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村下孝蔵(1953~1999)

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村下 孝蔵(むらした こうぞう)

シンガーソングライター
1953年(昭和28年)〜1999年(平成11年)

1953年(昭和28年)、熊本県水俣市浜町仲之町通りに生まれる。1959年(昭和34年)、一家で鹿児島県出水市本町商店街に転居したが、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻る。この頃、姉とともにロカビリーに夢中となり、日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にするようになる。また、エレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがてベンチャーズに夢中となった。1965年(昭和40年)、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキ・ギターも持つ」と言うようになる。かねてから両親にエレキ・ギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで、加山のギターをモデルにラワン材を使って1ヵ月がかりでギターを自作。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという。中学の2年生のとき、父から「ベンチャーズの曲をちゃんと弾けたらギターを買ってやる」と条件を出され、友だちのギターを借りて猛練習し、「ダイアモンド・ヘッド」を父の前で演奏。結果、日本製のグヤトーンのエレキ・ギターを買い与えられた。1969年(昭和44年)、憧れだったモズライト・ギターを父から買い与えられる。その後、阿蘇市に転居。小学校4年のときに『海の若大将』を観て感動し、中学時代から競泳の平泳ぎの選手として活躍。オリンピックを目指し、水泳部の特待生として鎮西高等学校体育科に入学。寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した。1971年(昭和46年)、鎮西高等学校を卒業。大学進学を諦め、得意の水泳でスカウトされた実業団・新日本製鐵八幡製鐵所に入社する。しかし、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたが、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められて入部。宴会部長として活躍するが、ハワイアンが自身の音楽志向に合わず、同年9月に退職。当時父が広島市に転居していたことから、村下も広島フォーク村がありフォークの聖地とも言われていた広島に移り、音楽中心の生活を目指す。1972年(昭和47年)、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入学。当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォーク・ギターを持たなければ仲間が作れなかったことから、エレキ・ギターをフォーク・ギターに持ち替え、学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成する。同年夏、自主制作シングル『ひとりぽっちの雨の中』を発表。日本デザイナー学院広島校を卒業後、ヤマハ広島店に就職。1975年(昭和50年)からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。その後、偶然観た村下の演奏に惹かれた中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターが、『たむたむたいむ』のラジオパーソナリティに村下を推薦。同番組で当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む。1978年(昭和53年)には那須が担当していた全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼ぶ。1979年(昭和54年)、ラジオ番組『ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局』の音楽コーナーを担当。プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励む。同年、ヤマハを退社。7月25日、自費制作アルバム 『それぞれの風』を発表。この頃には第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていたが、『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募するも受賞はならなかった。その後、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBS・ソニー(現在のソニー・ミュージック)の全国オーディション「第1回CBS・ソニーSDオーディション」に応募。CBS・ソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップのアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBS・ソニー社内でも意見が分かれた。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた当時のディレクター・須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声の良さは誰もが認めるところで、須藤の押しや、中国放送がバックアップしていたこともあり、グランプリを獲得。1980年(昭和55年)5月21日、シングル 『月あかり』でプロデビューした。プロとなった後もテレビ出演はせず、広島を拠点にライブ活動を地道に続ける。1981年(昭和56年)1月にリリースされた2枚目シングル『春雨』は、地道なプロモーションを重ねてチャート最高位58位を記録し、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクインした。1982年(昭和57年)発売の『ゆうこ』は、北海道札幌の有線で火がついて全国的ヒットになり、チャート最高位23位を記録。約7か月半にわたってチャートインした。1983年(昭和58年)、シングル『初恋』がオリコンチャートで最高3位を記録する大ヒット。同曲はリリース直後にアイドルの三田寛子とプロ野球選手の田尾安志によりCMでもカバーされ、知名度を高めるきっかけとなった。この曲の発売の前後に全国キャンペーンなどのハードスケジュールが原因で肝炎を患い、多くのイベント、番組出演などをキャンセル。これが原因で広島と東京の往復ができなくなり、1984年(昭和59年)末に生活の拠点を東京に移した。その後も『踊り子』、『少女』と立て続けにヒット曲を飛ばし、同年秋からは全国ツアーを開始した。しかし、1985年(昭和60年)に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。1987年(昭和62年)、全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。同年9月、シングル『陽だまり』が『めぞん一刻』の主題歌の一つとして起用される。その後もコンスタントにシングルやアルバムを発表するとともに、高田みづえ、裕木奈江、柳葉敏郎、中原理恵らに曲を提供。また、バイオリニストの天満敦子とジョイントコンサートを行い、クラシックとポピュラー音楽との融合を図るなど、新しい領域にも積極的に挑戦した。1999年(平成11年)6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に「気分が悪い」と体調不良を訴える。当初は救急車も呼ばず、スタッフ付添のもと自力で虎ノ門病院を訪れていたが、診察でCTの装置に入った時点で意識不明の昏睡状態に陥った。診察の結果「高血圧性脳内出血」と判明し、医師の所見では、当初1週間ほどで回復して日常に戻れると言われていた。その後、脳内出血が再発し、6月24日に死去。享年46。


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歌う吟遊詩人・村下孝蔵。どこか儚い旋律と美しい日本語の歌詞で評価され、抒情派フォークの流れを汲むシンガーソングライターとして支持を集めた。しかし、その哀愁を帯びたメロディーと素朴な歌声は、フォークからニューミュージックに流行が移った当時の音楽界にはあまりマッチせず、大きなヒットは『初恋』と『踊り子』のみとなってしまった。『冬物語』『青い嵐』『私一人』といった名曲もあり、他のアーティストに曲を提供することもあったが、いずれもヒットには至らなかったのは残念であった。高い音楽性で切なさの極みを歌い続けた村下孝蔵の墓は、茨城県筑波市の筑波茎崎霊園にある。墓には「南妙法蓮華経」とあり、左側には墓誌とレコード会社関係者から寄せられたメッセージが刻まれた碑が、右側に村下を模した「ギター地蔵」と村下の略歴が刻まれた碑が建つ。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」。

# by oku-taka | 2024-03-24 14:02 | 音楽家 | Comments(0)

高柳健次郎(1899~1990)

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高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう)

科学者
1899年(明治32年)〜1990年(平成2年)

1899年(明治32年)、静岡県浜名郡和田村(現在の静岡県浜松市中央区安新町)に生まれる。尋常小学校時代、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモンストレーションに感銘を受ける。13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知り、通信に興味を抱くようになる。その後、静岡師範学校を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所に入学。在学中は初代の東京工業大学学長となる中村幸之助氏の薫陶を受ける。1921年(大正10年)、同校を卒業。神奈川県立工業学校(現在の神奈川県立神奈川工業高等学校)の教諭を勤めながら、米英独仏4ヵ国の専門誌を数誌ずつ3年分購読予約し、ドイツ語やフランス語を夜学で勉強。電気通信の分野において情報収集に勤しむ。この頃、アメリカのウェスチングハウス(Westinghouse Electric Corporation)がピッツバーグでラジオ局を開局し、多くの人に音楽や会話を同時に聞かせる「放送」が行われていた。これを受け高柳は、「遠くに映像を送る手段を発明できないか」と案を練っていたところ、ラジオ受信機の上に額縁のようなものが乗り、中で女性歌手が歌っている「テレビジョン」という構想が、フランスの専門誌にイラストで示されているのを発見。この「テレビジョン」の発明を決意し、1923年(大正12年)には「無線遠視法」として提唱した。しかし、1924年(大正13年)9月1日の関東大震災で神奈川県立工業学校が被災。そのため、1924年(大正13年)に郷里の浜松にできたばかりの浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)に助教授として着任した。並行して「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始。しかし、予算の凍結によって一度は頓挫。そこで、芝浦製作所(現在の東芝)に交渉し、実験の協力を依頼。1926年(大正15年)12月25日、石英版に書いた「イ」の字の映像を機械式の円形撮像装置で読み取って、電子式のブラウン管に送り、映像を映し出すことに成功。。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。1927年(昭和2年)、文部省の自然科学研究奨励費の対象となり、同年6月には特許権を取得。同年11月28日、電気学会主催の発表会が開かれ、無線による映像の送受信を実演した。1930年(昭和5年)、静岡を訪れていた昭和天皇の御前で、より鮮明な映像をブラウン管に映し出す実験に成功。これを機会に浜松高等工業学校の教授に昇格し、「テレビジョン研究施設」としての子算計上、大勢の研究貝を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現した。当時、テレビの開発は世界各地で同時に行われており、その方式は大きく分けて機械式と電子式の2つがあった。機械式は円形板に渦巻き状に小さな穴をたくさん開けて回転させた映像をコマ送りで送り、同じように穴を開けた円形版を通して映像を映し出す方式で、こちらの方が先行していたが、高柳は巨大な真空管=ブラウン管を使って映像を再生する電子式の方に将来があると確信。電子式の撮像管作りに苦闘する高柳は、同時期にテレビの開発を進めていた米国RCA社(Radio Corporation of America)のツヴォルキン(Vladimir Koz'mich Zworykin)と連絡をとって渡米。ツヴォルキンが考案した電子式の撮像管アイコノスコープは圧倒的に綺麗な映像を送ることができ、開発予算もケタ違いであることに驚嘆。これを受け、高柳はオリジナルのアイコノスコープを開発した。1937年(昭和12年)、浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。研究室では東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが、日中戦争の激化等で1938年(昭和13年)に東京オリンピックの中止が決定。テレビの研究も中断させられ、レーダーや奮龍の誘導装置など、軍事関連の研究をすることになった。終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するが、GHQの指令によりテレビの研究を禁止させられる。また、軍属だったことが災いとなり、公職追放となった。1946年(昭和21年)、日本ビクターに弟子と共に入社。自身が中心となり、NHK、シャープ、東芝と共同で再びテレビ開発に没頭する。同年、産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織された「テレビジョン同好会」の委員長に就任。同学会はその後文部省認可の社団法人「テレビジョン学会」(後の映像情報メディア学会)に改組された。1952年(昭和27年)、日本のテレビ放送標準式の検討で、カラー化を視野に入れた周波数7メガへルツ幅の採用を主張。しかし、郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案準拠を主張し、結局アメリカ技術が優秀との先入観と早期事業化への便宜を優先した「6メガ派」が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となる。1953年(昭和28年)1月、シャープから国産第1号の白黒テレビが発売。 同年2月に日本放送協会(NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は富裕層がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網(日本テレビ・日テレ)が広告料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で街頭テレビを設置。当時の看板番組で、力道山戦などのプロレス中継、巨人戦が主のプロ野球中継、大相撲中継などのスポーツ中継に人が集まり、喫茶店や銭湯などにも家庭用テレビが業務用途に設置する動きも見られるようになった。1959年(昭和34年)には皇太子明仁親王の成婚パレードが中継され、これを境にテレビの普及が進んだ。1950年代後半から1960年代初頭までには、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようになった。一方の高柳は、1955年(昭和30年)4月に紫綬褒章を受章。1956年(昭和31年) 12月にはNHKでカラーテレビの実験放送が開始。以降はカラーテレビ改良に尽くし、1959年(昭和34年)に世界初の 2ヘッドVTRを開発。翌年には放送用2ヘッドカラーVTRも開発。日本のカラーテレビを世界最高水準のレベルに高め、代表的輸出商品としての急成長に貢献した。1961年(昭和36年)5月、国際無線通連合(ITU)第1回世界TV祭でRCAのサーノフとともに功労者表彰を受ける。同年11月、日本ビクター専務取締役に就任。1963年(昭和38年)4月、世界最小VTR「KV200」を開発。1970年(昭和45年)11月、日本ビクター代表取締役副社長に就任。1973年(昭和48年)11月、日本ビクター技術最高顧問に就任。1974年(昭和49年)2月、科学放送振興協会理事長に就任。1974年(昭和49年)11月、勲二等瑞宝章を受章。1980年(昭和55年)11月3日、文化功労者に選出。1981年(昭和56年)11月3日、文化勲章を受章。1984年(昭和59年)10月、高柳記念電子科学技術振興財団を設立し、理事長に就任。電子科学技術の振興のため、高柳健次郎賞、高柳健次郎業績賞、研究奨励賞、科学放送高柳賞を制定した。1987年(昭和62年)7月、米国アラバマ州立大学の名誉教授となる。1988年(昭和63年)10月、米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に推挙。1988年(昭和63年)11月、静岡大学の名誉博士を与えられる。1989年(平成元年)4月、勲一等瑞宝章を受章。1990年(平成2年)7月23日、肺炎により死去。享年91。


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今や一家に一台が当たり前となったテレビを生み出し、「テレビの父」と称された高柳健次郎。テレビはおろかラジオも開局していなかった頃から「テレビジョン」の研究に力を注いできた。世界で初めてブラウン管に映し出したかの有名な「イ」の字は、大正時代に行った実験の結果というから驚かされる。世界で最初にテレビジョンの開発に成功という偉業を成し遂げながらも決して威張らず、その温厚さと穏やかな話し方が印象的であった高柳健次郎の墓は、静岡県浜松市の妙恩寺にある。五輪塔の墓には「高柳家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「暁覺院創造興谷日健人居士」。

# by oku-taka | 2024-03-17 11:01 | 学者・教育家 | Comments(0)

藤田まさと(1908~1982)

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藤田 まさと(ふじた まさと)

作詞家
1908年(明治41年)〜1982年(昭和57年)

1908年(明治41年)、静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。本名は、藤田 正人。1918年(大正7年)、小学校3年を修了と同時に旧満州の遼寧省大連へ渡り、私塾「振東学社」に入る。その後、大連商業学校に進学。在学中は柔道・野球を得意とし、中等野球全国大会「甲子園」にも出場した。1926年(大正15年)、大連商業学校を卒業。内地に戻り、明治大学に入学したが、1928年(昭和3年)に3年生で大学を中退。「野球」が縁で日本ポリドール蓄音機株式会社に入社し、文芸部に配属。外国解説文の翻訳にあたる。1929年(昭和4年)、社長命令で『ウエートレスの唄』(四家文子)を書き、創作活動にはいる。1930年(昭和5年)、処女詩集『太陽が雲の中で苦笑した話』を出版。1933年(昭和8年)、小唄集「ボクの街」を出版。1935年(昭和10年)、制作課長に就任。同年、『旅笠道中』(東海林太郎)、『大江戸出世小唄』(高田浩吉)、『明治一代女』(新橋喜代三)と手がけた曲が次々に大ヒットとなり、一躍人気作詞家となる。1936年(昭和11年)、文芸部制作部長兼専属芸術室長に就任。1938年(昭和13年)、文芸顧問兼専属作詩家となり、11月には『麦と兵隊』(東海林太郎)を発表。1940年(昭和15年)、戦争詩集『征旅の人々』を出版。1941年(昭和16年)、東海林太郎、作曲家の長津義司とともにテイチク専属となるが、1944年(昭和19年)に退社。1946年(昭和21年)、東京タイムズの運動部嘱託記者となる。親友・サトウハチローの「『リンゴの唄』が大ヒットしても作家がむくわれないのは不合理だ」との話から大日本音楽著作権協会常務理事に就任し、著作権問題と対峙する。同年、再度テイチクの専属となるが、1947年(昭和22年)に退社し、ポリドールにカムバックした。同年、日本音楽著作衆組合を結成し、古賀政男とともに副委員長となる。1951年(昭和26年)、マーキュリーに移籍。また、旧著作権法第30条1項8号の撤廃運動に着手する。1953年(昭和28年)、三たびテイチクに移籍。1954年(昭和29年)、第二次世界大戦後、ソ連による抑留からの引揚船で、引揚港の桟橋へ帰ってくる息子の帰りを待つ端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じて『岸壁の母』を作詞。歌手には専属の菊池章子が選ばれ、藤田にとって久々の大ヒットとなった。その後も『親子舟唄』(田端義夫・白鳥みづえ)、『面影いずこ』(白根一男)などのヒットを手がけたが、1956年(昭和31年)に日本グラモフォンへ移籍。1959年(昭和34年)、再びテイチクに移籍。翌年、『お吉物語』(天津羽衣)を手がけて大ヒットとなる。1969年(昭和44年)、紫綬褒章を受章。1970年(昭和45年)、念願であった著作権法案が国会において可決し、翌年1月1日から「新著作権法」が施行。1973年(昭和48年)には日本音楽著作家連合会の会長に就任した。1978年(昭和53年)、勲三等瑞宝章を受章。1979年(昭和54年)、71歳で自分のレコードを出し、歌手としてもデビュー。1982年(昭和57年)8月16日、心不全のため東京・池上の島田総合病院にて死去。享年74。没後、作詞した『浪花節だよ人生は』が大ヒット。もともと小野由紀子のシングルのB面曲として発表されたが、この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという二代目木村友衛が生前の藤田に直訴。地道なキャンペーンの努力が実り、徐々に人気を獲得。これを受けて歌手16人、レコード会社13社による競作としてレコードが制作され、1984年(昭和59年)にその人気は最高潮に達した。同年大晦日の第26回日本レコード大賞では細川たかしが最優秀歌唱賞、木村が特別賞を受賞し、同日の第35回NHK紅白歌合戦では水前寺清子と細川による同曲対決が行われた。


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戦前から戦後にかけ、多くのヒット曲を生み出した作詞家の藤田まさと。戦前はポリドールの専属作詞家として、東海林太郎、新橋喜代三、上原敏といった歌手をスターに押し上げるとともに、「股旅もの」という新たなジャンルを確立した。また、映画俳優であった高田浩吉の美声を活かし、日本初の歌う映画スター誕生に貢献したことは特筆すべき点である。戦後は人の生き様をそれまで以上に描き、『岸壁の母』『傷だらけの人生』といった歌謡史に残る大ヒット作を世に送り出した。50年以上にのぼる作詞家生活において、各年代で大きなヒット曲を持ち、かつ没後にも手がけた曲が大ヒットとなるという、非常に稀有な作詞家であった藤田まさとの墓は、静岡県牧之原市の照国寺にある。墓には「藤田家の墓」とあり、訪問時にはなかったが近年になって左側に墓誌も建立された。戒名は「大光院壽德正詠居士」。

# by oku-taka | 2024-03-12 23:29 | 音楽家 | Comments(0)

小川国夫(1927~2008)

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小川 国夫(おがわ くにお)

作家
1927年(昭和2年)〜2008年(平成20年)

1927年(昭和2年)、静岡県志太郡藤枝町長楽寺(現在の藤枝市本町)に生まれる。1934年(昭和9年)、青島小学校に入学。1938年(昭和13年)、肺結核に腹膜炎を併発し入院。3ヶ月後に自宅療養となり、1941年(昭和16年)に復学するまで安静療養状態が続いた。この自宅療養の時期に相当量の読書をしたことが、その後の人生に影響を与えることになる。1942年(昭和17年)、旧制志太中学校(現在の藤枝東高等学校)に入学。学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通う。1946年(昭和21年)、旧制静岡高等学校(静岡大学の前身校の1つ)文科乙類に入学。この頃、カトリックの洗礼を受ける。洗礼名は、アウグスチノ。1950年(昭和25年)、東京大学文学部国文科に入学。1953年(昭和28年)、「東海のほとり」を『近代文学』に発表。同年10月にはフランスへわたりパリ・ソルボンヌ大学に3年間私費留学。1954年(昭和29年)7月、グルノーブル大学へ移籍。スペイン、北アフリカへ、単車のヴェスパで旅行する。同年12月、スイスへ旅行し、フライブルクの修道院に24日間滞在。1955年(昭和30年)7月、イタリア、同年9月ギリシアへそれぞれ40日間の単車ヴェスパにて旅行。10月下旬にパリへ出て滞在。1956年(昭和31年)3月からドイツ、オーストラリア、イギリスを旅行する。同年7月、フランス留学を終えて帰国。東京大学には復学せず、そのまま創作活動に入る。1957年(昭和32年)、丹羽正、金子博等と共に同人雑誌『青銅時代』を創刊。第1号に「アポロンの島」と8つの短編を発表する。1957年(昭和32年)10月、ヨーロッパを放浪した体験を自伝風に描いた『アポロンの島』を私家版で刊行。全く売れずにいたところ、1965年(昭和40年)6月に同作を唯一買った島尾敏雄が突然小川家を訪問。同年9月5日の『朝日新聞』「1冊の本」欄で、『アポロンの島』を島尾が激賞する。これが契機となり、1966年(昭和41年)から商業雑誌に登場。1969年(昭和44年)、『ゲヘナ港』が芥川賞候補にされるが辞退。その後、『或る聖書』、『試みの岸』、『彼の故郷』など、簡潔な文体で光と影の原初的光景の中に人間の行為を映し出した作品を発表し、内向の世代を代表する作家となった。1986年(昭和61年)、『逸民』で川端康成文学賞を受賞。1990年(平成2年)4月、大阪芸術大学文芸学科の教授に就任。平家物語、芭蕉、芥川などを講じる。後に創作演習ゼミ、卒業制作ゼミを担当し、学生に小説の書き方を教える傍ら、同大学発行の文芸雑誌『河南文学』『河南文藝文学篇』の編集人を務めた。1994年(平成6年)、『悲しみの港』で伊藤整文学賞を受賞。1999年(平成11年)、『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞を受賞。2000年(平成12年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院会員に選出。2006年、旭日中綬章を受章。2008年(平成20年)4月8日、静岡市内の病院で肺炎のため死去。享年80。


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「内向の世代」を代表する作家の一人、小川国夫。30歳の時に自費出版した『アポロンの島』は一冊も売れず、その8年後に島尾敏雄から絶賛され、突如として文壇に登場。以降、非現実や抽象に基づくイメージを簡潔な文体で描き、郷里の静岡県や地中海を舞台にした作品やキリスト教を主題とする作品を発表し続けた。若い頃は賞嫌いとして知られ、晩年まで静岡県からは離れなかったことなど、目立つ活動から距離を置いていた寡黙な作家・小川国夫の墓は、静岡県島田市の敬信寺にある。3基ある墓のうち、小川国夫が納骨されている墓には「南無阿弥陀仏」とあり、左側に墓誌が建つ。なお、20歳でカトリックの洗礼を受けていることから戒名はなく、洗礼名アウグスチノも刻まれていない。

# by oku-taka | 2024-03-03 11:50 | 文学者 | Comments(0)

村田英雄(1929~2002)

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村田 英雄(むらた ひでお)

歌手
1929年(昭和4年)〜2002年(平成14年)

1929年(昭和4年)、浪曲師の広沢仙遊と曲師の子として、福岡県浮羽郡吉井町(現在のうきは市)に生まれる。本名は、梶山 勇。生後まもなく母の姉弟子の養子となり、その養母が浪曲師の浪花綱若と結婚したことに伴い、佐賀県東松浦郡相知町(現在の唐津市)へ引っ越す。4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり、巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』で初舞台を踏む。その後、当時大人気だった浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となって大阪・道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入り。当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し、修行を開始する。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらう。13歳で真打に昇進。14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、“天才少年浪曲師”として九州を中心に巡業。1945年(昭和20年)、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。同年6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。1947年(昭和22年)、少女浪曲師の吉田伊万里と結婚。1949年(昭和24年)、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現在の新栄プロダクション)社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)宛てに自ら手紙を書いてマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意し、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京。1952年(昭和27年)、浪曲新人最優秀賞を受賞。1953年(昭和28年)、村田英雄に改名。同年、NHKの新人賞であった桃中軒雲右衛門賞を受賞。1954年(昭和29年)、NHKとの専属契約を蹴り、文化放送での毎日15分の連続歌謡浪曲に出演する契約を結ぶ。数年後に妻子を呼び寄せたが、当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していた。その後、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。1958年(昭和33年)、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)。同曲で日本コロムビアから歌手デビューを果たした。しかし、当時はヒットに恵まれず、1959年(昭和34年)に『人生劇場』がリバイバルブームにのってわずかにヒットしたのみであった。そのため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家でフランス文学者の西條八十邸を訪問。当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり、「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」という文言が作詞された。始めの文言が完成した20日後には、全ての詞が完成。1961年(昭和36年)9月に発売された歌謡浪曲のLPの挿入歌として『王将』が発表され、11月にはシングルカット。これがミリオンセラーとなり、NHK紅白歌合戦に初出場。以降、通算27回の出場を果たした。1962年(昭和37年)、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。『王将』のヒットで、以前に出した『無法松の一生』『人生劇場』なども相乗効果でヒット。その後も『柔道一代』『花と竜』とヒットを放ち、男の世界を歌う独自のスタイルで人気を確立。また、二階堂伸、北くすをのペンネームで作詞・作曲もこなした。1963年(昭和38年)、鶴田浩二と意気投合して映画界に誘われ、東映の任侠映画で鶴田や高倉健らと共演。身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。北島三郎と組んだ『兄弟仁義』や『男の勝負』シリーズもあったが、2代目中村鴈治郎から「歌の仕事がある身でよくこうして映画に出ていられるなあ」と言われたことがきっかけで、その後は一切出演しなかった。1971年(昭和46年)、東芝EMIに移籍。1973年(昭和48年)、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであったことから35歳で発症していた。その後、復帰を果たしたが、ヒットがなく低迷期となる。1979年(昭和54年)、12年前に発売した『夫婦春秋』が有線放送からヒットし、相乗効果で当時の新曲『人生峠』が20万枚を超えるヒット。続けて『夫婦酒』もヒットし、レコード歌手の第一線に返り咲く。1981年(昭和56年)、『ビートたけしのオールナイトニッポン』内の「デカ頭コーナー」で、芸能界では有名な三波春夫とのエピソードから派生し、「村田先生の頭はデカい」という話になり、どの位デカいかのネタを投稿するコーナーが誕生。「セーターを試着しようとしたら、頭が出なかった」等の「頭がデカい」ネタから徐々にトンチンカンな村田の言動や行動をネタにする内容に転じて行き、リスナーの間でブームになる。その噂を聞きつけた村田本人からニッポン放送に電話があり、急遽番組に出演して行ったトークが好評で、任侠物のラジオドラマを作るなど、同番組に度々出演するようになる。当時いわゆる「業界聴取率」が高かった同番組がテレビ番組などへも影響を与え、従来は出演しなかったバラエティー番組やコント番組などへも出演の幅が広がり、「ムッチーブーム」と言われるまでになった。ビートたけしが発した「村田だ!」のフレーズは人気となり、清水アキラが1986年(昭和61年)頃から始めた村田のものまねでさらに広く浸透した。1988年(昭和63年)、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成し、ジョイント・コンサートなどで活動した。しかし、1991年(平成3年)に長年連れ添った妻が死去。その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった春日八郎も死去したことで心労が重なり、再び持病の糖尿病が悪化。見かねた周囲の関係者からの勧めで、妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(「全国村田英雄後援会」幹部)と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(ユイ子も生前「この人ならば」と半ば公認していた)が住む大阪府門真市に身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。体調管理を行い小康を得ていたが、1995年(平成7年)頃より糖尿病の合併症が深刻となり、体も痩せてしまう。それでも、「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、ステージに立ち続けていたが、同年8月には急性心筋梗塞、欝血性心不全で一時意識不明に陥る。1996年(平成8年)2月には、白内障手術のための入院中に倒れ、6時間におよぶ心臓バイパス手術を受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。さらに5月には右下肢閉塞性動脈硬化症で壊疽状態に陥り、右膝下12センチで切断。このとき「一切無になりたかった」と剃髪(病の影響で90年代以降、かつらを着用していた)。以後は坊主頭に作務衣がトレードマークになった。1997年(平成9年)には半生記「命あってこそ」を出版。糖尿病患者のための月刊誌「さかえ」に掲載された闘病記は大きな反響を呼んだ。以後全国を回り、自らの体験を糖尿病講座などで講演。また、大月みやこ公演への特別出演という形で全国公演を実施。回復ぶりを示したものの、同年10月に低血糖発作(今まで呑んだことの無かった白ワインを酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。12月には糖尿病性網膜症のため左目を手術。2000年(平成12年)1月には左足も同様に切断。それまでは義足で歩いていたが完全に車椅子生活となる。さすがの村田も大きなショックを受けるも「足がなくても歌は歌える」と自ら鼓舞をするなど、ますますその存在感を示した。同年、村田の闘病生活を支えた愛人と「男としてけじめをつける」として再婚(但し未入籍)。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。2001年(平成13年)6月、「私にはもう時間がない、生きているうちに何としてでも世に出さなければ」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。2002年(平成14年)5月に体調を崩し入院。同年6月13日午前9時52分、合併症の肺炎のため大阪市都島区の大阪市立総合医療センターで死去。享年73。没後、勲四等瑞宝章を追贈された。


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浪曲で鍛え上げた豪快な歌声で男の世界を歌い続けた村田英雄。若干14歳で一座を率いた天才少年浪曲師が歌手に転向し、戦後歌謡界の黄金期を代表する歌手の一人にまで上り詰めた。その道のりは、生前語っていた「人生は攻め」「退くのではなく前に進む」の通りであった。九州一から日本一の浪曲師になるべく、浪曲界に顔の利く西川幸男に自ら手紙を書いてマネージメントを依頼。売れない歌手時代には、依頼を断り続ける西條八十のもとに粘り強く通い、見事『王将』のヒットを得た。晩年は闘病生活を余儀なくされ、両足切断という憂き目に遭うも、歌への情熱を失うことはなかった。同じ浪曲出身で互いにライバル同士と位置付けされていた三波春夫の後を追うかのように旅立った村田英雄の墓は、静岡県富士宮市の富士桜自然墓地公園にある。洋型の墓には「妙法 梶山家」とあり、背面に墓誌が刻む。この墓には刻まれていないが、戒名は「玉泉院英聲日楽大居士」。

# by oku-taka | 2024-02-26 10:26 | 音楽家 | Comments(0)