砂原 美智子(すなはら みちこ)

声楽家
1923年(大正12年)〜1987年(昭和62年)

1923年(大正12年)、広島県呉市に生まれる。6歳のときに声楽とピアノを習い始め 、呉市立吾妻小学校(現在の呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京に移住。東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)を卒業し、1942年(昭和17年)に東京音楽学校へ入学。1944年(昭和19年)、東京音楽学校本科声楽科を戦時中のため9月で卒業。まもなく同級生と結婚し、一子を設けた。その後、平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)、藤原歌劇団に入団。同年、プッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。その後、ビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。わずか4年間でオペラ出演回数は43回に及び、その殆どが主役であった。1951年(昭和26年)、日本ビクターの専属歌手となる。同年、パリ音楽院に留学。1953年(昭和28年)からパリ国立オペラ・コミック座の正座員となり、以後約20年間にわたってパリを拠点にヨーロッパを中心に各地で客演公演を行い、名実ともに国際的なプリマとして活躍。特に『蝶々夫人』は当たり役となり、外国での舞台は700回を数えた。1956年(昭和31年)、伊庭歌劇賞を受賞。華やかな活躍の一方、藤原歌劇団の創始者・藤原義江と不倫の関係となり、1957年(昭和32年)にその事実が明るみになると、歌劇団の主役同士の関係ということで、当時の世間を大いに騒がせた。さらに、お互い配偶者と子供がいることから激しいバッシングに晒された。同年、チューリッヒで海外初演となる團伊玖磨『夕鶴』で、主役のつうを務めた。1959年(昭和34年)、イスラエル・ナショナルオペラと永久専属契約。この間、しばしば一時帰国して藤原歌劇団の公演に参加した。1961年(昭和36年)、日本で撮影されたアメリカ映画『青い目の蝶々さん』に声の出演を行っている。1968年(昭和43年)、武蔵野音楽大学の非常勤講師、東京声専音楽学校の講師に就任。1969年(昭和44年)、昭和音楽短期大学の教授に就任。同年、『ルカ受難曲』で芸術祭賞大賞を受賞。また、オーストラリア国立オペラの専属歌手となる。帰国後は特に日本の創作オペラに意欲を燃やし、1972年(昭和47年)には「砂原美智子オペラ生活25周年記念公演」と銘打った日本オペラ協会の清水脩モノオペラ『横笛』を初演。1973年(昭和48年)、日本オペラ協会理事に就任。1977年(昭和52年)、日伊音楽協会理事に就任。1981年(昭和56年)、藤原歌劇団より名誉団員の称号が贈られる。同年、財団法人日本オペラ振興会評議員に就任。1982年(昭和57年)、金井喜久子オペラ『沖縄物語』を最後に現役を引退。1984年(昭和59年)、昭和音楽大学教授、昭和音楽大学短期大学部非常勤講師、武蔵野音楽大学講師に就任し、後進の指導にあたった。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1987年(昭和62年)8月27日、心不全のため国立東京第二病院にて死去。逝去。享年64。没後、勲四等宝冠章を追贈された。


砂原美智子(1923~1987)_f0368298_12395418.jpg

砂原美智子(1923~1987)_f0368298_12395230.jpg

砂原美智子(1923~1987)_f0368298_12395267.jpg

藤原歌劇団を代表するプリマドンナ・砂原美智子。圧倒的な存在感と確かな実力で、日本のみならず世界の舞台でも名声をほしいままにした。藤原義江との不倫で世間を騒がせたこともあったが、後にそれが霞むほどの大活躍を見せ、最終的には国際的なプリマとして名を馳せた。現役引退後は後進の指導に力を注ぎ、多くの学校で教鞭を取った。その情熱さは凄まじく、門下生がとある宗教団体に夢中になりすぎて学業に支障が出ると、自らその施設に出向いて「私は砂原美智子です。私の弟子を返しなさい」と言って学生を取り戻したというエピソードが残っている。『徹子の部屋』出演時、「来て下さった方に私の流れている血を、何か向こうへ与えてあげなきゃいけない」と語ったように、どんな時にも熱い思いを絶やさなかった砂原美智子の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。墓には「砂原家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「馨音院釋尼智栄」。

# by oku-taka | 2025-01-19 12:41 | 音楽家 | Comments(0)

久我美子(1931~2024)

久我美子(1931~2024)_f0368298_18572834.png

久我 美子(くが よしこ)

女優
1931年(昭和6年)〜2024年(令和6年)

1931年(昭和6年)、侯爵、貴族院議員久我通顕の長女として、東京府東京市牛込(現在の東京都新宿区牛込)に生まれる。本名は、小野田 美子(おのだ はるこ)。旧姓は、久我(こが)。久我家は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む清華家の家格であり、華族の家柄である。しかし、当時の久我家は世間知らずの祖父・久我常通と父親が、高利貸しに金を借りて慣れぬ事業に手を出して失敗し家屋敷を押さえられた上に、その窮状を詐欺グループに付け込まれ、1932年(昭和7年)自邸内に事務所を置かせた欠食児童同情協会の寄付金詐欺事件で新聞沙汰になり、警視庁から厳しい取り調べを受けるなど、経済的に追い詰められていた。詐欺事件以降も久我侯爵家の生活苦は変わらず、常通は、破綻した「東日本炭砿」の取締役を一時務めていたほか、運送・倉庫会社の設立にも関わった。常通の事業失敗により、伯母(常通長女)の三千子は当時70歳の北海道の高利貸し・五十嵐佐市に嫁いだ。常通の弟で男爵久我通保の長男・久我通政も、1933年(昭和8年)に家出後の生活苦から詐欺まがいの行為を行い警察から取り調べを受けたことで翌年廃嫡された。彼の弟で家督を継いだ次男の通武(戦後は農林省キャリア官僚として活躍)も共産思想に染まり、1934年(昭和9年)に多くの華族子弟と共に宗秩寮から懲戒を受けた。このように戦前から久我家一族は分家も含め経済苦等による醜聞に次々と見舞われており、美子が戦後に映画界にデビューする前からすでに実家筋の評判は芳しくなかった。戦後になると華族制度が廃止となり、ますます実家の生活が悪化することを憂慮した美子は、家計を助けるため職につきたい一心から第一期東宝ニューフェイスに応募。見事合格となるも、実家からは「久我家の体面を汚す」と猛反対された。結局美子が「久我(こが)」姓を名乗らないことと、戸籍を母の兄の養子先である池田家に移すことを条件に芸能活動を許された。そのため、当初は池田 美子(はるこ)の名前で東宝に入ったが、東宝の希望で久我 美子(くが・よしこ)となる。1946年(昭和21年)7月、女子学習院を中退して東宝演技研究所に入所。養成期間を経て、10月に専属俳優となる。この頃、第2次東宝大争議の真っ只中で、主演級のスターが相次いで脱退したため、新人にも出演機会がめぐってくることになり、美子も製作再開第1作のオムニバス映画『四つの恋の物語』の第1話、豊田四郎監督「初恋」のヒロインに大抜擢された。同年3月には華族世襲財産法の廃止により、戸籍を元の久我姓に戻した。その後、成瀬巳喜男監督『春のめざめ』でも再び主役に起用され、1948年(昭和23年)には黒澤明監督『酔いどれ天使』に出演。同年4月には第3次東宝争議で東宝の俳優たちは独自の活動を余儀なくされ、美子も自立俳優クラブに参加する傍ら、成瀬が東横映画で撮った『不良少女』に主演。その後、松竹の渋谷実監督『朱唇いまだ消えず』、東宝の谷口千吉監督『ジャコ万と鉄』などに出演。1950年(昭和25年)にはロマン・ロランの反戦小説『ピエールとリュース』を水木洋子と八住利雄が翻案・脚色し、フリーになった今井正が監督した『また逢う日まで』に主演。戦争によって引き裂かれた恋人の姿を描き、入隊目前の大学生に扮した岡田英次とのガラス越しのキスシーンは大いに話題となった。その後、溝口健二監督『雪夫人繪圖』、黒澤監督『白痴』への出演を経て、1951年(昭和26年)に自立俳優クラブを離れて大映の専属となる。1952年(昭和27年)には市川崑監督の『あの手この手』に出演し、恐妻家の叔父の家庭での主権を回復すべく奔走する“アコちゃん”なる末恐ろしい家出娘を快演し、コメディエンヌとしての才能も開花させた。1954年(昭和29年)、フリーとなり、木下惠介監督の『女の園』をはじめ、島耕二監督『風立ちぬ』、溝口監督『噂の女』など様々なタイプの作品に主演または助演。特に『女の園』、『この広い空のどこかに』、『悪の愉しさ』、『億万長者』での演技が認められ、毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した。この『女の園』撮影中、岸と美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と美子が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案し、同年4月16日に3人は「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。資本金は50万円(当時)、代表取締役社長は、「改造社」出身で岸の従姉の夫にあたる若槻繁、設立目的は「俳優のための映画の企画をする(自由に映画を創る)」ためとした。本来は、3人らが決めた「にんじんくらぶ」を社名としたかったのだが、プロダクションであるということを説明する必要上、肩書きが付け加えられ「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の名称で登記された。当初は、3人を中心とした俳優のマネジメントを業務とする予定だったが、やりたい作品を実現させるための製作費については自ら拠出することが条件となったため、会社の定款に当初なかった「映画製作」を付け加えることとなり、独立系映画制作プロダクションとして活動した。一方、美子は主演の機会は減りつつも、1956年(昭和31年)には、木下監督『夕やけ雲』『太陽とバラ』、久松監督『女囚とともに』の演技でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。1957年(昭和32年)、五所平之助監督による、原田康子のベストセラー小説の映画化『挽歌』で久々に主演を務め、興行的に成功をおさめた。また、美子のファンであった稲垣浩監督に起用され、『柳生武芸帳』に出演。時代劇でもその演技力が発揮され、1961年(昭和36年)には同じ稲垣監督の『大坂城物語』にも出演した。この作品で共演した平田昭彦は、『酔いどれ天使』を観て以来ずっと美子に憧れを抱いており、美子は俳優と結婚する気はなかったが、平田からの猛烈な求愛の末に交際をスタート。撮影中は毎朝ロケ地の宿泊先前の喫茶店でデートを重ねたが、スタッフや共演者たちは誰も冷やかさず、週刊誌などにもゴシップとして漏らさなかったのは、平田の日頃からの人柄の良さゆえのことであった。同年秋、2人は帝国ホテルで結婚式を挙げた。また、日本テレビ『石庭』を皮切りに、次第に活動の場をテレビに移す。舞台も1964年(昭和39年)の『シラノ・ド・ベルジュラック』のロクサーヌ役で初舞台を踏んだ。1969年(昭和44年)、『3時のあなた』の司会を約1年間務める。1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍。平田とのおしどり夫婦ぶりも広く知られ、2人でバラエティー番組に出演したりしていたが、1984年(昭和59年)7月25日に平田が56歳で死去。1989年(平成元年)、五社英雄監督『226』で20年ぶりの映画出演を果たした後、大森一樹監督の『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。その後も女優活動を続けたが、2000年(平成12年)公開の映画『川の流れのように』以降はほとんど活動休止状態となった。2004年(平成16年)、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の際、久々に公の場に姿を見せた。晩年は養護施設で暮らし、亡くなる直前まで元気だったが、2024年(令和6年)6月9日、誤嚥性肺炎のため死去。享年93。


久我美子(1931~2024)_f0368298_18572816.jpg

久我美子(1931~2024)_f0368298_18572864.jpg

日本映画史に燦然と輝くヒロイン女優の一人であった久我美子。由緒ある華族の家柄に生まれながら、困窮する家庭を助けるために映画界ヘ。家族の反対に遭いながらも、その可憐な容姿と演技力は数々の名監督達がこぞって自らの作品に起用するほど確かなもので、戦後の日本映画黄金期を支える名女優となった。そんな彼女に惚れ、猛アタックの末に夫の座を射止めたのが平田昭彦だったが、56歳の若さで病死。夫を早くに亡くした久我美子は、次第に芸能界からも遠ざかっていったが、波乱な生涯を歩んできただけに、その晩年は穏やかな生活を送れたのであろうと思いたい。平田昭彦の死から40年、93歳という大往生を遂げて平田の待つ黄泉へと旅立った久我美子の墓は、東京都八王子市の善能寺にある。 墓には「南元阿弥陀佛 小野田家」とあり、右側面に墓誌が刻む。 戒名は「真妙院釋尼香美」。

# by oku-taka | 2025-01-12 18:59 | 俳優・女優 | Comments(0)

小宮豊隆(1884~1966)

小宮豊隆(1884~1966)_f0368298_18365376.jpg

小宮 豊隆(こみや とよたか)

文芸・演劇評論家
1884年(明治17年)〜1966年(昭和41年)

1884年(明治17年)、福岡県仲津郡久富村(現在の京都郡みやこ町)に生まれる。11歳で父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て、旧制第一高等学校 (現在の東京大学教養学部)に進学。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学独文科に入学。このとき、従兄の犬塚武夫がロンドン留学時に知り合いだった夏目漱石に保証人となってもらい、以後漱石の門下(木曜会)として薫陶を受ける。在学中はドイツ語の講義とともに、漱石の「文学評論」やシェイクスピアの講義も聴講する。 1908年(明治41年)、同大学を卒業。1909年(明治42年)4月、慶応義塾大学に文学部が創設されるに伴い講師に就任。この頃から、ロシア文学への興味が深まる。また、朝日新聞に文芸欄が創設され、漱石の手伝いをしながら編集に携わる。同年、『「三四郎」を読む』 で日本における西欧印象批評の方法を確立。以降、森田草平らとともに漱石門下の論客として『東京朝日新聞』文芸欄を中心に反自然主義の論陣を張る。1916年(大正4年)、東京医学専門学校の講師となる。同年に夏目漱石が亡くなると、漱石に代わって夏目家を支え、翌年からは「漱石全集」の編集・解説を担当した。1920年(大正9年)、海軍大学校の嘱託教授となる。1921年(大正10年)、芭蕉研究会に参加。1922年(大正11年)4月、法政大学の教授となる。また、東北帝国大学法文学部の独文講座を引き受ける。1923年(大正12年)、『伝統芸術研究』 を発表し、日本の伝統芸術の再評価に努める。同年3月に渡欧し、5月にベルリン到着。以後、欧州各国を歴訪した。1924年(大正13年)、帰国し、東北帝国大学の法文学部教授となる。1925年(大正14年)、松尾芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に出てくる蝉はアブラゼミかニイニイゼミかという問題を巡り、齋藤茂吉と2年越しの論争となる。小宮は「しづかさや、とか、岩にしみ入るといった表現 は、威勢のよいアブラゼミにはふさわしくない。この蝉は、ニイニイゼミであろう」と主張。結局、この句は山形県の立石寺で旧暦5月27日(新暦で7月下旬)に作られたことと、この時期に山形でアブラゼミは鳴かないことが明らかになり、齋藤は論破された。1926年(大正15年)、芭蕉俳諧研究会をスタート。1933年(昭和8年)、古典研究『芭蕉の研究』を発表。1935年(昭和10年)、『能と歌舞伎』を発表。1938年(昭和13年)、綿密な調査のもとに書き上げた伝記『夏目漱石』を発表し、漱石研究の基礎を築いた。1946年(昭和21年)、教育刷新委員・国語審議会委員となる。同年、東北帝国大学法文学部教授を定年退官。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の校長となったが、1948年(昭和23年)に同校の邦楽科を廃止する案を提出し、大きな論争を巻き起こした。小宮の主張は、邦楽は過去の芸術であり、大学で教育すべきほどのものではないゆえ、邦楽科を廃止し、代わりに邦楽研究所を設ければいいというものであり、新聞紙上でも「(邦楽が)世界の芸術の仲間入りをするためには必ず洋楽の過程を経なければならぬというのが自分の信念だ」と述べた。東京音楽学校の邦楽科は1930年(昭和5年)に設けられていたが、「それは国粋主義からであり、当時の校長乗杉嘉寿のゴリ押しによるものだ」という意見が学内にあり、小宮を支持する洋楽教授の中には「着物に白足袋はいて三味線をペンペンやられるのは目ざわり耳ざわりだ」と言う者まであった。これに対し、吉川英史や小泉文夫ら邦楽科教官や学生、卒業生らを中心にして反対運動が起き、問題は国会にまでもちこまれた。国会でも小宮は「邦楽に将来の発展性はない。琴や三味線は遊里や芝居に結びついた江戸時代の町人文化に過ぎず、国家や国民の役に立つものではない」といった邦楽を低俗とみなす内容の答弁を行なった。結果として廃止案は退けられ、音楽学校に代わって翌年新設されることになっていた東京芸術大学に邦楽科を設置する要望が文部委員会によって決議された。1949年(昭和24年)、東京音楽学校を退職。東京女子大学の講師となる。同年、俳文学会の会長に就任。1950年(昭和25年)3月、当時学習院院長だった安倍能成に招聘され、学習院大学の教授となる。以降、学習院では文学部長、学習院女子短期大学(現在の学習院女子大学)の初代学長に就任した。同年12月、文化財専門審議会専門委員となる。1951年(昭和26年)、学士院の会員に選出。1954年(昭和29年)5月、著書『夏目漱石』で芸術院賞を受賞。1955年(昭和30年)4月、財団法人都民劇場の会長に就任。同年7月、国立劇場設立準備協議会の会長を委嘱される。1957年(昭和32年)3月、学習院大学を退職。同年4月、東京都教育委員となる。1958年(昭和33年)、「世阿弥の芸術」を御進講する。1959年(昭和34年)、東京都教育委員を辞任。1960年(昭和35年)、東大病院に入院し、手術を受ける。1966年(昭和41年)5月3日午前4時、肺炎のため東京都杉並区の自宅で死去。享年82。


小宮豊隆(1884~1966)_f0368298_18361290.jpg

小宮豊隆(1884~1966)_f0368298_18364487.jpg

昨年に生誕140年を迎えた小宮豊隆。夏目漱石門下から漱石研究の第一人者となり、特に評伝『夏目漱石』は学術的な側面からも高く評価された。漱石への敬愛は凄まじく、全てを肯定して批判を一切許さない信奉っぷりは、内田百閒から「漱石神社の神主」と揶揄されるほどであった。その一方、能や歌舞伎、俳句などの伝統芸術にも造詣が深く、中でも初代中村吉右衛門を早くから評価し、その世界においても名を残した。今なお『三四郎』のモデルとして名高い小宮豊隆の墓は、東京都八王子市の南多摩霊園と福岡県京都郡の峯高寺にある。前者の墓には「小宮豊隆」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「誠信院殿聖譽善岳賢道居士」。

# by oku-taka | 2025-01-12 18:39 | 評論家・運動家 | Comments(0)

黒川利雄(1897~1988)

黒川利雄(1897~1988)_f0368298_22285661.jpg

黒川 利雄(くろかわ としお)

医師
1897年(明治30年)〜1988年(昭和63年)

1897年(明治30年)、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現在の三笠市幾春別町)に生まれる。実際の誕生日は、前年の12月25日だが、年末の多忙、深い積雪のせいで届出が年を越したという。幾春別尋常高等小学校高等科を卒業後、父は商人にさせるため小樽の北海商業に入学させようとしたが、どうしてもその気になれず無断で私立北海中学(現在の北海高校)に願書を出して入学。1914年(大正3年)3月に同校を卒業。母と姉が結核だったことと小学校の校医に憧れたことから、同年9月に北海中学で私淑していた英語担当の佐々木哲郎先生に勧められた仙台の第二高等学校第三部医科に入学。1917年(大正6年)7月、東北帝国大学(後の東北大学)医科大学に入学。2年生のとき腸チフスに罹患し、大学付属病院に1か月半入院。その後鳴子温泉で療養したため1年留年となったが、1922年(大正11年)7月に卒業。卒業後、直ちに副手として山川内科教室(山川章太郎教授)に入局。本来は病理学を専攻したかったが、親友の内山泰(岩手医科大学病理学教授)も病理学志望だったことから競争を避けて内科を専攻した。1923年(大正12年)、関東大震災の際に東北帝国大学医学部が上野に設置した救護班(班長:山川章太郎教授)に参加し救護活動を行った。1927年(昭和2年)5月、東北帝国大学医学部の助教授に就任。また、学位論文「糖質代謝の基礎的研究、ことに血中注入後の葡萄糖の運命」で医学博士の学位を授与される。1932年(昭和7年)4月、内科学研究のため文部省官費留学生として渡独。ハイデルベルク大学(薬理学ホイプナー教授)で学んだ後、同年8月ウィーン大学(生化学フェルト教授)に移り、核酸に関する研究を行う。さらに、同大学臨床放射線学(ホルツクネヒト教授)教室でプレッサー講師の指導により消化管レ線診断学を学ぶ。1934年(昭和9年)7月に帰国後は直ちに消化管レ線診断法の改良に取り組み、瞬間狙撃撮影装置を試作、次いで連続狙撃撮影装置を完成させた。当時、胃癌の診断は専ら触診に基づいていたが、この装置によりレ線による診断を可能とした。特に胃癌をレ線診断学的に4分類し、その臨床症状と手術適応及びその予後との関係を明らかにし、手術成績向上に貢献した。同時に、レ線診断に用いる造影剤、撮影装置・方法についても改良を加えたほか、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、慢性腸重積症のレ線診断法を確立し、消化管レ線診断学の発展に寄与した。1936年(昭和11年)、山川教授との共著『消化管ノ レントゲン診断』を刊行。1939年(昭和14年)、日本消化機学会総会で特別講演「レ線像ヨリ分類サルル胃癌ノ型ト其ノ臨床的特徴」を行う。1941年(昭和16年)3月、山川教授の逝去に伴い後任教授に選考され、内科学第三講座(黒川内科教室)を主宰。1942年(昭和17年)、日本内科学会総会、日本消化機病学会総会ならびに日本外科学会総会の合同宿題報告「胃及ビ十二指腸潰瘍ノ診断」を行う。1943年(昭和18年)11月、汪兆銘(南京政府主席)夫人の陳璧君に胃癌の疑いが生じ、陸軍省医務局の依頼で極秘裡に南京に出張。その際に汪兆銘の糖尿病などについても診療を行った。1944年(昭和19年)2月、背部銃弾摘出手術を行った汪兆銘に両側下肢の運動麻痺が生じ、再度南京に赴いた。その後、名古屋帝国大学医学部外科の斎藤眞教授に応援を依頼。斎藤教授は診察を終えると、即座に汪兆銘に来日して入院するよう指示。同年3月、汪兆銘は名古屋帝大病院に入院し、詳細な再検査の結果、多発性骨髄腫と診断された。体内に残った弾を摘出したものの弾が腐蝕して悪影響を及ぼしたのが原因と考えられ、患部には腫れがあり、周囲を圧迫するところから、入院翌日には第4および第7胸椎の椎弓を切除する手術を行った。しかし、病状は悪化の一途をたどり、同年11月10日に死去。この間、延べ10ヶ月間にわたって大学を離れて汪兆銘の診療に没頭し、その間の記録を約300枚(400字詰め原稿用紙換算)残している。1948年(昭和23年)、東北大学医学部長に就任し、二期務める。1952年(昭和27年)、約6ヶ月間にわたりロックフェラー財団招聘の医学教育視察団(草間良男団長ら6名)として米国、カナダの22大学で、アメリカ医学教育の現状を視察。1957年(昭和32年)、学長選挙により初の東北大学出身者として第10代東北大学学長に就任。在任中は学長任期を2期6年とする内規を定めた。また、東北大学総合整備計画として、仙台市の「川内・青葉山地区キャンパス移動事業」を立案。川内地区に関しては、東北大学、宮城県(大沼康知事)、仙台市(島野武市長)の三者協議の結果、それぞれ33.9万平米 (48.6%)、24.1万平米 (34.5%)、2.2万平米 (3.2%) に分割された。東北大学創立50周年事業として、川内記念講堂と松下会館(松下幸之助寄贈)を建造した。一方、青葉山地区(200万平米)のほぼ半分(109万平米)は、既に農地として戦後入植した30戸の開拓者に使用されており、青葉山開拓地解放推進委員会による反対運動が生じて紛糾したが、学長として自ら農家への長期間に渡る説得活動を続けた結果、約2年後に宮城県の斡旋により立ち退きが終わり、東北大学総合整備計画が完了した。一方、1955年(昭和30年)頃から、当時黒川内科在籍の西山正治、長谷川昭衛の協力を得て、胃癌集団検診用機器の製作に着手。1958年(昭和33年)に「黒川・西山式がん診断狙撃装置」を作成した。同年8月、日本対がん協会が発足され、翌月には都道府県として初の宮城県対がん協会が設立されて初代会長に就任した。1959年(昭和34年)、1か月間にわたって西ドイツ招聘の学術視察団(兼重寛九郎団長ら10名)として渡独し、医学教育体制の現状を視察。1960年(昭和35年)、大学、医師会、自治体、経済界の協力を得て胃集団検診車「日立号」を用いた日本で最初の「宮城方式」胃がん集団検診を開始。この功績により、10年後に宮城県対がん協会は河北文化賞を受賞した。1963年(昭和38年)、東北大学の学長を退官し、同大学の名誉教授となる。同年、胃癌の研究に関する集大成を日本医学会総会特別講演「日本人の胃癌」として発表。また、癌研究会癌研究所の所長であった吉田富三の要請を受け、癌研付属病院院長に就任。その後、名誉院長として91歳で急逝するまで週二回の外来、回診などを継続した。1965年(昭和40年)、日本学士院会員に選出。同年、日米医学協力委員会の委員長に就任。1968年(昭和43年)、文化勲章を受章。また、文化功労者にも選出された。1973年(昭和48年)、第2次田中角榮内閣による「一県一医大構想」において、医科大学・医学部72校設置調査会議長としてその実現に貢献した。同年、東京都公安委員となり、以後15年間務める。1974年(昭和49年)、勲一等旭日大綬章を受章。同年、医道審議会の会長に就任。1976年(昭和51年)、尚志会(旧制第二高等学校同窓会)の会長に就任。1985年(昭和60年)、日中医学協会の会長に就任。1986年(昭和61年)、日本学士院の第19代学士院長 に就任。1987年(昭和62年)9月15日にはNHKで『100歳までフロンティア精神で―がん博士・黒川利雄―』が放送されるなど、晩年まで精力的に活躍していたが、1988年(昭和63年)2月21日午後6時12分、急性心不全のため三鷹市の杏林大学付属病院にて死去。享年91。没後、正三位を追贈された。

黒川利雄(1897~1988)_f0368298_22272239.jpg

黒川利雄(1897~1988)_f0368298_22272224.jpg

今や馴染みの深いものとなった「がん検診」。このシステムを提唱し、日本初となる胃がんの集団検診を実施したのが黒川利雄である。このほか、レントゲンや内視鏡による診断法を確立するなど、日本の医療界に大きく貢献した。そうした功績は、東北大学出身者として初となる東北大学の学長就任、歴代で初となる東京大学出身以外の日本学士院長就任といった形で結実した。母と姉を結核で失ったことから歩み始めた医師としての人生、90歳になっても現役として立ち続け、「何とか2001年まで生きて、3世紀に渡って生き延びたい」と語っていたという黒川利雄の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。洋型の墓には「黒川家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「慈光院釋利行居士」。なお、医学研究者である長男・黒川雄二も、2022年(令和4年)9月21日に亡くなっているそうである。

# by oku-taka | 2025-01-01 22:31 | 医師 | Comments(0)

佐山俊二(1918~1984)

佐山俊二(1918~1984)_f0368298_22173681.jpg

佐山 俊二(さやま しゅんじ)

喜劇俳優
1918年(大正7年)〜1984年(昭和59年)

1918年(大正7年)、北海道登別市に生まれる。本名は、中江 勇。旧制室蘭尋常高等小学校(現在の室蘭市立本室蘭小学校)卒業後に上京して、1938年(昭和13年)にタップダンサーとして初舞台を踏む。1943年(昭和18年)、「佐山俊二一座」を旗揚げし、コメディアンに転身。1944年(昭和19年)には「劇団新生座」を旗揚げした。戦後は浅草オペラ座、ロック座などに出演したあと、浅草フランス座に入り、八波むと志と「あらいやだコンビ」を結成。しかし、1956年(昭和31年)に由利徹、南利明と八波が脱線トリオを結成したが、八波が抜けるときの代打として佐山が舞台に立つことがあった。1957年(昭和32年)1月13日、富士映画が製作、新東宝が配給した富井照三監督の『女護が島珍騒動』で映画に初出演。主演も務めた。以後、独特の軽妙さやおとぼけの演技で人気となり、軽演劇界の“お父ちゃん”と親しまれた。1984年(昭和59年)1月15日、舞台『初春浮世まくら』公演中の夜に脳出血のため倒れ、同年1月30日に愛知県名古屋市昭和区の名古屋第二赤十字病院で死去。享年65。


佐山俊二(1918~1984)_f0368298_22173730.jpg

佐山俊二(1918~1984)_f0368298_22173667.jpg

おとぼけキャラを見事に演じた喜劇俳優・佐山俊二。由利徹や南利明らと軽妙な掛け合いを見せたほか、『男はつらいよ』シリーズにもあらゆる役柄で出演。特に備後屋として出たときは、車寅次郎から「備後屋!相変わらずバカか?」と言われ、それに負けじと応戦する姿は大変可笑しかった。確かな実力を持ちながら、65歳で突然この世を去ってしまった佐山俊二の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。墓には「中江家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「淨行院修道日勇居士」。

# by oku-taka | 2025-01-01 22:20 | 俳優・女優 | Comments(0)